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組織事故の教訓に学ぶ ③ 閉ざされてしまう患者と家族の未来
薬害を防ぎ得なかった社会構造(前編)
はじめに
・ 平成19(2007)年12月25日 首相官邸
福田康夫 内閣総理大臣(当時)は、C型肝炎ウイルスに感染した女性た
ちと向き合い、じっと遺影を見つめながら静かに頷いた。そして、「これ
からは皆さんに少しでも幸せになってもらいたい」と声をかけた。その言
葉に、福田衣里子さんは、「私たちにとっての幸せとは、350万人(※ 1)
もいる肝炎患者の治療体制が確立することです。そのために、闘ってきま
した。今なら、救える命があります!」と気丈に応えた。地裁判決を越え
る和解はできないとする法務省、責任を認めないとする厚生労働省と、霞
ヶ関の論理に行き足を縛られ、官邸は身動きがとれない。小泉政権時に官
房長官であった福田首相は、「ハンセン病(※ 2)訴訟で、国が控訴を取
り下げる」という政治判断を主導し、強く抵抗する官僚を強引に押し切っ
たことがあったため、この薬害C型肝炎訴訟の対応では、忸怩たる思いだ
った。この縛りを解いたのは、元官房長官の与謝野馨議員による提案だっ
た。それは、「本件は、行政判断を越えるものであるから、議員立法によ
る特別救済法を新たに創る」というものだった。
・ 平成20(2008)年1月11日 参議院本会議
「薬害C 型肝炎救済法」は、「賛成239、反対0」によって、全会一致で
可決された。福田首相の政治判断から僅か20日で成立、患者は投与時期に
関係なく、症状に応じて給付金が支給されるという原告が求め続けてきた
「(線引きのない)全員一律救済」だった。
『薬害C型肝炎女たちの闘い』(小学館)から引用
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薬害の悲劇は、誰にも起こりうる。自分自身や家族が患者で、処方や手術などに際して、これらの薬剤を使うだろうかとの思いが巡る。薬害というと、いわば副作用あるいは事件や犯罪というイメージを抱くが、そうならば販売禁止、回収などの再発防止策や関係者の処分あるいは逮捕とともに、既に薬害がなくなっていてもおかしくない。だが、現実は公害と同じで、幾度となく繰り返され続け、こうした悲劇は今も終わっていない。
薬害の問題は、安全を国の規制だけに頼ったり、報道や広告を鵜呑みにするあまり、リスクを自分で判断することを放棄してしまう危険に陥る典型的ケースである。そこで、本稿と次稿の2回に分け、関係者は、「薬剤の危険性をどのように認識し、対応したのか」、「なぜ、日本社会は、こうした重大な過ちを早期に阻止できなかったのか」、「事故の未然防止と被害拡大の
局限に何が欠けていたのか」などを改めて整理し、自分や家族、友人らを守るために、身の周りに潜む危険性の何に目を向け、何を考えるべきか、教訓や示唆を導き出すこととしたい。
1 薬害の歴史
⑴ 戦後薬害の原点:サリドマイド
『厚生省の「犯罪」薬害』などの書籍を参照しつつ、過去の薬害を振り返る。1962年秋、北海道札幌市内の病院の一室、生まれたばかりの赤ん坊を父親が抱き上げた。赤ん坊は、「両手の親指と左腕が短く、手首は固く曲がって」いた。父親は、新聞報道の記事を読んで知っており、「サリドマイドの被害だ」と直感した。母親は、産後に強いショックを受け、気がおかしくなりそうだった。「サリドマイド」は、1957年に西ドイツで睡眠薬として開発され、日本では翌1958年にDN製薬により睡眠薬「イソミン」として、1960年には僅か1時間半の薬事審議会で胃腸薬としても承認、販売されていた。妊娠初期に服用すると、新生児の手足、耳などに障害が生じるのだが、1962年1月、母親は胃痛を抑えるため、薬局でDN製薬の胃腸薬「プロバンM」を購入、服用していたのだった。
母親がこの胃腸薬を服用する僅か2か月前の1961年11月、西ドイツでは、
