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【小説】18.44の物語

「おい! 大丈夫か!」
「重体だ……」
「早く担架を持ってこい!」
ナショナルリーグ1893年シーズン。この年、球史に残る大事故が起きた。
頭を抱えて蹲るバッターは、ピクリとも動かない。端から見れば、死んでいるようにも思える。
「お前の暴投のせいだぞ? おい!」
 スタンドからの怒声を一身に浴びるピッチャーは、顔の血潮を無くし、青々とした表情を呆然と浮かべていた。
「とりあえず、危険球で退場な」
 冷徹な視線の審判に呟かれた彼は、とうとう目の生気を無くし、頭の思考を白にせざるおえない。
 数多の球場スタッフがグランドに現れ、本来主役であるはずの選手がただ目の前の焦燥を眼前に写して立ち尽くすのみ。一部が焦り、一部が見守り、一部がただ立ち尽くす。この異様な光景は、長い野球史の中ではさほど珍しいことでもない。
しかし、今、この光景だけは、野球史に重大な影響を与えた出来事と言っていいだろう。そう、これこそが、18.44の〝きっかけ〟であることは、まだ誰も知らない。
 
 
 1893年。まだ、アメリカ野球にメジャーリーグという存在がなかった頃、給料制で
野球リーグに参加するプロ野球選手というものが現れ始めていた。
 彼らは、仕事として野球をする集団である。このプロ野球選手なるものの出現により、野球のレベルは急激に上昇し、それに伴うルール改変が急務とされていた。
「今回、臨時で招集させて頂きました議題は、先日のアモス・ラジー投手による暴投で、頭にボールが直撃したアマチュア選手が4日間、意識不明の重体に陥り、命の危険もあったことから……」
 二十人ほどの図体のいい中年、高年どもが左右に居並ぶ会議室で、一人だけ肌艶のいい書記は、一つ、深刻なため息を吐き、次の発言を躊躇った。次に発する言葉が、今の野球界において最もナーバスにならなくてはいけない事象であることは、野球に関わる者であれば誰もが知っている。
 かといって、言わないわけにもいかない。書記は、覚悟を決め、
「ピッチャーと、キャッチャーの距離を、伸ばすか否かであります」
 会議室は、しんとなる。
 この議題は、実は二十年も前から議論の対象となっており、賛成派と反対派が拮抗した状態となっていた。
 もし下手な発言をすれば、相手派閥に袋叩きに会う可能性がある。野球界がナーバスになる要因は、ここにあった。
「私は、距離を長くすることに関しては賛同しかねますな。硬いボールを使用している以上、怪我をするのは致し方ないこと。距離のせいではありません」
 静寂を脱したのは、この会議室でも一際、肌の皺が目立つ高年の男であった。静寂を切り裂く者は普通、相手派閥からの攻撃を受けるものであるが、今回ばかりは相手派閥、つまり賛成派も口を噤み、遠慮がちとなっている。
男は、野球界の重鎮であった。1880年まで45フィート(約13.7メートル)であったピッチャーとキャッチャーの距離を、1881年から50フィート(約15.2メートル)に改編をさせた立役者である。そんな重鎮に楯突けば、今度は自分が攻められてしまう。そんな思惑から、彼の発言には如何なる者も反論ができない。はずであった。
「ドレック氏、確かにその意見は一理あるかも知れません。しかし、元ピッチャーの私の経験から言わせると、50フィートはあまりにも近すぎる。この距離ではピッチャーの暴投も距離が近いがために避ける時間がなく、頭にあたった威力も計り知れない。現に、バッター、ピッチャー問わず、バッテリー間(ピッチャーとキャッチャーの距離)についての苦情がこのルール改変議会にも届いております」
 会議室の誰もが驚きの目となる。それも、そのはずであった。重鎮に楯を突いたのは、書記の次に肌艶のいい、何の功績も挙げていない30代前半の男であったからだ。
「えーと、君の名前は何て言いましたかな?」
「ルイス・マテオです」
「ああ、ルイス氏。距離が近すぎるというのはあなたの主観でしょう」
「苦情の中には距離の短さに関係するものもあります」
「苦情なんて、常にあるものですよ」
「確かにそうかもしれません。ですが、この議題が未だ決定しないことによって、命の危機に瀕した選手がいたのです。そこを慎重に……」
