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【小説】菊理、骨折れなり 上

 口持臣は、唖然とした。
 今まで、下級役人の家柄から大王のお役に立てるような忠臣となるため、武芸、勉学に励んできた。己の生まれに胡坐をかく豪族の子息をよそに、このヤマト政権のため、勤労にも従事してきた。遊びの時間を割き、この国の行き先を誰よりも案じてきた。己はこの国のため、大王のため、何ができるか。誰よりも試案をしてきた。
 そんな己に好機が巡ってきたのは、つい三日前のことである。
 高津宮におられる大王が、直々に己を呼び出したのである。
 胸が弾むような思いであった。今日に至るまでの努力が、全て報われるような思いであった。
 高津宮に向かう道中、高揚の思考で、どのような下知が下されるか予想を巡らせた。
「大王は、多くの渡来人を招き入れていると聞くから、その者たちの技術を使い、土木工事でも御命じになるのか。それとも、昨今不仲となりつつある新羅へ遣わすのか……」
 思考を巡らすたびに、期待というものが纏わりついてきた。
 下知の詳細は聞かされるまで定かではないが、これから、口持臣の活躍が始まるのは確かなのである。
 そう、思っていた。
「口持臣よ、どうか頼む」
 このような形で、大王に頭を下げられるとは夢にも思っていなかった。
「妻の磐之姫を、連れ戻してきてくれ!」
 思考がだんだんと白くなる。
 己に出された下知は、渡来人を使った土木工事でも、新羅への使いでもない。
 別居中の妻を連れ戻す。
ただ、それだけであった。
「は………は!」
 泣きたくなる感情を抑えつつ、出した威勢のいい返事は、それでもどこか悲し気であった。
「口持臣よ、お主の勤勉さで筒城岡におられる皇后を説得するのだ」
 大王の左隣りに控える、ヤマト一の忠臣、武内宿祢はめんどくさそうな表情をしている。
 大王と皇后の不仲など、先代の大王から仕えてきた側近には、どうでもいいことなのであろう。
「もうよい。行け」
 落胆を滲ませる弱弱しい表情へ、武内宿祢は手を払い除けて去るよう命じる。
「し、失礼致しました」
 吐息のような返事を返し、そろそろと上座から離れていく。
「頼んだぞぉ。お主が頼りだぞぉ」
 剽軽な大王の言葉に怒りを覚えるのは、無礼なことであろうか。
 
          *
 
 どうでもいい下知を与えられる者は、どうでもいい人間なのである。
 吐息を漏らすのは、今日で何回目であろうか。確かに、己のような下級役人に大それた役目が命じられるわけがなかった。驕っていたことは否めない。
しかし、それでも、別居をしている妻を連れ戻すなど、誰でも出来ることではないか。己でなくとも、よかったではないか。
「旦那様。さように落胆されていては、皇后様を説得するなど無理ですよ?」
 我が妻の陽代は、絵にかいたような良妻であった。淑やかで賢く、ヤマト一の妻だと本気で思わせる。
 にこやかな笑みを浮かべる良妻は、料理の手を止めると、横たわる旦那の側へ腰を下ろした。
「そうであるがな……。やはり、大王直々の下知だった故、どうしても期待をしてしまっていた」
「大王と皇后を仲直りさせるのも立派な勤めではないですか」
「そう……だな……」
 口持臣は、苦笑の顔を頷かせる。そんな旦那へ、陽代は体をにじり寄らせると、
「旦那様は、菊理となればよいのです」
 自信に漲る顔で、自身に漲る声を発した。
「菊理? なんだそれは」
「ほら、伊弉諾尊と伊邪那美尊を仲裁したという、人と人との仲を取り持つ神様ですよ」
「聞いたことがあるような、ないような……」
「とにかく、大王と皇后様の仲を取り持つなど、菊理ほどに凄いことなのですから、頑張ってください!」
「…………。まぁ、腐っても大王の下知故、頑張らざるにはいられんだろう」
 口持臣は、吐息のような言葉を漏らすと、ゆっくりと重い体を起こした。
「さて、これからどうするか……」
 おもむろに、まな板に置いている漬物をかじると、眉間に皺をよせる。
「これからと、言いますと?」
「大王と皇后の仲を取り持つため、まず何をしようかと考えているのだ」
「…………」
「なんだ、そのあっけらかんとした顔は」
「まずすることなど、決まっているではありませんか」
「決まってる? 何が」
「…………。本気で……言ってます?」
 
