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航空自衛官が追う日航123便墜落の真相御巣鷹山事故論争に終止符を打つ (予告編)

まえがき

 私と御巣鷹山事故(1985年8月12日に発生した日本航空123 便墜落事故。以下「123 便事故」)との接点は、事故後26年が経った2011(平成23)年の夏のこと、航空事故調査と航空事故防止の教育研究等の任務を担う航空自衛隊航空安全管理隊への赴任直後に始まった。それは、飛行部隊等の安全係幹部を育成する課程教育の学生研修に同行し、事故機の残骸が保存展示されている日本航空(「日航」)の安全啓発センターを訪れた際のことであった。同施設で事故発生の経緯、事故原因などの説明を受ける度に、「運輸省航空事故調査委員会(※1)(「事故調」)によれば・・・・」との一節が冒頭に添えられ、これを殊更に強調していることに違和感を覚えた。日航も社内調査をしたはずだろうに?と何か釈然としないものを感じると同時に、事故調査結果に関し依然として納得していない人が各所に存在するという実情を窺い知ったのだった。事故調は、事故原因をボーイング社(「ボ社」)による後部圧力隔壁(「隔壁」)の修理ミスと推定し、これが原因で隔壁に運航に伴う応力疲労による亀裂が生じ、徐々に進展して墜落に至ったと結論づけたが、それが事実なら、事故発生以前に与圧の漏れによる客室内の異常やフラッター(※2)のような操縦の異変、何かしらの兆候が必ずあったはずであり、乗務員がこれらの事象発生に気づかないはずがなく、同時に日航による点検整備でも発見されなかったということであれば、不具合が放置され続けたのが真の事故原因ではないのか? 「何故だろう? 何か変だ」という自らの問いかけから逃れられなくなった。今にして振り返れば、この時点でこの事故を調べてどうするのかさえも考えてもみなかったが、自身の航空機整備として培った実務上の知見に加え、課程教育の責任者としての気概、関心から、なぜ事故発生を未然に防止し得なかったのか?その疑問は次第に大きくなった。著者は航空事故調査の専門家ではないが、今では上下2 冊計556頁に上る『事故調査報告書』(『報告書』)をはじめ数多くの資料を手に取ることができ、立場上も時間的にも、従って思考の範囲においても先入観や制約がない強みがあると考えた。勿論論理的な見通しなどはなく、調べていくうちに様々な主張や溢れかえる謎を紐解くにも作業は膨大で、決して容易ではなかったが、裏付けのある技術的見解であれば、調査結果を覆すことも不可能ではないとの自信を次第に深め、事故の真相を究明すべく、当時行われた事故調査の検証に挑み続けた。
 同年夏は、奇しくも運輸安全委員会が、「これまでの疑問点について、できるだけ分かりやすく説明するため」として、『報告書の解説』(『解説』)を公表した時期であった。これは、その前年に『報告書』に関する疑問を8.12 連絡会(※3)(遺族会のこと。)がとりまとめたものを基に作成されたものであった。遺族や国民に向け、分かりやすい『解説書』を作成しようとした試み自体は評価するが、内容はというと事故調査に対する疑念が更に深まるばかりで、正直なところ、事故発生の因果関係を簡略化、矮小化し、後知恵でもっともらしい説明(釈明)をしたに過ぎないのではないかと甚く残念に思えてならなかった。そもそも遺族が突如として日常を奪われ、「なぜ、大切な人が亡くなったのか」が分からず、どう自分自身を納得させたらいいのか、事故後25 年の⾧きにわたって悩み苦しみ共に励まし支え合い、「何とか自分たちの手で本当の原因を明らかにしたい」と事故の真相究明を願いつつ、「墓前に報告する」ことで、「霊を慰め、失われた命を活かしたい」との切なる想いから行動を続けた結果がもたらした『解説』であっただけに、真にその期待に応じ得たのかと首をかしげたくなるほど、ひどく失望させられ、憤りすら覚えた。
 『報告書』では、事故発生の根本的原因はボ社による隔壁の修理ミスとされたが、果たして本当にそうなのだろうか?安全に関する数多くの著書で知られるスウェーデンのルンド大学のシドニー・デッカー教授は、航空機のような高度で複雑なシステムでは、単一の要因が事故を引き起こすことはないとの見解を示している。例えば企業などの安全教育の場において、事故発生のプロセスを図式化した、「事象のチェーン(連鎖)」を用い、事故は事象が連鎖した結果、発生するものであり、この鎖を断ち切ることで事故を防止することができると説明されることと考え方は基本的に同じである。