「いい加減にしろ! 若造が」
 ドレックの左隣に腰を下ろす中年が、迎いに座るルイスに向け、荒い怒声を上げた。
「お前がいま反論しているのはドレック氏だぞ。わかってんのか?」
「もちろん。おかしいと思ったことには反論する。議論では当然の事ではありませんか」
「はっ。何でこんな世間知らずがこの議会にいるんだよ」
「どういうことですか?」
「上下関係を弁えられないやつが何でここにいるのかって言ってんだよ」
「目上の方には反論するなと言いたいのですか?」
「当然」
「おかしい……。トーマス氏、あなたとは話にならない」
「あ?」
「何ですか?」
 二人の眉間には寄せ皺が溜まり、出来る限りの眼光を向けている。眼光の力量は一進一退である。が、やはり、若造の出る幕ではなかった。「おい、若いの! 先輩に向かって何て目つきをしとるんだ!」「なに顔飛ばしとんじゃ! どつくぞごら!」反対派閥からの荒声が響き渡る。
 ルイスはそれでも目の鋭さを変えないでいるが、単身、重鎮に食い下がった若造を庇うほど、ルイスの属する賛成派閥とてお人好しではない。
 次第に、ルイスの眼光は孤立し、日によって紅色へと包まれる白人の肌は、冷たい劣勢の汗を帯び始めた。
「何といっても、めんどくさいですからな……」
 突然、気抜けた声で、気抜けた発言が聞こえた。声の主は明らかである。ドレックだ。会議室のほぼ全員が己の方を向いたのに気付き、ドレックは少し驚きの眼を開ける。
「いやはや、やはりそうでしょう。昨今の野球情勢を見ていれば、確かにナショナルリーグ、アメリカンリーグと、アメリカの野球リーグは絞れてきてはいますが、未だ、極々小規模なリーグも合わせれば、数は十を超える。もしバッテリー間の距離を変えるとすれば、これらすべてのリーグに連絡、徹底をさせ、来年度のシーズンまでにはすべての球場を新たな距離へと統一させることになる。想像以上に骨の折れることです。現に、十三年前がそうでした」
「ドレック氏のご苦労、お察し致します」
 得意顔のドレックに、トーマスはルイスとの睨みを止め、頭を下げる。
「あの時は大変でしたなぁ」
 ドレックの発言を皮切りに、13年前の45フィートから50フィートへの改変に携わった高年の者どもが感傷的な雰囲気を作り出す。会議室は先刻までの殺伐とした空間をかき消すように、互いが互いを労り合うような和みの空間へと変わっていき、次第に高年どもの顔が現在へと離れていく。
 そんな緩む空間に、一つだけ張り詰めた眼光は、
「……。あんた、それでも野球人かよ……」
 空気を切り裂くように、低い怒りが飛び出した。ルイスは目の黒点を極小とし、赤い血管を浮き彫りにさせている。
「あんた、野球のルールに携わる資格ねぇよ……」
「何ですか? 一体」
「ここは野球ルールの最高機関だ! ここで決定したことが新たな野球の歴史を作るんだ。それが何なんだ? めんどくさい? ふざけたことを抜かすな‼」
 ルイスの怒り顔は会議室の全てを拍子抜けさせた。
「めんどくさいというのは、それほど改変は労力のいることだということです。子供のように怒鳴ることないでしょう……」
 呆れた表情を繕うドレックであるが、当のルイスの表情は更に怒りを帯びていく。
「めんどくさいことなど何もない! 私たちが議論しているのは来シーズンのことではないのです。今後百年の野球界について議論をしているのです! 今後百年を考えれば、私どもの苦労など端こと。なぜそれがわからない?」
 「今後百年」当時の野球人からすれば、まだまだ現実離れも過ぎる話であった。誰もが口元に手を当て、嘲笑を抑えている。
「今後百年……。少し、議題がずれていると思うのですが」
 ドレックは嘲笑の顔を隠そうともせず、崩れた輪郭で問かける。
「ずれてなどいません。今後百年、野球というスポーツを存続させるには、安全で、尚且つフェアなバッテリー間が必須。そのためには、やはり今この瞬間、距離を長くすることに舵を切るべきなのです」
「あんま、笑はせんなよ若造……」
 嘲りと呆れが混在した表情で、改めてトーマスはルイスの視線へと眼を向ける。
「何が笑えるのでしょうか?」
「お前の発言すべてにだよ」
「人が真剣に話しているのに笑ってしまう……。そんなあなたの習性に私は笑ってしまいます」
「あ?」