小児科医のレンツ博士が、「妊娠初期のサリドマイド服用の危険性」を警告していた。これを受け、発売元のGN社は僅か2 週間で製剤回収を決定した。西ドイツと同じ睡眠薬として市販を認可していた、英、蘭、スウェーデンなどもこれに続いた。この時点で、販売を中止して回収されていれば、日本のサリドマイド児の半数近くが防止できたと考えられている。しかし、日本では、厚生省、DN社ともに「奇形児発生との因果関係が、ハッキリしない」と主張し、事実上、レンツ博士の警告を無視、1年余りも発売停止にせず、1962年9月にもなって販売を停止、回収を始めたが、家庭での飲み残しの薬に対する危険性を考慮せず、周知も不徹底であったため、その後も増え続け、被害者は1,000人に及んだ。
また、マスメディアがこの海外報道を伝えることはなく、最初に報道されたのは、1962年5月にもなった夕刊記事であった。それも、信じられないことに、あくまで薬は販売の自主的中止であり、「今後も、薬局で売られることは差し支えない」というDN社社長のコメント付きであった。しかも、翌日の朝刊では「悪影響はない、心配はいらない」と学者の解説も添えるほど、製薬会社への過剰な配慮が見られた。
1965年11月、前出の夫妻は、国とDN社を相手取り、東京地裁に提訴した。1973年末から10か月続いた和解交渉の席上で、厚生省(当時)の薬務局長は、「二度と薬害は起こしません」と頭を下げた。1974年10月13日、『サリドマイド和解確認書』では、「サリドマイド禍を生じせしめたことにつき、薬務行政所管官庁(厚生省)及び医薬品製造業者として、それぞれ責任を認める」と、薬害で初めて国が民事での責任を負った。その上で、「厚生大臣及び製薬会社は、訴訟10年近くにわたって因果関係と責任を争い、この間、被害児と家族らに対して何ら格別の救済措置を講じなかったと深く反省
し、原告等に対して衷心より遺憾の意を表する」と解決を先延ばした事実を認め謝罪した。更に、再発防止にも触れ、「厚生大臣は、国民の健康保持のため必要な場合、承認許可の取消、販売の中止、市場からの回収などの措置を速やかに講じ、サリドマイド事件にみられる如き悲惨な薬害が再び生じない等、最善の努力をすることを確約する」としたのであった。
⑵ 切り捨てられる患者:キノホルムによるスモン病
サリドマイドが係争中だった1969年6月、成人式を迎えたばかりの女性が激しい下痢に襲われ、会津若松市内の病院に入院した。医師は整腸剤の「キノホルム」を投与した。しかし、女性は回復するどころか、3か月後には両目の視力が奪われ、それでも、キノホルムの投与は翌1970年夏まで続けられた。この女性を突然襲った病気は、スモンと呼ばれた。1955年頃、保健所が赤痢の予防のため、キノホルムを各家庭に配ったことから、特定の地域に集中的に発生していた。このため、感染症の噂が流れ、家族間の感染例が確認されていないにも関わらず、全国紙が京大教授のウィルスとの見解を報じたことで、結婚が破談したり、差別や偏見に苦しむ患者らの自殺が続出、大きな社会問題となった。
スモンの原因がキノホルムと特定されたのは、1970年8月、第二(新潟)水俣病を発見した新潟大学医学部教授の椿忠雄 氏(当時・故人)によるものであった。報告を受けた厚生省は、翌9月、キノホルムの販売を中止し、発生は沈静化していった。被害者は、全国で実に1 万人以上に及び、1971年からは国と製薬企業3社(TN製薬、日本CB社、TK薬品工業)を相手取った訴訟が各地で始まった。サリドマイドの和解から4年後の1978年8 月、東京地裁はスモンとキノホルムの因果関係を認め、国と製薬会社に損害賠償を命じる原告勝訴の判決を下したが、国は、「サリドマイド事件にみられる悲惨な薬害」での反省と謝罪を忘れてしまったかのように、j控訴によって平然と救済を先延ばし、臆面もなく和解による決着を図った。
キノホルムは、1900年、スイスのBZ化学工業(後のCB社)が消毒薬として開発した。日本では、1933年にアメーバ赤痢に有効とされ、旧日本軍でも使われたが、副作用があるため、投薬量、期間が厳格に管理されていた。戦後、キノホルムは既に承認済みの薬とされ、適応症を拡大するだけとして、薬事審議会の審査を経ずして、整腸剤として使用が拡大した。しかし、アメーバ赤痢に感染する国内患者は、年間僅かな人数に過ぎなかった。厚生省では、薬の安全性に関する海外の情報も業界や学会任せで体系的に把握されておらず、1961年国民皆健康保険制度の成立とともに、結果として欧米などで既に一般販売を止められていた薬剤が、日本の製薬会社によって大量に売りさばかれ、薬害の被害者を次々と生み出していった。一方、1960年8月、FDA(米食品医薬品局)はCB社に対し、「キノホルムはアメーバ赤痢の治療だけに限定して使用されるべきで、普通の下痢に使ってよいという理由はない」として、医師による処方として制限をかけるべきと勧告していた。1961 年、CB社は子供への服用を中止、大人のアメーバ赤痢に対する処方だけに改めていた。つまり、スモンは日本だけで起こった薬害であったのだ。
