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東日本大震災 災派活動の舞台裏    空自空輸部隊司令部を支えたプロの流儀(前編) 

第1回:発災直後の様子

 巨大津波と原発事故という誰も経験したことがない甚大な災害が東北を中心に日本各地を襲った。あの東日本大震災から間もなく 14 年が経とうとしている。自衛隊の災害派遣は、これまで被災地での捜索・救助活動はもとより、給食給水や入浴の 生活支援など、様々な面で報じられてきた。その一方で、人員や救援物資の輸送等、後方の面で支えた部隊の活動や司令部内での様子が語られた記憶はない。また、毎年3月11日の目前になると、津波による被災の映像がテレビで繰り返し流され、自然災害の猛威を伝えつつも、関連死を含め全国で2万人近くにも及ぶ人命を奪った未曾有の災害であったにもかかわらず、どのようにしたら一人でも多くの人命を救えたのか、思索の機会を与える番組もさほど多くないと感じる。筆者は、当時愛知県の小牧市、豊山町、春日井市にまたがる第1輸送航空隊(以下「1輸空」)司令部の装備部長として勤務をしていた。当時司令部内の状況やその際の対応などを振り返り、航空輸送部隊の災害派遣活動の一端を紹介するとともに、自省の念を込めつつ、教訓などを記録しておく。
 それは、そう遠くない日に到来した。というのも、2011(平成23)年3月11 日の週初め、宮城県沖大地震による災派活動を想定し調達した物品の一つである折りたたみ式のソファー・ベッドが入荷し、事務室内に新たに整備したミーティング室兼待機室に搬入して皆で使い勝手などを確かめたりした 2、3 日後に地震が発生したからである。この日は折しも金曜日で、地震発生時私は体力練成のための持続走を行っていた最中であった。ちなみに、航空支援集団(以下「支集団」)隷下部隊の所属自衛官に対して、持続走は1 年間の総計で1,000km を走破するよう求められていた。このため、普段であれば業務終了後の19時頃から装備部総員で持続走を行うところ、金曜だけは家族サービスを心がけるよう定時退庁を促す目的で、持続走は各自ごと仕事の合間をみて交替で行うように指示していた。このため、仕事は忙しいながらも率先垂範を示す必要があった。 私は、司令部隊舎から南に向け基地の外柵沿いの道路を通って滑走路の端で折り返す、 6km余りのコースを走ることを常としていた。いつものごとく、部下に走る経路を伝え、何かあったら、直ぐに車両で向かえに来て欲しいと言い残し執務室を出た。こ れは、携帯もなかった時代に、誰に教えられるでもなく、自分の居場所を明らかにしておくという習慣であった。折り返して司令部に向かって戻る途中、道路左隅にある使用されていない防火水槽が偶然目に入った。不可思議なことに、風も吹いていないのに中に溜まった雨水が大きく揺れあふれ出ていた。その瞬間、滑走路など主要地区の地下には豊富な伏流水が流れているため、その地盤構造故に長周期の地震振動が都内高層ビルを襲ったように、地表面をゆっくりと大きく揺さぶり、雨水があふれ出ているのではないかと思い描いた。
 

旧防火水槽(第3空団時代の遺構)