「何ですか?」
「まぁまぁ、皆さん落ち着いて」
 優しい笑顔で仲介するのは、居並ぶ会議室のなかで唯一、その中心に座る、とろけるような細目の老人であった。
「二人とも血が上っているようですし、ひとまず休憩としましょう」
「お言葉ですが議長、まだ会議は始まったばかりかと」
「おいっ! 議長のいう事まで反論すんのか?」
「そういうわけではありませんが」
「そうだろう。反論とかいって、本当は自分の考えを押し付けたいだけじゃねぇのか?」
「それを言うなら、あなたは私に反論するなという考えを押し付けている」
「つけてねぇよ……」
「つけてます」
「休憩!」
 優しい笑顔が少し歪んで声を張り上げる。それを合図に、他の者たちも呆れた表情で席を立ち始めた。
 
 
「血気盛んなようですな」
「議長……」
「ハントでいいですよ」
 一人会議室に残されたルイスに、ハントは薄い湯気の立つコーヒーを手渡した。会釈ばかりの反応をして口につけると、苦い。すかさずコーヒーと共に机においてくれた角砂糖を三つばかし落としていく。
 それを笑顔で見つめるルイスに、
「ハント氏、私には解せないことがあります」
 真剣な表情でルイスが、傍らに座るハントへ顔を向けた。
「ドレック氏はバッテリー間の距離を45フィートから50フィートへと改変させた立役者であると聞いております。つまり、バッテリー間は長くした方が良いという思想の持ち主だ。それなのになぜ、今回の議論では現状維持を唱えているのでしょうか?」
 若者の真剣な眼差しは、時にあらゆる経験をした老人を無意識に追い詰めることがある。
「そうですな……」
 口ごもるハントに「なぜ?」と、ルイスは悪気というものを知らず、問い詰める。
「……。恐らくですが、面目が立たないのです」
「面目?」
「はい。ドレック氏がバッテリー間の距離を50フィートにしたのは1881年。今年はそれから13年目。ドレック氏はこの距離で、未来永劫、バッテリー間の距離が定まると思っていました。しかし、実情はこの距離でも選手たちの苦情は相次ぎ、挙句の果てに大事故も起きた。このまま素直に引き下がっては、ドレック氏の面目はなくなってしまう。たったの13年で自分の定めた距離を変えさせることなどできない。そう、考えているのです」
「…………」
 ルイスの目は、床を映している。正直、ドレックがそのような実情でバッテリー間の距離を反対しているとは思わなかった。ルイスに、一つの感情が芽生え始めている。
「くだらない……ですな」
「え?」
「自分の面目のため、己に嘘をつき、野球界の事を二の次に考えているのでしょう? くだらないとしか言いようがないではありませんか」
「そうかも……しれませんが……」
 ルイスは、苦しそうな視線のハントをしり目に、拳を口に当て、少し思案をする表情を見せた。
「やはり、バッテリー間の距離は長くするべきです」
「野球界の……ためにですか?」
「はい。私は、距離を伸ばす事に反対の方たちも、それぞれの思い、信念があり、この議論に出席しているのだと思っておりました。しかし、現状は違った。反対思想のドレック氏は己の面目、栄誉のため、意地を張っている。他の者たちはそんなドレック氏の過去の権威に踊らされて賛同しているだけ。そんな方たちの論を通すわけにはいきません」
 言い終わるルイスの眼は、覚悟に満ちていた。
 暫くの休憩があった後、二回目の議論が行われた。が、その議会においてルイスは一切の発言をしなかった。トーマスはそんなルイスに「おい、さっきの気勢はどうした?」というような挑発をしたが、彼は一言も声を発さない。理由は、誰にも分からなった。
しかし、何の声も発さないその目は、生気に満ち溢れていたことだけは確かであったろう。
 
 
現在のメジャーリーグで使用されている野球場は、すべて20世紀以降に建造されたものであり、1893年時点での野球場はもはや現存されていない。そもそも、19世紀の野球場は、野球場と呼ぶよりも、広い空き地を野球使用に改編させたグラウンド。という方が正確の拙い物であった。
「たくっ、急に呼び出したと思ったら、キャッチボールですか?」
 コルク色の地面は朝の光沢を一身に受け、まるで地上の星空のように、到るところで光の粒が数多の鮮やかな色合いで輝いている。程よい風がグランドの砂を動かし、地上の踏み心地を快適にしてくれていた。