1971年12月、厚生省は、医薬品の再評価の実施を決定した。しかし、対処
療法(パッチ当て)の再発防止策である点は否めず、他の薬剤の被害を防止するにはあまりにも不十分で、再び後手に回ることになった。
⑶ 御用学者の存在:クロロキン
1972年、20代の男性会社員は腎炎と診断され、都内病院に入院した。担当医は、新薬を投与した。それが、ON薬品の「キドラ」という名称のクロロキン製剤であった。男性は、処方が始まって間もなく、目がチラチラするのに気付き、別の病院に移ったが、ここでもクロロキンを処方された。目の中心に近いところがキラキラ光って、向こう側がかすんで見えなくなった。不安でいたたまれなくなり、眼科に駆け込むと、医師に「クロロキン網膜症」と診断された。以来、男性は30年以上にわたり、暗闇の生活(視野狭窄)を強いられることになった。
クロロキンは、もともとマラリアの薬として、1934年にドイツで開発されたが、人には毒性が強すぎるとして、実用化を見送られていた。第二次大戦中に米軍が再発見し、戦後もマラリアの特効薬として世界各国に販路が広がっていた。ところが、1958年、日本では国立大学教授が、「クロロキンは腎臓病に有効性がある」と学会で突如発表し、状況が一変した。この発表から僅か2か月後、YT製薬(※ 3)が、「レゾヒン」の名称で腎臓病などの治療薬として販売、1961年の国民皆健康保険が始まると、KK製薬の「CQC」など後続メーカが市販薬として大量に販売し始めた。現在の薬事法では、適応症の拡大には個別の承認が必要だが、当時は、一度医薬品集に収載された薬の適応に制約がなかったことが、逆に利用されたのだ。事実、クロロキンを腎臓病などに適応して使用したのは、驚くべきことに、日本だけであった。結果、2,000人以上ともいわれる被害者を出したのだ。
そもそも、クロロキンの服用を続けると視力に異常が現れることは、1950 年代から欧米ではよく知られており、1959年の医学誌にも論文が掲載されていた。20年近くも経った1976年、厚生省は薬事審議会に諮問したクロロキンの再評価結果を発表し、日本だけで認められていた適応症(腎炎、ネフローゼ症候群、てんかん、ぜんそく)への効能を全て科学的に否定したのであった。つまり、信じられないことに、患者は効能がない上に副作用(毒性)が強い薬を延々と飲まされ続け視力を失っていったのであった。しかも、問題はこれだけに留まらない。この発表の2年前、製薬会社は副作用による被害が問題になるとして、クロロキンの製造を中止していたにも関わらず、厚生省は販売停止や在庫回収の措置を執らなかったのである。然るに、1965年当時、製薬会社に指示・勧告すべき立場にある厚生省製薬課長が、製薬会社重役から重篤な副作用の危険性を知らされ、自分だけクロロキンの服用をやめていた事実が、後の裁判で明らかになったが、道義的責任を問われただけで、社会的責任は追及もされなかった。
⑷ またも裏切られた患者と家族:薬害エイズ事件
1983~ 85年頃までに、血友病治療のために用いられた非加熱の輸入濃縮血液製剤によってHIV(ヒト免疫不全ウィルス)に感染したエイズ患者は、血友病患者の40%を超す約1,800人以上にも上ったと推定され、このうち約30%が当時15歳以下の子供たちであった。初期の感染から約10年後の1994 年には、このうち約230人が、1996年までには、実に430人以上が死亡した。この時点で血友病治療以外の理由でエイズに罹った患者数の約1,600人を大きく上回る被害であり、いかに多くの人たちが未来を奪われ、理不尽な運命を強いられたか、筆舌に尽くし難い。しかも、血友病患者という元々弱い立場で、世間の差別や偏見を恐れながら、ひっそりと生きていくことの苛酷な現実は容易に想像し得ないものがある。