          *
 
口持臣には、一人の妹がいた。名を、国依姫という。国依姫は、大王の正妃である磐之姫の下女として働いており、筒城岡で暮らしていた。
 そう、口持臣の妹は、仲を取り持つべき別居中の妻の、側勤めをしているのであった。
「わしが直々に下知を下されたのはこれが理由か……」
「兄様。何をぶつぶつ言っておるのです?」
 国依姫は、兄の表情を覗き込むようににじり寄る。
「いや、まぁな……」
「そもそも、今日は一体何の用で呼び出したのですか?」
「…………」
「早く言ってください。今日は兄様のために、わざわざ御休を賜って来たんですよ?」
「うむ……」
 口持臣は、己の拳を口にあて、思わず口籠る。
 妹に願い事をするなど、これが初めてであった。
男は、強く逞しくあらねばならず、母や妹を助けることすれ、願い事を頼むなど一度もしたことがなかった。照れ臭いという感情が、頬を赤く染めている。
「その、磐之姫様について相談があるのですよ」
 口持臣の隣に腰を下ろした妻の陽代は、朗らかな笑みを義理の妹に向けた。
「磐之姫様に、何か?」
「磐之姫様が今、夫である大王と別居同然で筒城岡にお住まいになっているのはご存知でしょう?」
「そりゃあ、まぁ」
「実は、我が夫が大王から直々に、磐之姫様を高津宮に連れ戻せという命を受けまして、何とか、側勤めをしている国依媛に説得をして欲しいのです」
 陽代は一瞬、夫の顔に目を向ける。「最後は自分で締めろ」という目であった。
「どうか、頼む……」
 口持臣と陽代は、深深と頭を下げた。
「…………。う~ん……」
 下げた頭越しに、妹の苦しい吐息が聞こえると、
「ちょっとそれは、難しいかもしれませぬ……」
 思いもしなかった答えが返ってきた。
「難しい? 夫婦の仲を取り持つだけではないか」
 顔を上げた無垢な怪訝の表情に、国依姫は呆れ顔を左右に振る。
「兄様。磐之姫様がいつも、大王についてなんと言っているか知っていますか?」
「何と、言っているのだ?」
「大王は、いつ死ぬのかえ?」
「…………」
 己でも、表情が固まったのがわかった。
「かような言葉を発する御方が、寄りを戻されると思いますか?」
 妹の諦めの表情が、己に与えられた試練そのものを現しているように思える。仮にも夫婦の契りを結んだ相手に対し、「いつ死ぬのかえ?」という言葉がなぜ出てくるのであろうか。
「な、なぜ、磐之姫様は左様にも、大王を嫌っているのだ?」
 妹は、また一つ苦し気な吐息を漏らすと、
「八田皇女の件ですよ」
 呆れなのか、諦めなのか、よくわからない表情を浮かべた。
 八田皇女は、大王の側室である。彼女は、男であれば誰もが目を見張る美貌の持ち主で、ヤマトの国中で評判の的であった。それは一国の主とて例外ではなく、噂を聞きつけた大王は、夢中となって八田皇女を側室として宮中に迎え入れるよう準備を整えた。
 ところが、それに気づいて腹を立てたのが、磐之姫である。磐之姫は、あの女と同じ場所にいたくはないと、大王の暮らしている高津宮から出ていき、北に遠く離れた筒城岡に屋敷を構えた。
 それから一月、磐之姫は一切の大王からの使者を遮断し、別居体制を確立していたのであった。
「最低……」
 国依姫の説明に、頬を引きつらせたのは陽代であった。
「私も、磐之姫様には同情します」
 女衆が、苦虫でも噛んだかのような表情をする。
そんな中、きょとんとした表情の口持臣は、
「そうか? 位の高い者が幾人も妻を持つのは当然のことではないか」
 何の疑問も芽生えていない口調をした。
「…………」
 陽代と国依姫は、呆れた表情を腑抜けた顔に向ける。
「兄様には、一生かかっても磐之姫様の説得は無理です」
「え……?」
 妹の思わぬ冷徹な目に、慄いてしまう。
「いや、その……なぁ?」
「確かに、無理ですね」
 助けを求めるように向けた妻への視線も、無残に葬られる。
 二人の表情を見、初めて己の発した言葉が失言と気付いた口持臣は、
「い、いや、そうだな。正妻がちゃんといるにも関わらず、側室をとるなどもっての他だ。お、大王は最低だなぁ」
 苦笑の顔で取り繕いの言葉を並べた。
「じゃあ、その正妻にお子が生まれなかったらどうするのですか?」
 妹同様、妻の陽代も冷徹な視線を夫に送る。
「そ、それは……側室をとるしか……」
「側室をとるのは、最低ではないのですか?」
「…………」
「まぁ、側室をとること自体は事情がありますから、仕方ありませんよ?」
「あ、そうか! 八田皇女が美女だから、磐之姫様はやきもちを焼いておられるのか!」
「…………」
 陽代と国依姫は、もはや冷徹とも言い難い冷めきった目をしている。
「じゃ、じゃあ、大王はいかがすれば磐之姫様を怒らせずに済んだのだ!」
 口持臣は逆上をするように、床板叩きつけた。
「…………。自分で考えてみては、いかがですか?」
 陽代がこんなにも冷たい視線で冷たい言葉を発するのは、初めのことであった。
「そうですね。不仲になった原因が分からなきゃ、説得など到底無理でしょうし」
 国依姫も、陽代と同じく冷たい言葉を投げかけると、
「まぁ、大王の仲裁に兄様が今後来られるとは、伝えておきます」
 帰り支度を始めた。
 