 走る速度を可能な限り上げ、10分も経っていなかっただろうか、 前方を注視した。すると、迎えに来てくれた部下の車両が目に入った。私は部下に、「東北か」、「震度はいくつか」と続けざまに質問しつつ乗車した。部下は、「震度7、 東北です」と答え、携帯を差し出した。私は、先任者である計画班長に「私が到着するまで、事前に準備したとおり動け!」と改めて指示したが、災害派遣に部下を送り出した経験はあっても、自身が従事することははじめてであり、激しい動揺を抑えるので精一杯であった。このとき、入隊後 20 年目の節目を迎える直前、年齢は44歳に達し、地元での初めての勤務であった。
 急ぎ着替え、指揮所に入った。既に指揮所は開設されており、隊司令、副司令、私を除く各部長等は定位に就いていた。私は、遅れたお詫びを申し上げるべく隊司令に無言で一礼すると、隊司令は「うむ」という感じで応じた。当時の1輸空司令部は、隊司令(空将補)、副司令(1佐)のもと、監理・人事・装備・防衛の4部と基地渉外室から構成され、各部等の長(2佐~3佐)のもとには、機能別の各班長(3佐~2尉)を長として総勢 10 名前後の部下隊員を有していた。1 輸空は、発災現場から遠隔地にあり、自治体の長から災害派遣要請を直接受けることもなければ、航空機による情報収集を行う状況にもなかった(現在は、震度5弱以上で地震発生地域近隣の指定部隊等の長が行うよう「防衛省防災業務計画」に定められている。)。指揮所のモニター画面に映し出された震災の被害状況を見るに、いずれそう遠くない時期に、捜索・救 助のための人員や災害派遣医療チーム(DMAT:Disaster Medical Assistance Team) であるとか、救援物資などの緊急空輸が上級司令部である支集団司令部か、あるいは航空幕僚監部(以下「空幕」、ただし厳密には統合幕僚監部)から命じられるであろうことは誰もが容易に想像したが、それがどのような形で、いつ始められるのかなどは全く予測できなかった。そうした中、部下は私の指示を待つことなく、人員の待機や物資を集積する場所、それらを輸送する車両を受け入れる駐車場の整備、輸送機に物資を搭載する際に使用する器材の他基地からの借用などを先行的に行うため、電話で慌ただしくやりとりしていた。スピーカーから流れる無線電話の内容に聞き耳を立て、情報収集に努めている指揮所内では騒がしく目立つため、その種の業務は少し離れた事務室内で行うよう指示した。その一方で、各業務の進捗状況は、指揮所内の誰からも一目瞭然に見えるように基地概略図などを記し予め作成しておいた掲示板を運び込み、手書きでリアルタイムに表示した。
 防衛大臣から各自衛隊に大規模震災災害派遣命令が発出されたことを知らされたのは、18 時過ぎのことであった。それまでの間は、隊司令の判断で指揮所を開設したまま、所属員全員の待機が続けられていた。ちょうど、その少し前の時分であっただろうか。隣の席の人事部長から、「現在の待機に引き続き、その後は災害派遣活動が当面続くだろう。そうであれば、食事や入浴の手配をしなくてはならない。例えば 1 週間程度であれば、缶詰などの緊急糧食や備蓄燃料などでどうにか賄うこともできようが、その先は現場に食材や燃料を調達させるにしても年度末で予算が残っていない。どうするのだ(それは装備部長であるお前が早急に解決すべきだ)」と問題を突きつけられる格好となった。人事部長は防衛大学校(以下「防大」)の先輩で、学生時に所属した部活動も同じであったから、装備部長としての私の体面を気遣い、誰にも悟られることがないようにひそかに助言をしてくれたのであり、実に有り難かった。平素の食事については、予算は基地内に居住する隊員のための分しかなく、食材も喫食を事前に希望した人数分しか確保していない。それを遙かに上回る大量の食料と膨大な量の燃料などを確保しなくてはならないが、追加の予算を要求しようにも年度末なので支集団司令部も空幕も如何ともしがたい。しかも、それは小牧基地に限ったことではなく、他の基地も同様である。さらに困ったことには、季節柄、まだ外気温は低く、基地内施設に暖房を入れたり、入浴のために湯を沸かすにも、熱源となるボイラーを焚き続けなくてはならないが、糧食同様に燃料の余裕もあまりないと考えられた。宮城沖大地震に対する災派活動の想定を行い、ある程度は準備していたというものの、予算の融通性がない年度末にそれが来るという事態は、全くの想定外であった。当然ながら、問題を解決するにはかなりの困難が予測される。電話でのやりとりも、激しいものとなるかもしれない。私は、人事部長に「事務室にいます(何かあれば呼んでください)」とそっと伝え、次級者の計画班長と航空機整備業務の掌握を担う整備班長とその部下を指揮所に残し、予算及び補給業務を担う補給班長、ボイラーをはじめとする施設業務を担う施設班長らを連れ立って、事務室へと足早に向かったのであった。