Captain's Speakingから転載

 つまり、123便事故の場合でも、仮に事故発生の起点が隔壁の修理ミスであったとしても、その後にも種々の事象の連鎖(事故要因)を経て事故に至ったはずである。事故当時批判された乗員は事故に至る不可避点の最後の段階、立場にいたとはいうものの、むしろボ社の作業ミスを誘引ないし助⾧したりした背景的要因とその後の運航や整備に係る様々な要因にこそ真の事故原因が潜んでいると捉えるべきである。更に、そもそも人はミスを犯すものであるからこそ、そのミスが見過ごされ、不具合の事象(事故発生の兆候)となって表出した以降も重大な事態の発生に気付かず、事故を未然に防ぎ得なかったことの方こそより重大な問題であり、事故調査ではこのようにして幅広な教訓をいかに引き出すかが同種事故の再発防止はもとより、将来にわたる安全確保のために一層重要なはずではないのか。その意味では、『報告書』は真の目的を果たせてはいないと断言できる。
 調査結果から一つのストーリーに従って済々と推論を下せるようなケースはむしろ稀で、航空事故であれば、設計、製造、整備、運航などの複合した要因が事故を引き起こすことの方が必然的に多いと考えるのが自然である。当時の事故調査官・調査委員が証拠となる機体の残骸や生存者の証言などを正しく分析して、事故の実相を引き出せていたのかどうかといえば、殊更批判が根強い調査結果となっただけに問題は少なくないと見て差し支えない。言い換えるなら、これらの資料を調べ尽くして、冷静かつ客観的に評価をし直せば、ある程度納得できる事故原因、背景的要因を導き出せるのではないか。つまり、既存の資料も、また新たな視点を加えさえすれば、それそのものが新たな証拠となり得るものとなると考えた。ともかくも事故調による見解は調べた限りの範囲で分析を行ったものであり、原因もあくまで推定したものであって、特定はできていない。時間的猶予や人員、経費など諸々の制約がある中、任された役割を果たそうと懸命に取り組んだとはいえ、調べなかった、あるいは調べられなかった範囲には事故発生に影響した可能性がある他の要因に結びつく断片的事実が確実に存在する。当然ながら、調べた(取り上げた)範囲が狭いほど調べられなかった範囲の方が大きい。
 1987年6月19日運輸大臣への『報告書』の提出をもって調査を終了した際の記者会見で、委員⾧である武田峻 氏は、『報告書』の自己採点は70点と評し、「これで全てが終わったのではなく、この『報告書』をもとに、様々な討論、検討を加えて、航空機の安全と事故防止に役立てていただきたい」との所見を述べ、原因の追究に限界があるとの本音とも思える調査の実情を語りつつ、『報告書』が唯一無二のものではなく様々な意見があってよく、論議すべきとの考えを示した。あれから35年余りが経過し、報道が伝えるところによれば日航では事故当時を知る社員は僅か4%未満になったという。こ
の間日本の航空会社では幸いにも乗客の命が失われる事故は発生しなかったものの、当該航空事故は今日に至るも単独機の事故として、世界最大の惨事であることに変わりはない。だからこそ、航空業務に従事する者にとって、この事故はケース・スタディとして特別な存在であり続け、様々な教訓や示唆をわれわれに語ってくれる。そこで今日的視点に立ち、当時の調査状況などを見つめ直し、明日の空の安全につながる遺されたメッセージを読み解くべく、しばし事故の衝撃で止まった時計の針を巻き戻すこととしたい。
                         令和3年2月18日
 
  本稿は、在職中に部内での審査を経て、出版予定であった作品を掲載  
  するものです。良くも悪くも、関心を呼びやすい内容ですので、真実を
  知りたいという方々に向けた記事としつつ、また今後の執筆活動の糧と
  すべく、本編(3部構成)は有料で公開しております。

目 次

第1部
1 問われ続ける『報告書』の意義
2 事故の責任追及を巡る日米対立
3 米側の思惑と報道に翻弄される調査
4 杜撰な現地調査の実態
5 残骸が語る墜落の真相

第2部
6 B747の設計とSR機の運航、事故機固有の問題
7 隔壁の破壊は、想定外であったのか? 
8 証言から見えてくる機内の状況
9 低酸素症はなかった
10 公開されないはずだった音声データが暴く真実

第3部
11 油圧低下= 操縦不能の恣意的言い回し
12 大韓航空機撃墜事件との対比による検証
13 浮かび上がる垂直尾翼崩壊の全体像 
14 誰のため、何のための事故調査か
15 『報告書』に隠されたメッセージ 
16 悲劇を再び繰り返さないために
17 おわりに
あとがきにかえて 

■ 注釈及び補足説明

(※1)  事故調査委員会は、1971(昭和46)年7月30日の全日空機雫石空中衝突事
  故(御巣鷹山事故以前は、国内で最大の事故)を機に、航空事故調査委員
  会として、1974(昭和49)年1月11日に運輸省の審議会等として設置され
       た。2001(平成13)年10月1日、航空・鉄道事故調査委員会に改編され、
       2008(平成20)年10月1日、海難審判庁を統合し運輸安全委員会に生まれ
       変わった。しかし、依然として国交省に直属する特別の機関であり、米
       国家運輸安全委員会(NTSB)のように行政や業界から完全に独立した存在
       とはいえず、構造上の欠陥は残されたままとなっている。
(※2)  フラッターとは、空気の流れからエネルギーを受けて起こる振動で、
       流れの速さがある限界を超えると急激に振動が拡大し空中分解する。旧
       海軍の零戦の開発時も、これによる墜落事故が続発したが、事故調査に
      より現象発生のメカニズムが解明され、他機にも対策が施された。123
      便事故では、異常音発生の前にFDRに横方向の加速度(細かな振動)が記録
      され、同時にCVRにも周波数の振動としても記録され、事故調が、「防
      震装置によって吸収できないほどの著しい機体の振動や空気流が発生し
      たと推定」した事実をもって、フラッターの発生が事故原因とする見解
      もある。
(※3)  8.12連絡会による活動は、事故後、徐々に実を結びはじめ、2005(平成
      17)年4月25日、JR 西日本福知山線列車脱線事故を機に、社会的弱者とい
      う苦境に陥った被害者、家族・遺族の支援に関する社会的関心が高まっ
      ていった。御巣鷹山事故調査終了から21年が経過した、2008(平成20)年 
      10月、運輸安全委員会が発足し、「被害者及びその家族又は遺族の心情
      に十分配慮し、これらの者に対し、当該事故等調査に関する情報を、適
      時に、かつ、適切な方法で提供する」ことが法律上義務付けられたこと
      も大きな成果の一つであった。

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