「何なのだ、お主らは」
 妹の国依姫が帰ったあと、口持臣はずっと不貞腐れていた。
「人を子馬鹿にするように冷たい視線ばかり送りよって……」
「旦那様が何もわかっていないのが悪いのですよ」
 陽代は、呆れた口調を変えずに玄米、胡瓜の漬物、塩を口持臣の前に置く。口持臣のような国家の役人であれば、ここに魚などがつくのが通例であるが、現大王である仁徳天皇の節政により、役人の夕餉も質素となっている。
「ですが、あの聖君と呼ばれる大王が側室に目が眩むとは、意外です」
「男というのはどれだけ仕事が出来ようが、所帯を固めようが関係ない。顔や体が美しければいかなる時でも鼻は伸びる」
 陽代は玄米を咀嚼する口を止めると、鋭い目線を夫に送る。
「男というのはそういう生き物だ。仕方ない」
 口持臣も負けじと剽軽な顔つきで、静かな食卓を漬物の咀嚼音で満たした。
 そこに
「口持臣殿はおられるか! 口持臣殿はおられるか!」
 戸を叩く音が聞こえると、高らかな高貴な声が己を呼んでいるのがわかった。
「このような夜分に、一体誰だ」
 慌てて戸を開けてみれば、したたれを身に纏った高貴な服装の役人が厳格な表情で佇んでいる。
「口持臣殿ですか。夜分遅く申しわけありませぬ。我が主の武内宿祢があなた様を呼んでおられるため、お迎えに参りました」
「…………?」
「とにかく、今から高津宮に来てくだされ」
 