第2回:予算的制約の突破

 私は事務室に戻るなり、補給班長、施設班長らを前にして、「年度末だから、予算に全く余裕がない。食事は当面缶詰などで我慢するにしても、汗して働く隊員のために風呂はどうにかしてやりたい」と克服すべき課題を自分の言葉で示した。これを、仮に、「人事部長がこう言っていたんだけれど、どうしようか」などと他人事のように伝えたら、部下のやる気は下がる。若い時分から意識して身に着けてきたことが普段どおり口から出た。すると、補給班長は、「燃料は確認をしてみますが、航空機用を含め当面は支障ないと思います。ただ、食事が缶詰では・・・・・・」と口を濁した。すぐさま、施設班長が、「部長、まずいっす」と口をはさんだ。施設班長の説明では、小牧基地でのボイラー作業は、一部が外部委託に置き換えられており、契約内容の確認が必要だという。そもそも、そうでなくとも作業を主に行うのは自衛官ではなく技官であるのだが、 夜勤を含めた連続作業に従事させられない。このため、夜間のボイラー監視には他部署の自衛官を充て、シフトを組み対応するのであるが、これが長期間に及ぶとなると現場の負担は少なくない。日本経済の低迷が長く続く故に予算節減のため、平素の効率を求めるのは致し方ないが、いざというときの余力がなかったりすれば、こうした局面で深刻な問題が生じかねない。私は空幕勤務の際、総人件費改革といって、防衛省が他省庁と横並びで定員の削減を求められたため、有事の作戦活動などに支障ないと考えられる、例えば教育機関の給養(給食)とかを民間に委託にするという検討に参画したことを思い出した。しかし、制度が一夜にして変わるわけでもないから、そうした思いは胸の奥にしまって、私は施設班長に、「ボイラーの外注契約は基地で行っているのか? 自分には記憶がないが」と質問した。施設班長は、「たしか中央(空幕)での契約だったと思います」と述べた。そうこうするうちに、施設隊長が来て現場の事情を説明してくれた。施設隊長とは、平素から頻繁にコミュニケーションをとっていた間柄であった。隊長は、「彼らには状況を説明して、作業を継続してもらっています。契約社員は元職員ということもあり、頑張ってくれてはいます。ただ、契約外の勤務となると私もどうしていいか判断がつきません」というものであった。こうなると、業者と契約を交わしている空幕に申し入れるしかない。勿論、本来あるべき仕事のセオリーでは、上級司令部である支集団司令部の装備部を通じ検討を依頼するのが筋であるが、上級司令部は慌ただしいから、手を煩わせたくないし、すぐに取り合ってくれない可能性もある。それに私が空幕に頼んで断られたりした際、再度プッシュしてもらうための奥の手として残しておきたいと考え、支集団司令部装備部施設課にそうしたことを事前に話をした上で、空幕防衛部の施設課に連絡することとした。
 ちなみに、装備部長の職には、私と同じ航空機整備幹部(以下「MO:Maintenance Officer の略」)が就くことが比較的多いが、補給や通信などの他の職種の者が就くこともある。私は、当職を命ぜられるにあたり、 MOであれば、補給や施設に関する業務は門外漢であるため、専門職である各班長に頼りがちになる。それも従来は定年前の最終補職が大半であったから、その傾向はより顕著になるのではないかと懸念していた。また、「整備だけに殊更関心を持つような部長になるな」と、かつて上司であった支集団装備部長から薫陶を受けていたこともあり、着任以来これらの業務に関する知見を身に着けるべく、若輩者ということもあって各班長から意欲的に学び取っていた。それでも、空幕施設課の班長ともなれば、格上の 1 佐、面識もないので電話で頼もうにも気おくれしかねない。私の場合、空幕監察官勤務の際、職務上施設課に関連する案件が多く、頻繁に出入りしていたから幸いにも抵抗感はなかった。しかも、別件で人事部長からやや無茶ぶりではあったが、空幕施設課班長に直接電話して人事を調整するよう言われ、その後も継続して連絡していた状況にあった。こうした偶然や幸運も重なって、当該班長に電話で状況を説明し対応を願い出たところ、快諾を得たのであった。実際は、この電話 1 本で全ての懸案事項がすべて解決したわけではないが、一つ前進した。私は施設班長に、空幕との調整結果を支集団司令部の施設課担当に連絡するよう指示した。これは、聞いて心地がよい報告は部下にさせ、誰もがためらう不都合な内容の報告は自ら行うとの信条によるものだが、これも私の防大学生時の教官であった先輩の教えであった。