「そういうな。学生の時以来か?」
「引退した後もしょっちゅう付き合わされてた以来です」
「じゃあ、これはその続きだな」
 急に手渡されたミットで先輩の送球を捕る。相変わらず、回転がとても綺麗だ。
「…………」
「先輩、あんな重鎮に楯突いたら不味いんじゃないですか?」
「おかしいと思ってるのに何も言わない方が不味いだろ。お、ナイスボール」
 高校の時からいつもそうだった。この男は曲がったことが大の苦手だ。相手が誰であろうと、おかしいと思ったことには真っ向から反対をする。高校時代、チームの方針で監督と揉めだした時は冷や汗をかいたが、その度に責任をもって解決してきた。この背中を見ていると、世の中に腐ったところなど何もないように思えてくる。
「先輩の球も、衰えてませんね」
 回転のいい先輩の球よりも、彼は、目の前の世界に光を照らすような、そんな背中に憧れた。いや、慕ったと言った方がよいか。だからこそ、野球を止めたのちも、ルール改変議会の書記として、先輩の背中を追い続けた。
「お前は俺のすることを大人しく見とけ。俺が腑抜けになったら駆逐すればいい」
「あなたは死ぬまで腑抜けにはなりませんよ」
 球の縫い目を弄る先輩は、苦笑いを繕っている。照れくさいのだろう。苦笑いの中に微小な嬉しさが滲んでいることは、高校時代から一緒にいる後輩からすれば一目瞭然である。
「でも良かったよ、お前のキャッチングが衰えてなくて」
「まぁ、このくらいは……」
 ミットの芯で取らなければ決して鳴らない「パンッ」という綺麗な音を奏でらせ、彼は怪訝な表情を繕った。
「何か……企んでます?」
「別に」
 と、拍子抜けした声を発するが、明らかに何かを考えている。そもそも、何の目的なく朝っぱらから後輩をグランドに呼び寄せるなど……あの先輩ならありえるが、基本はありえない。
 そんな、時であった。
「お、きたきた」
 友人が来たかのような待望の目に方角を合わせると、眼を見開くしかない。
「どうも……」
 そこに佇んでいるのは、身長が190を超えようか、だが背の高さに負けず、筋骨の張り出た体躯に、木の幹を眺めているかのような図太い腕をぶら下げている。黒々とした肌のまさに巨人としか言いようのない男であった。
 書記は、驚きの表情を隠せない。この人物が誰であるかは、野球に関心がある者であれば容易に判断がつく。
「ア、アモス・ラジー⁉」
 コルクのグランドに舞い降りたその男は、今、バッテリー間議論のきっかけとなった事故を起こした張本人であった。
「あの暴投から、調子はどうだ?」
「…………。バッターに投げるのが、怖いです」
「そうか……。まぁ、とりあえず投げてみろ」
 ラジーに、自分がつけていたグローブを手渡す。
「え? てことは……」
「ラジーの球、捕ってくれ」
 自分でも血の気が引いていることに気が付いた。アモス・ラジーは、球界を代表する剛腕だ。まだスピードガンというものがなかった時代、球速の真相は定かではないが、当時、プロの選手とて彼の剛速球を打つのは至難の業であったという。
 そんな彼の球を、現役の野球選手を引退した男に捕れという。下手をすれば大怪我を負いかねない事態だ。
「無理ですよ! 僕、全然練習してないですし。そんな、頭に当たっただけで四日間意識不明にさせる球なんて、絶対無理ですよ!」
 取り乱す後輩の表情をしり目に、得意顔の中に冷静さを浮かべるルイスは、
「安心しろ。ラジーには、少し後ろから投げてもらう」
「ん? どういうことです?」
「俺が考えている、理想のバッテリー間で投げるんだ」
 ルイスはマウンドから離れ、ズボンのポケットに入れていた巻き尺でマウンドから後ろにかけて何やら距離を測ると、乱雑に地面を蹴って仮設のピッチャープレートを作った。
「ここだ」
 ラジーがそこに立つと、190センチが少し小さく見える。
「これは……」
「60フィート(18メートル)だ」
 ラモス・ラジーという男は、空気というものを読めないらしい。ルイスの得意顔に目もくれず、普段よりも少し遠い距離でさっそく振りかぶる。
「え、ちょ……」
 書記は慌ててキャッチャーの構えを整え、刹那放たれた剛腕の球を何とかミット中へと納める。その瞬間、彼の胸は正体のわからない高揚に支配された。