出血が止まらない血友病は、現在も根治が不可能で、血液凝固に必要な因子が欠けているのを血液製剤で補うしかないとされ、患者は、古くは親兄弟などから新鮮血を輸血していたが、1967年以降、新鮮血から因子を抽出し濃縮した血友病患者用のクリオ製剤が承認されたことで、治療が変わっていった。問題が発生するのは、1978年の、更に高度に濃縮された非加熱の血液製剤が製造販売されてからであった。詳細は次稿になるが、その原料は、アメリカで売血された血液でウィルスの検査がなされていなかったため、結果として、HIVや肝炎に感染してしまった。特に、感染したHIVウィルスはエイズに発症してしまうと、当時の医療では回復することはないとされ、平均余命は数年とされていただけに、患者や家族の苦しみは大きく、焦りもあった。かくて1989年、薬害HIV 訴訟が行われることになった。被告は、国(厚生省)、非加熱血液製剤(以下「非加熱製剤」という。)を製造販売したミドリ十字、化学及血清療法研究所、非加熱製剤を輸入販売したTR社(後のBK社)、KJ(後のBL社)、N臓器製薬であった。一部原告には、C型肝炎などについても被害を訴えたい考えもあったが、裁判を早期に終結させ救済を優先するため、やむなくHIV感染に争点を絞った経緯があった。また、肝炎にはインターフェロンによる治療の望みがあると期待したのかも知れないが、これも必ず効くわけではなく、治療費も高額であった。
1994年4月、薬害エイズの遺族は、1983年当時の厚生省エイズ研究班の班
長だったA氏を殺人未遂容疑で告発、1996年2月には、別の遺族が同氏を殺
人容疑で刑事告訴した。1996年8月29日、A氏は、業務上過失致死容疑で東
京地検に逮捕された。未曾有の薬害に、ついに司法の手が入った瞬間であった。A氏は旧日本海軍の軍医だったが、最期まで、真摯な反省もなければ。エイズで亡くなった被害者遺族への謝罪の言葉もなかった。A氏逮捕の翌日、東京地検が、厚生省の家宅捜査に入った。中央官庁が強制捜査を受けることは前代未聞であり、厚生省はこうした事態を想定しておらず、対応に慌てた。続けて、ミドリ十字、日本臓器製薬にも家宅捜査が入った。ミドリ十字では、元社長(※ 4)、前社長、現社長(全て当時)の歴代3人の社長が、業務上過失致死容疑で同時逮捕となった。
A氏は、加熱した血液製剤(以下「加熱製剤」という。)の開発が遅れていたミドリ十字のために、開発を先行していた製薬会社の治験(※ 5)(
臨床研究)期間を引き延ばし、結果として治験完了を遅らせ、1985年7月に一括で承認をしていた。しかも、A氏は自ら調整と呼んだ裏で、治験参加5 社を含む6社から、総額数千万円の多額の寄付や海外学会等費用を計数十回にわたって肩代わりさせていた。この行為は、加熱製剤を約2年遅れとしただけではなく、HIV感染の被害が出始めた時期に、ミドリ十字を除く他社だけで血友病治療に必要な量の加熱製剤を十分に確保できた可能性を完全に閉ざす、極めて重大な犯罪であった。エイズ研究班の一人は、A氏の逮捕を受けて、「非加熱製剤の危険性を早くから認識していて、本来なら助けることができた多くの血友病患者を犠牲にしてしまったのだから、逮捕は当然だ。厚生省にも責任はある。」と語った。一方、遺族や被害者たちは、ミドリ十字歴代社長3人については、加熱製剤承認後も現実に非加熱製剤の在庫を出荷し続けたのだから、「厚生省が命令を出さなかったから、回収はしなかった。」との主張は理由にならない、逮捕は当たり前だと受け止めた(1996年3月に和解が成立)。
1996年10月4日、1985年7月の加熱製剤承認の際、回収命令を出さなかっ
たとして、厚生省生物製剤課長が業務上過失致死容疑で逮捕された(※ 6)。この逮捕劇に、霞ヶ関には衝撃が走った。これまで、官僚が行政上果たすべき責任を怠ったとして、逮捕されることはなかったからだ。「何もしないこと(不作為)が、責任を問われない最良の策」という論理が、もはや社会的に容認されないことを意味していた。しかし、回収命令を出さなかったことは、意図的怠慢と決めつけられない面もある。というのも、1986年2月、厚生省は「非加熱製剤を使用すれば、HIV 感染の危険は高い」として、輸入非加熱製剤を海外に返送するための緊急輸出を認めるよう、輸出貿易管理令の規則を改正する特例措置を通産省に対し要請しており、通産省は1986 年2月6日付で許可していたからだ。ただし、これは回収命令を出すことの官民双方のイメージダウンに苦慮した対応にも見える。