 ほっとしたのも束の間、人事部長が事務室に入ってきた。来るなり、「どうなったんだ、缶飯はあっても、割り箸がないぞ」と急かす。特有のユーモアを交え、心配して状況を確認しに来たことは表情を見て直ぐに分かった。ボイラーの件が片付いたと伝えると、「そんなことは聞いていない、喫緊の問題は飯だ(食材等を調達する ための予算確保のことだ)」と突き放された。その拍子に、思わず予算を捻出する秘策が口から出た。人事部長は一瞬「おっ」という表情をのぞかせ、「理屈は分かるが」と理解を示しつつも、「皆が納得するか分からないぞ」と言う。実は、人事部長の職種は補給で、二人はかつて岐阜にある第2補給処で共に勤務したことがあり、その際に私が実際に行っていた手続きが瞬時に頭に浮かんだのであった。それは、契約解除というもので、平たく言えばキャンセルのことである。契約を取り消せば、手元には支払わずに済んだ予算が残る。当時の私は輸入機の部品と構成品の修理の所要数を算定し、調達する業務を行っていたのだが、外国の製造業者の場合、契約納期に間に合わないとか、製造中止の場合もあり、こうした場合、やむを得ず契約解除を行っていた。通常、歳出での物品契約では、3月末日を納期としており、契約相手方によっては、物品を納入していないことも少なくない。当然、相手方の業者としては、物品を納めていないだけで、手元に在庫があったり発注済みであるわけだから損益が生じる。この度は、契約解除に当たり、官側に災害に伴う緊急性という正当な事由らしきものがあるから、訴えられる可能性は少ないと考えたのだが、それでも業者側の理解を得なくてはならない。少し考えてみたが、このような非常時に、とりわけ日本の国民性からして、理解を示さず反発するような業者はないのではないかと妙に確信めいたものが私にはあった。そこで、司令部の調達担当の部下に、2~3社電話をするよう指示した。すると、どうであろうか、いずれの業者も快く承諾してくれて、「自衛隊さん頑張って下さい」とか、中には、「こ の度の契約は忘れてもらっても構わない」とまで言ってくれる担当者もいたのだ。そこで、私は会計隊長の元に走った。実際の契約解除の業務は会計隊が行うからで、それも手間を要するからであった。幸いにも、会計隊長は防大の同期で、その場で直ぐに部下に指示してくれた。私は、その足で会計隊長の上司である基地業務群司令(1 佐)の元を訪れ、 ことの仔細を説明し了承を得た。基地業務群司令も、以前空幕や他部隊で共に勤務し、お互いをよく知った関係にあった。残るは、隊司令への報告であり、指揮所に急ぎ戻った。私は、全体に周知する必要がある案件ではない(自慢と受け止められかねない可能性もある)と考え、その場で声を大にして報告する形をとらず、それでいて副司令の耳にも同時に入るように隊司令と副司令の間に移動し、腰をかがめるような姿勢で、当面の糧食や燃料は十分に確保できる旨、小声で報告した。再び事務室に戻ると、補給班長には、支集団司令部の補給課担当をはじめ、物品が納められるはずであった先の補給隊など関連部署に連絡するとともに、会計課の担当には、新年度の4月になれば政府は緊急の補正予算を組むであろうから、その際は契約解除した物品をすべて買い戻すため私が予算確保に最善を尽くす旨、業者にも丁寧に説明するよう伝達を指示した。これでことが順調に進むかにみえたが、それはほんの数日間であった。状況は予想を遙かに上回る速度で急激に変化し、予算があるにもかかわらず、物資を調達できない状況が続けざまに生起するのであった。