「今回の議会も引き続き、バッテリー間の議題を取り上げさせて頂きます」
 義務的な声だけ発して席へ腰を下ろした書記の表情は、前回の憂鬱を映していない。明らかに信念を持った、凛々しい表情をしていた。
「前回も言わせて頂きましたが、私はやはりバッテリー間の距離を長くするのは反対です。それに伴う労力が大きすぎる」
 今回も、ドレックの咽から議論が始まった。この時、ルイスは初めて気づいたのであるが、重鎮のドレックが発言をするまで、この議会の出席者は声を発するのを遠慮しているらしい。
 この発見に一筋の憤りを覚えたルイスは、
「議論の前に、一つだけ報告したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
 遠慮というそぶりを一切とらず、手を上げた。
「今回は喋るんだな」
 ドレックの隣に腰を下ろすトーマスが嘲るような顔で腕を組む。
「前回、二回目の議会で発言を自粛したのは、確信がなかったからです」
「確信?」
「はい。距離に関する確信です」
 ルイスは、怪訝な表情と反感的な表情が混在する会議室を一通り見回すと、
「もし、バッテリー間の距離を伸ばすのであれば、今現在の距離から10フィート伸ばした60フィートにして頂きたい」
 会議室は一瞬、静寂となる。目の前の発言を受け入れられない静寂だ。
「お、お前、馬鹿か? まだバッテリー間の距離を伸ばすかどうか議論をしている時に
60フィート……。呆れてものが言えんわ!」
 いち早くルイスの発言を理解したトーマスが、動揺しながらも呆れた表情で罵る。その罵りを真顔で聞くルイスは、他の者が同調する前に、もう一度手を上げ、
「私の言い訳よりも、書記の意見を聞いてもらえませんか?」
 上げた手を、書記の座る方角へ向けた。
 議会に出席する者が一斉に、怪訝ながらも居並ぶ最後尾へと目を向ける。書記は、あらかじめこの状況を知らされていたのか、何の動揺も見せず、話し出した。
「書記の私が発言をするのは恐縮ですが、少し話をさせていただきます。今日の早朝、私はルイス氏にグランドへと連れられ、暴投事故を起こしたアモス・ラジー投手の球を受けてきました」
 会議室は動揺し、全体に落ち着きがなくなる。
「ラジーの球を、君が捕れたのですか?」
 動揺には目もくれず、ドレックが、興味本位で眼を見開いた。
「規定の距離であったなら、恐怖心が先行してしまったでしょうが、今回はルイス氏が提唱する60フィートの距離で投げましたので、何とか捕ることが出来ました」
「ルイス! お前、ラジーと書記に何てことさせてんだ!」
 トーマスは、ルイスへと向き直り怒鳴りを上げるが、直後
「聞いて下さい!」
 と、声を張り上げる書記にしぶしぶ、真剣な真顔から離れた。
「最初は私も何をやらされているか理解が出来ませんでした。しかし、ラジー投手の球を
60フィートで一球捕った時、驚きました。60フィートは、今後100年、野球の発展の礎となり得る距離です」
 「100年」の妄想に嘲りの笑みへと変わる会議室の表情をしり目に、高揚の輝きを眼に写す書記は話を続ける。
「具体的な話をさせて頂きますと、今の規定、50フィート(15.2メートル)では、
バッターは基本、1、2のタイミングで自分のミートポイントへと球を呼び込み、スイングをします。しかし、この2回のテンポではバッターは球を見極めるという時間的余裕がなく、ミートポイントに来た球を己の反射神経を使いスイングをする。という単純な作業になってしまいます。これの何が最も危険かと言えば、皆様方もご存じの通り、暴投です。球を見極める余裕がないということは、危険な球が来ても逃げるという判断が出来ないことを意味します。これは、私共が思っている以上に危険であり、今後の野球界において最も懸念すべき問題であると心得ます」
 会議室の何人かが、嘲りの表情から、真剣な、思案の表情へと変わっていく。