一方、厚生省が天下り先の製薬会社をサポートするかのように、1983年にもなって、血友病患者に非加熱製剤の自己注射について保険適用を許可し、その後に取り消さなかったことは、極めて深刻な問題であったと考えざるを得ない。こうなれば、いわば非加熱製剤の大量販売の仕組みが作り出され、加熱製剤承認後も、回収を命令されないから、在庫を売りまくることができるという悲劇の拡大生産につながってしまうことが避けられなくなったからだ。この点だけを見れば、国民の命より天下り先の製薬メーカの保護を優先したとの非難は避け難いであろう。
事実、A氏のみならず、東京、神奈川、名古屋の大学教授と製薬会社が、血友病患者を集め開催した講演会や説明会で、「エイズは心配するな。米国では採血段階で検査しているから心配はいらない。出血が怖いんだから、どんどん注射しろ」と、非加熱製剤の使用をキャンペーンしていた。しかも、血友病治療の専門病院の現場では、心配に思う患者や家族の気持ちとは逆に、徒に不安をあおらないことを理由に、HIV 感染の告知を避ける方針に固まっていった。このため、配偶者や恋人へエイズを二次感染させる二重の惨事が引き起こされていた。つまり、和解で全てが終わったわけではなかったのだ。
一方、こうした説明を信じられない血友病患者の会は、HIV感染の危険があると考え、日本の献血で日本赤十字社(以下「日赤」)が製造していた安全なクリオ製剤(※ 7)に切り替え、HIV感染を免れていた。そのため、この会の人たちは、もっと声を大にして、この真実を訴えていたら、エイズ被害は出なかったと悔しい思いでいた。然るに、こうした想いを逆なでるかのように、A氏は、櫻井よしこ 氏のインタビューで、「日本には当時、クリオは存在していなかった」と断言するなど、医師、それも血友病治療の権威とされていた人が、とんでもない暴言を遺している。しかも、耳を疑いたくもなるが、1984年9月、A氏自身が主治医である帝京大血友病患者48の血清を、アメリカの国立防疫センター(CDC)に送り検査を依頼、このうち、23人がHIVウィルスに感染した真実を知りながら、A氏自身がこの事実を公表しなかった「患者(事故)隠し」の実態があったのだ。
HIV 訴訟の法廷での、原告による次の言葉に心を痛める。
「感染してしまった私に、明るい未来は待っていません。」
「被告に、医大の医師と看護婦が入ってないのが残念でなりません。」
「血液製剤が危ないと知りながら、これをワザと見過ごした医者、
役人、製薬会社の人たち、みんな私と一緒にエイズで死んで下さい。
エイズという重い十字架を背負って、その下で潰れて死んで下さい。
これが私の偽らざる気持ちです。」
HIV 感染が大きな社会問題となると、厚生省も非加熱製剤の使用でHIV以外のC型肝炎ウィルス(HCV)に感染し、肝硬変や肝ガンになる危険性も認識しつつあったことが後に明らかになるが、1996年、厚生省による患者宛の血液検査を呼びかける手紙は、HIVだけの検査であった。厚生省は、この検査がHIV訴訟での和解条件の一つだったため、これで早く終わりにしたいと焦ったのだろうか。しかし、この頃は、エイズの治療技術が進み、むしろC 型肝炎で亡くなる血友病患者が急増していたため、更なる被害拡大を防止する道筋は遠のいてしまった。つまり、この時点で、厚生省はHIVだけではなく、HCVの調査も併せて行うことが最善だったが、結果として、多くの人命が救われる機会が失われてしまった。公害と同様に、失策のツケは弱者に回されてしまったのだった。
医療・薬剤関係者は、過去の過ちをどのように反省してきたのか、何を学んできたのか、国の再発防止は単なる表向きのポーズに過ぎなかったのかと疑いたくなるのも、仕方がないことだ。しかし、これを許してきたのは、自戒をこめて言うならば、難病に苦しむ人々に無関心・他人事となって、献血を積極的に行わず、結果として外国の売血に頼った私たちにも責任はあったのであろう。
日本人ないし日本社会は、他の事故と共通する次のような安全上の課題があると考える。
① 国民に対し、安全に係る医薬品や食品などのリスクを分かりやすいよ うに、情報提供されていない。
