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古典擅釈(26) 悲しみについて『建礼門院右京大夫集』①

 八百数十年前、源平の争った時代は、日本人の心に大きな変化をもたらしたと言えます。
 平曲の調べにのせて語られる平家の栄華と没落の物語は、私たちの先祖にこの世のはかなさを教え、無常観と呼ばれる日本人の感受性の形成に少なからず影響しました。

 『建礼門院右京大夫うきょうのだいぶ集』は、その時代に一人の女性によって生み出された家集です。
 家集といっても詞書ことばがきが長く、文学史においては日記文学に分類されることがあります。
 そこには、平家の悲劇の裏で取り残された女性の悲しみが切々と語られ、『平家物語』とは異なる感動を私たちに与えてくれます。

 作者、右京大夫は建礼門院平徳子たいらのとくしに仕えた女房でした。
 徳子は清盛の娘で、高倉天皇の中宮、安徳天皇の母君です。
 今を時めく徳子のもとで、彼女も優雅な宮中生活を送っていました。
 年下の貴公子平資盛すけもりと恋にも落ちます。
 資盛は内大臣重盛の次男で、清盛の孫です。
 何事も夢のような毎日でした。

 その平安と栄華の日々の破られる日が来ます。
 源頼朝の挙兵に呼応して、木曽義仲が北陸道から都に向けて攻めのぼって来たのです。
 平家一門は建礼門院や安徳天皇を伴って、西国に落ち延びて行きます。
 資盛(23歳)も右京大夫(27歳)に別れを告げました。
 その時の手紙が『建礼門院右京大夫集』に残されています。

――このような世の騒ぎとなったからには、私がはかなき身の上となるのも疑いのないことです。
 そうなれば、あなたも少しは私のことをふびんに思ってくれるでしょうか。
 たとえ何とも思わなくても、このようにあなたと親しくなっていくらか時が経ったのですから、その情けに私の後世を弔ってください。
 また、仮にしばらく生き永らえたとしても、すべては死んだも同様に取り計らおうと固く決心しています。
 それは、あの人がふびんだとか、名残惜しいとか、心配だなどと考え始めたなら、それだけでもきりがないと思うからです。
 心の弱い人間で、これからどうなるか、我ながらよくわかりませんので、これからは何事もあきらめて、あなたのもとへ手紙を差し出すこともすまいと心に決めています。
 ですから、『私を忘れて便りもくれない』などとは思わないでください。
 すべて、もう死んだ身と覚悟したはずなのに、やはりともすると元の気持ちに戻ってしまいそうなのが、とても残念です。――

 資盛の篤実な人柄と右京大夫に対する愛がしみじみと伝わってくる文面です。
 右京大夫は言葉もなく、ただ涙に暮れるばかりでした。

〈補足〉資盛は殿下乗合事件(資盛の一行が摂政藤原基房の牛車と行き違った時に下馬の礼を取らなかったために恥辱を与えられたが、その報復として平氏の武者が基房を襲撃したという事件)を起こしているので、傲岸不遜というイメージがあるかもしれませんが、かの事件は彼がまだ9歳頃のことであり、彼自身は直接関与していなかったのではないでしょうか。


 やがて恐ろしげな源氏の侍たちが都に姿を現しました。
 この後に起こる恐ろしい出来事を思い、泣き疲れて寝たある夜、彼女は夢を見ます。
 資盛がふだん見慣れたままの姿で、激しく吹く風の中、もの思わしげな様子でぼんやりと立っていたのです。
 言葉も交わせないうちに、夢は覚めてしまいました。


 風に吹きさらされる資盛の姿は彼の運命の象徴です。
 右京大夫は実際に見た夢を書いただけなのでしょうが、この描写の中に、資盛の悲しい結末、右京大夫の絶望的な悲哀、社会の不穏や時代の激変などが凝縮しています。
 『建礼門院右京大夫集』という作品を象徴するようなシーンだと私は感じます。
                             〈続く〉

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