「そこで、60フィートです。60フィートは、今の規定から10フィート遠くなっただけあって、タイミングを取るテンポが、もう一段回、増やすことが出来ます。つまり、今まで1、2でタイミングを取っていたバッターは、60フィートにすることで、1、2、3という新しい、余裕を持ったタイミングの取り方をすることができ、ピッチャーから放たれた球がバッターのミートポイントに到達するまでに、ストライクなのか、ボールなのか、ストレートなのか、変化球なのか、変化球ならどのような変化なのか。という球を見極める行為が可能になります。このことにより、もし、ピッチャーが危険な暴投を投げても、バッターはその球を危険だと判断することができ、今回のきっかけとなった事故も極力、減らすことが出来るでしょう」
 書記はもう一度、会議室を見回す。すると、ほとんどの者が思案の顔へとなっていた。書記は、これに確信し、
「だからこそ、60フィートは今後100年の礎となり得る距離なのです!」
 高揚の混じった得意顔が、言い放った。
「なるほど……。それが、あなたが考える確信ですか」
 両肘を机へと着け、口の前で左右の指を交わすドレックは、何の感情も芽生えていないような、無の表情で、ルイスの目を凝視した。
「はい。ちなみに、60フィートは私が実験した中で最もバランスの取れている距離だと判断したものです」
「うん……うん……」
納得したかのような表情で何度も首を縦に振ってから
「で?」
 嘲り、軽蔑、哀れみ、その全てが詰まっているかの表情で、真剣な眼差しのルイスに、首を捻った。
「で? と、申しますと?」
「60フィートにする利点は確かにわかりました。あと、書記は言っていませんでしたが、60フィートにすることでバッターだけでなく、守備陣にも余裕が生まれ、より打球の反応が早くなり、劇的なプレーも期待できるでしょう」
「では……」
「だから、賛成してくれとでも?」
 ルイスを見下している表情の眼には、一筋の怒りが浮かんでいる。
「あのですね……。あなたもピッチャーであったのなら分かると思うのですが、今、野球リーグに加盟をしているピッチャーは、何年、今の50フィート(15.2メートル)の距離で投げていると思いますか?」
「13年ですが……」
「そうですね。13年。あなたのいう100年に比べたら、端時間かもしれません。ですが、スポーツ選手としての寿命で考えるなら、とてつもなく長い時間だ。あなたは、その13年、ピッチャーたちが積み上げてきた技術、感覚、心構え、それらすべてを、あなたの信念のために無にするつもりですか?」
「50フィートが60フィートなったくらいで、ピッチャーたちが積み上げてきたものが無になるとは……」
「なるんだよ‼」
 ドレックの拳が机の木目を殴りつける。響く音は、会議室を反響し、音が止む頃にはよりいっそう、静寂を引き立たせていた。
「私が、45フィート(13.7メートル)から、50フィートにバッテリー間の距離を変えたことはご存じですか?」
「はい、もちろん……」
「私はそれを死ぬほど後悔している」
 微少に俯くドレックの姿に、ドレックを崇拝していた反対派閥の人間は驚きを隠せない。いつも、ひょうひょうと、冷静沈着なドレックが、机を殴りつけ、顔を俯かせている。それだけで、この状況の重大さを会議室内に周知させていた。
「私とて、50フィートに改編をさせた時は、これで野球の歴史も大きく前進すると、そう、思っていました。しかし、実情は違う。ピッチャーは、私が思っている以上に繊細な生き物だった。50フィートの距離に馴染むどころか、今まで積み上げたものがなくなったと、調子を落とす者、精神に悩む者、全力でピッチングが出来なくなるもの……。私が距離を改編したばっかりに続出しました」
 眼を赤に充血させているドレックは、天井へと頭を擡げ、
「多くの者がクビになった……」
 呟く。
 しばらく天井を眺めると、赤の充血を落ち着かせたドレックは、ルイスの目線へと向き直り、
「こんなこと、本当は話したくはなかったのですがな……」
 濁りのない苦笑を浮かべた。
 俯き、嘆き、苦笑。そんな、ドレックの一部始終を、ルイスは変わることのない真剣な眼差しで見つめている。この苦笑の奥隅には、想像も絶するような苦悩があったことは、確かであろう。
今のバッテリー間がもし、50フィートでなかったのなら、ルイスは恐らく60フィートの提案すらできていない。ルイスは、ドレックの礎の上で、ドレックと戦っている。そんなことを、今更自覚してきている。
 ドレックの眼が充血した時、ルイスの胸にあったものは同情でも、哀れみでもなく、感謝だった。この、皺の多い高年の苦悩により、自分は今、60フィートという確信で戦えている。そのことへの感謝が、不意に、無自覚に、湧き出ていた。