         *
 
 口持臣を呼び出した武内宿祢は、大王の参謀であり、ヤマト政権の重鎮であり、この国の英雄であった。
 時には朝鮮半島に乗り出して新羅や高句麗と戦い、時には多くの渡来人をまとめ上げて溜池や橋などの大規模な土木工事を成功させてきた。
 先帝である応神天皇との政務は、まさに聖人君主の権化であり、口持臣にとってはまさに憧れの対象であった。
「く、口持臣でございぃする」
 憧れの人物と初めて、しかも突如として一対一で対面する。高津宮に設けられた武内宿祢の居間の戸を前に、思わず声が裏返った。
「よく来てくれた。入れ」
「し、失礼……致しまする……」
 恐る恐る戸を開けると、そこには見たこともない朝鮮半島や漢王朝の品々が居間全体に飾られている。
 その中央奥に、龍を象った椅子に座り、漆黒の机に肘をつく武内宿祢は
「お主も」
 迎いに置かれた麒麟を象った椅子に催促する。
 紅と金が装飾された豪華な椅子は、やはり飾りとしての意味合いが強く、座り心地がいいとは言えない。
「このような夜更けに呼び出して悪いな」
「い、いえ。滅相もありませぬ」
 緊張により表情が引きつる口持臣をしり目に、武内宿祢は政治の色に染まった鋭い眼光へと表情を変えていく。
「口持臣よ、必ず磐井姫を高津宮に連れ戻してきてくれ」
 国家の英雄にここまで真剣な視線を送られた者は恐らく数えるほどしかいないだろう。口持臣は緊張感の中にも多少の優越感を持って
「お、仰せの通りに! 必ずや、磐井姫様を連れ戻して参りまする!」
 黒の机に額がつくほど、仰々しく頭を下げた。武内宿祢はそんな口持臣の態度に少し目を綻ばす。
「わしもな、当初は大王と皇后の不仲などどうでもいいと思っておった」
「え………?」
「しかし、めんどくさいことが起きての、お主の責任が重大となったのだ」
 武内宿祢は再び表情を険しくすると、
「大王が、雌鳥皇女まで妃としたいと言い出したのだ」
 苦しそうに頭を掻いた。
 雌鳥皇女は、今、大王の側室である八田皇女の姉であり、妹にも勝るとも劣らぬ美貌の持ち主であった。八田皇女で味をしめた大王は、皇后である磐井姫と別居状態であるにも関わらず、雌鳥・八田皇女の美貌姉妹を己の手元に置きたいと考えたのである。
「いやはや、何というか」
「最低だな」
 何の屈託なく、大王に対し「最低」と断言する武内宿祢に少し萎縮する。
「しかし、大王がただただ最低なだけであるなら別に構わぬ。女癖の悪さなど、政治の補佐であるわしにとってはいざ知らぬことだ」
「そのような言い方でありますと………」
「そうだ、今回の大王の女癖の悪さは、政治にまで影響が及んでおる」
 大王が側室として迎い入れようとしている雌鳥皇女には、恋仲の皇子いた。大王の異母弟にもあたる隼別皇子である。
 二人が恋仲であり、いずれは結ばれるだろうということは朝廷内では周知の事実であり、手出し無用の婚姻とみなされていた。しかし、大王はそんな暗黙などいざ知らず、大和政権の女子はすべて自分のモノであるかのように、隼別皇子との婚姻を破棄させ、雌鳥皇女を己の手中へと誘おうとしている。
「当然、隼別皇子が黙っているはずがない」
「そ、そうなった場合………」
「皇族同士の内乱。も、あり得るだろう」
 口持臣は一つ、大きな唾を一重に飲み込む。
「お主の責務がどれほど重要か分かるな?」
 武内宿祢は険しい表情を崩さず、後ろの棚から青銅製の小剣を取り出すと、
「大王の女癖を直すには、皇后である磐井姫に戻ってきてもらうしかない。もしそれが叶わぬのなら………」
 青銅の鞘が、口持臣の左胸を静かに突いた。
 
「旦那様、さっきから変ですよ?」
 高岡宮から家の寝床に入るまで、口持臣は険しい表情を一切崩さず、心ここにあらずの返答しかしていなかった。
「………」
 口持臣は妻の言葉が聞こえないかのように、さっそう布団を体にくるませる。
「どうしたんですか。宮から帰ってきた途端」
「………」
「何かあったなら言ってくださいよ。夫婦でしょう?」
「………」
「旦那様、旦那様」
 横になる体を揺すえど、顔を背けたまま何の反応もない。
「もう、どうしたの? くっちー。何かあるなら話してよ、くっちー」
「うるさい‼ 早う寝んか‼」
「………」
 夫の理不尽な叫びに怒りの糸が切れる音がする。腹でも殴ってやろうかと思ったが、その時、月の光に反射してなにか青白いものが光ったのがわかった。
 
           *
 
『 高津宮公主
十月一日、的臣祖口持臣是大王信使、我想精悠客気一下
癸卯九月二十日 武内宿祢
(磐井姫様へ 十月一日、的臣の子孫である口持臣が大王の使者として参ります故、丁重にもてなすこと、よしなにお願い申し上げます。 三四三年九月二十日 武内宿祢)』
「国依姫や」
「はは」
「口持臣とは、お主が以前話していた兄のことか?」
「はい。さようでございます」
「何やら十月の頭に我が筒城岡に来るそうだぞ」
「え……?」
 磐井姫から得意げに渡された木簡には、漢王朝風の洒落た文字で兄の名前が記されていた。
「会われるのですか?」
 筒城岡に屋敷を構えて以来、磐井姫が大王からの使者を話題に出すなど初めてであった。国依姫は少し驚いた表情で上座へ目線を送る。
「お主には日頃から世話になっておるしな。身内とあらば顔くらいは拝ませてやろう」
 上機嫌な口調で手前の高坏に盛られている栗を頬張る。
「兄上も喜ばれると思います。ありがとうございます」
 国依媛は感謝の言葉を述べつつ、残った栗の殻を両手で受け取った。
「それにしても………」
 磐井姫はもう一度、眼を細くして武内宿祢と書かれた木簡を眺める。
「国依姫、高津宮公主とはどのような意味か分かるか?」
「高津宮の………姫?」
「そうじゃ。政権内ではわしはまだ、高津宮いる扱いだそうだ」
「誰のせいで筒城岡の屋敷へ移ったと思っているのか………」
 国依姫のぼやきをしり目に、磐井姫は不意に真剣な眼差しとなって、
「絶対に、戻らんぞ」
 隣に控える国依姫にも届かぬ小声で呟いた。
 
