オッペンハイマー
遅まきながら、『オッペンハイマー』を観る。
ごめんなさい、感動できず。
以前内田樹が、アメリカ映画で、船が沈みそうになり、奴隷黒人を海にどんどん投げ捨てた際に、黒人が喝采していたと言っていた。
それが映画なんだと。
そうなのか。
私は、日本政府の愚策と、対ドイツ用に用意した原爆をどうしても使って研究成果を見せたいがために、広島と長崎の罪なき多くの人が、犠牲になったことが、どうしても頭から離れなかった。
オッペンハイマーがもっともっと苦しみ、良心の呵責に苛まれるべきだと思ってしまった。
さて、ジェンダー的視点からみると、前半、オッペンハイマーが恋人と愛し合う場面で、彼女だけが胸を露わにし、オッペンハイマーは服を着ていた。
なぜ女性だけが服を脱がなければならないのか。
『ジョゼと虎と魚たち』でも妻夫木聡はどこまで脱いだか覚えていないが、江口のりこと池脇千鶴は胸を大胆にさらけ出していた。
(上野樹里だけは服を脱がなかった。この差もどうかと思うが)
映画のシーンで女性だけが服を脱ぎ、男性が服を着ていることが多い場面ばかり観ていると、いつの間にかそれが内面化され、実際の性的交渉もそのようになりかねない。
ジョゼはまだわかるが、オッペンハイマーは、昨年度作られた。
インティマシー・コーディーネーターが存在する今の時代においてもそれは変わらないのだ。
オッペンハイマーにおいて、その乳房を観客に見せることは物語にとって重要だったのだろうか?
そういうことが気になると、映画に集中できないよ。