「ありがとうございます」
 頭を垂れずにはいられなかった。ドレックは拍子抜けした表情を浮かべているが、しょうがない。自己満足である。だが、これからもドレックと戦っていくためにも、この言葉だけは伝えたかった。
「どういうことかわかりませんが、私はあくまで反対ですよ」
 彼は彼で、確固たる信念があった。それでいい。議論とは、そういうものだ。これこそ、今後100年の野球を考えるのに相応しい。
 頭を上げたルイスの顔には、微少な笑みがこぼれている。
 これで、心おきなく、最後の切り札を切ることが出来る。心おきなく、戦える。
 ルイスは一つ、深呼吸をした。思考の浸りから議論に戻るため。
「確かに、距離を改編させるということは、ピッチャーにとっては大きな負担となり、それによって選手生命に関わる者も現れるかもしれません。しかしです。私は、今日の朝、グラウンドでこんなものを頂きました」
 ルイスが机の上に置いたのは、一通の手紙だ。
「これは、今日の朝、私の提案する60フィートでピッチングをして頂いたアモス・ラジー投手の懇願書です。この中には、バッテリー間の距離は60フィートが最適である。このままの50フィートの距離では、私だけでなく、距離が近いがゆえの大事故がまた起こってしまう。今後の野球界のために是非とも、60フィートの距離にして頂きたい。という要望が書き綴られています」
 ルイスは一度、会議室を見回した。誰もが動揺した様子で、ルイスの言葉に反感する意欲のある者はいない。
「先の大事故の原因となってしまったピッチャーがこのような懇願書を書いているのです。これは、検討する余地があるのではないでしょうか?」
 懇願書を得意げに持つ若造に、反対派閥は圧倒された。
 辛うじて、トーマスが、
「そんなもの、朝に無理やり書かせたんだろう!」
 と、反感するが、
「そうですな……。これは、検討の余地がありそうだ」
 野球界の重鎮であり、反対派閥の盟主だったドレックが、いとも簡単に賛同したことで、
議論は、決まった。反対派の連中は、ドレックがなぜこんなにも簡単に折れたか理解ができないでいたが、ルイスには、わかる。
 ドレックは、自分の思い、信念を、ルイスにぶつけた。ルイスは、その思い、信念を受け止めたうえでなお、60フィートを提唱する。もはや、ドレックに太刀打ちなどする術も、意欲もなかった。
「それでは、60フィートでバッテリー間を伸ばす。という方針で検討を行う。皆様、よろしいですかな?」
 今までの議論を、相変わらずの優しい表情で眺めていた議長は、少し、引き締まった顔で問かけた。
「賛成」
 最初に、声を発したのは書記だ。にやついた顔で、ルイスの顔を向く。その後も、賛成派はもちろん、盟主の折れた反対派も「賛成」の声が上がる。
 ここに、20年以上も議論の対象になっていたバッテリー間の論争は終結した。

 史実によれば、この年の次のシーズン、1894年シーズンから各リーグ一斉に60フィート6インチ(18.44メートル)の歴史が始まったという。
そして、この、60フィート6インチという距離が、その後、野球ルールがどれだけ改編されようと、変わることなく、今の野球へ繋がる礎となっている。
 しかし、この18.44メートルの物語には、もう一つ、重要なエピソードが残されていた。

「先輩! 大変です」
「なんだよ、一体……」
「私の議事録の字が汚いばっかりに、0インチが6インチと勘違いされて、60フィート(18メートル)ではなく、60フィート6インチ(18.44メートル)でルールブックに印刷されてしまいました!」
 書記の顔は焦燥に溢れている。が、ルイスの顔は、それを裏切るように、
「ま、いいんじゃないか?」
 剽軽な顔となる。
「え?」
「これからプロの野球選手もどんどん増えて、野球のレベルも上がっていくだろうし、いんじゃないか? 6インチくらい増えても。ちょうどいいかもしれない」
「え? 本当に、いいんですか?」
「いい、いい。もうそれでいけ」
「わかりました……」
 
本当の話。

         

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