② 上記の社会の現実に加え、国民も安全に関して、国と事業者任せにな
っている社会の特質がある。
③ 日本人は、法律や制度、基準、技術などで安全に守られている意識が
強い。
このため、国に事故等未然防止の役割を強く求める傾向が強いように窺われる。しかし、まずは、「自分の身は自分で守る」ことが重要である。近年は、感染症の拡大の影響で、健康であっても、ワクチンの接種を受ける機会とともに、市販薬や健康食品等の急速な普及で様々な薬やサプリメント等を口にする機会も一気に増えた。一般論ではあるが、接種する人のアレルギーや持病の有無はもとより、年齢・体格・体力などの個人差又は体調など、様々な要素が健康被害に関係してくると考えられる。「皆が受けるから、皆が吞んでいるから、大丈夫だろう」ではなく、具体的なリスクを含め個人や各家庭ごとに慎重な判断が求められるのではないだろうか。 (後編に続く)
■参考文献等:後編で、まとめて掲載する。
■注釈及び補足の解説
(※ 1) 手術に伴う輸血の他、原因として特定されていないが、集団予防接
種での連続注射= 回し打ちでB型肝炎に感染したと予測されている患者
数などを含めたものと考えられる。出産時、産婦人科で止血又は予防
として投与された製剤で、C型肝炎に感染した患者数は、数万〜数十万
とされる。
(※ 2) 「 らい病」と呼ばれ、らい菌が鼻粘膜や気道などから侵入すること
で感染するとされてきたが、防疫免疫機能が働く人の感染は非常に少な
く(現在、日本では年間数人)、感染の仕組みは解明されていない。症
状は、「変形」と「身体障害」で、1950年代初めに薬物治療が開発され
た。療養所と称しながら、らい予防法による患者の「強制隔離」、「労
働」、「断種」、「懲罰」、「解剖」等が後に大きな人権問題となった
が、かつてマスメディアは、この政策を支持する報道を行った。
NHK は、ETV 特集「僕は忘れない 瀬戸内ハンセン病療養所の島」で取
り上げた(2013年10月12日)。
(※ 3) 同社は、過去の事実を消し去るかのように、YT 製薬との吸収合併の
後、WDに社名を変更、再びMT製薬との合併を繰り返し、MWとなっ
た。他の関連製薬企業も、次々と社名を変更していった。
(※ 4) サリドマイド和解時、二度と薬害は起こしませんと謝罪した薬務局長
が社長に天下りしていた。
(※ 5) 治験の制度は、日本人に適しているかどうかを検査するものだが、海
外で既に承認済みの薬も対象になるため、難病に苦しむ患者や家族
は、新薬の認可を得るまで多くの時間を要し、自己負担が大きいと改
善を求め、現在は薬剤や医療器具は大幅に期間が短縮され認可がされ
ている。また、治験は、国内メーカが新薬開発で海外メーカに追いつ
くための時間稼ぎをする国内産業保護の側面があり、海外からは非関
税障壁の制度だとの批判もあるが、2002年に僅か5 か月でスピード承認
された抗ガン剤イレッサ(マスメディアは高く評価した)が、薬害を
引き起こした事実を踏まえると、安全を考えれば、承認の審査期間を
短くすることは、必ずしも良い結果を生むとは限らない。
(※ 6) 意見陳述では、「生物学的製剤の使用に伴う公衆に対する危害の発
生を未然に防止するための主体は、厚生大臣であって、職員はその補
助である」と、それ故、責任はないとの発言をしている。元課長と元
社長2人は有罪判決が確定したが、元社長1 人は控訴審中に死亡。A氏
は1審無罪で控訴審中に死亡した。
(※ 7) 1988年の毎日新聞の記事によると、輸入非加熱製剤は、85年(250
単位)で日本の価格が24,162円、米国の実勢価格は4,545円だったが、
日本保健機関から病院に支払われる際、薬価基準で同じ価格になる。
つまり、病院や医師にとって、輸入血液製剤は処方すればするほど儲
かる。この仕組みこそ、当時報道されなかった薬害エイズの真相であ った。しかも、米国で危険として使われなくなったがこの製剤を更に
格安で輸入し、薬価の差益(クリオ製剤の薬価差益はほとんどゼロ)
がどんどん膨らんでいった。医薬品メーカは、患者の自己注射用に処
方箋を書いてくれる病院や医師と組み、宅配便を始める会社まであっ
た。厚生省(当時)による試算(公表)によれば、1987年における1
年間の薬価差益は、1 兆3,000億円であった。