           *
 
「栗で……あるか」
「磐井姫様が大王からの使者と会うなど、これが初めてのことです。くれぐれも無作法がないように」
 兄が磐井姫に謁見すると知った国依姫は、たまらず兄の家まで押しかけ、「出来れば上等な栗を」と付け足す。
「磐井姫様との謁見の許可が採れたのはわしもつい先日知ったことだ。そうせっつかれても困る」
「せっつくも何も、今回の機会を逃せば、二度と好機は巡って来ないと思ってください」
「そんなにも、特別なのか………?」
「磐井姫様は、私の身内だからと謁見を許可してくれています。私の面子もかかってるんです」
「なんと………」
「高津宮へ戻らない磐井姫様の意思は固いですが、何とか、気張ってください」
 国依姫は真剣な目線を口持臣に送る。
「…………わかった。相当の覚悟で磐井姫様に謁見しよう」
 口持臣も覚悟を秘めた表情で頷いた。
 その時、
「相当の覚悟とは、このことですか?」
 凄まじい剣幕の陽代が、青銅の短剣を口持臣の前に置く。
「何ですか? これは」
 国依姫も驚いた表情で短剣を見入る。
「こ……これは、先日武内宿祢様から頂いた短剣だ。まぁ、磐井姫を連れ戻した褒美の先払い………のようなものだろ」
「いやこれ、明らかに褒美の短剣じゃないですよ。戦で本当に使われてる型」
 口持臣は「余計なことを」といった表情で妹を睨む。
「なぜ………戦で使われている短剣を、旦那様が頂くのですか?」
「………」
「磐井姫様を連れ戻すことが出来ねば、これで、責任をとれ」
 呟くような国依姫の言葉に、陽代は必死の形相で、
「まことですか?」
 夫へにじりよる。
「………。わしは国家の役人だ。役目を果たせねばそれ相応の覚悟は出来ておる」
「何ですか! 相応の覚悟って」
 陽代は頬を真っ赤にして夫を睨む。
「………」
「何なんですか! 答えてください!」
 いくら荒い声で凄めど、口持臣は黙りこくったまま床を眺めるばかりであった。
「もう、いいです‼」
 陽代は短剣を持つと、己の衣服が入っている荷物袋へ放り投げ、
「旦那様がそのような態度なら、私は実家に帰ります」
 相変わらず床を眺める旦那へ、脅すように荒く積めた荷物袋を見せる。
「帰ってほしくなかったら、早く本当のことを打ち明けて………」
「勝手にしろ」
 やっと出た夫も言葉は、感情の芽生えていない冷徹なものであった。
「ほ、本当に帰りますよ? いいん………ですか?」
「むしろ、帰ってくれ。お主がいると役目の邪魔になる」
 冷徹な言葉を呟く夫の眼は、言葉以上に冷たいものであった。
「わ、わかりましたよ………。本当に、実家に帰りますから!」
 陽代は「干してある洗濯物、ちゃんと取り込んでくださいよ」とだけ言い残すと、荒い足踏みをたて家から出ていった。
 
「陽代がいない方が何の憂いなく役目のことを考えられる」
 陽代が出ていく一部始終を、おろおろとした表情で見つめるしかなかった妹へ、補足をするように呟く。
「陽代さんが怒ってるところ、初めてみました………。止めに行かなくていいんですか?」
 口持臣は不意に、苦しそうに頭を掻くと、
「お主は知らぬだろうが、わしの与えられた責務は思っていた以上に重大なものだ。もしかすれば、本当に命がなくなるかもしれぬ」
 死を覚悟した兵卒のような眼で、己の左胸に手を当てた。
 

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