第3回:見えざる危機

 話は、震災発生3か月前の前年12月まで遡る。ある日、施設班の曹長が、 起案文書を持参し合議開始に伴う承認を受けに来た。内容は基地消防規則の改正であったが、こうした場合、官公庁の管理職としての仕事振りは、新旧規則を並記した対比表など、別途作成された資料をもとに部下の説明を受けながら、言い回しなどを修文し押印して終えることが多い。私は、若い頃からこのような仕事のやり方は好ましくないと思っていた。なぜなら、前例を踏襲することでしか判断をしなくなる官僚的悪癖がついたり、既に出来上がった前提や一定の条件のもとでしか物事を捉えることができず、思考の範囲が狭まり自衛官=軍人ではなくなるのではないかと恐れていたからである。このときも説明を受ける前に、「なぜ、今この規則を見直す必要があるのですか」と質問した。すると彼は、「政府の震災被害予測が大きく見直されました。それで・・・」と、丁寧に説明をしてくれた。続けて私は、「被害予測とはどのようなもので、具体的にどういった点が見直されたのですか。それが分かる資料を持っていますか」と聞いた。曹長は、「今お持ちします。少しお待ち下さい」と言って、慌てて出て行き、しばらくして戻ってきた。彼の手には、総務省と銘打った資料が携えられていた。私は、「説明はいらないですから、それを見せて下さい」と言い、表紙をめくった。すると、日本地図が描かれた図に目がとまった。 想定される地震の名称の下に、予測される地震の大きさ M(マグニチュード)と程度 (切迫度)が示されていた。子供の時分から地元で騒がれて久しい想定東海地震(南海トラフ地震の一つ)は、M8で87%とあった。東南海、南海など周囲の地震を見渡すと40~70%程で、関東から北に見やると、宮城県沖地震とあり、数字を見て驚いた。最大M8前後、99%と記されていた。しかし、詳細な説明が書かれていない。そこで私は、「他に資料はないですか」と言い、今一度確認を頼んだ。この間、私は東北地方の地震に関しネットで検索してみた。すると三陸沖では、過去2度にわたり大地震が発生しており、津波による甚大な被害を受けていたことが判った。明治(1896年)の地震では、M8超、津波の波高38m、死者行方不明約21,000人とあり、昭和(1933年)の地震では、M8、波高 29m、死者行方不明者約3,000人とあった。そうこうするうちに、曹長が追加資料を持ってきた。そこには、「約40年間隔で発生する宮城沖地震、今後30年以内に99%の確率で発生」と驚愕の切迫性が指摘してあった。明治と昭和の地震発生間隔は、確かにそのとおり37年間であるが、昭和の地震からは、その倍の78年が経とうとしていた。

全国を概観した地震動予測地図 2008年版 (主な海溝型地震の評価結果)

 その瞬間、頭に浮かんだのは、次のようなイ メージであった。宮城県沖でM7クラスの巨大地震が発生すれば、関東も甚大な被害を免れない。1輸空と同じ航空輸送を担う埼玉県入間基地の第2輸送航空隊も人員並びに輸送機等装備品、格納庫等の施設はもとより、滑走路にも甚大な被害を受けるかもしれない。仮に被害を免れたとして、人員や救援物資を輸送しようにも、阪神淡路大震災の際のように道路上のがれきなどで緊急車両が通行を阻まれ、思うように能力や機能を発揮できないかもしれない(私の前職は、2輸空隊の整備主任であった。)。他に輸送航空隊は島根県の美保基地に第3輸送航空隊があるが、人員や救援物資の差出しなどに多くを期待できる立地にない。つまり、1輸空隊はきわめて重要な役割に立たされることを直感した。私は、曹長に、「済まないが、今日のところは起案文書の審議をやめる。後日必ず行うから」と言うのと同時にドア越しに、「全員を集めて欲しい。外で業務を行っているものは至急戻ってくるよう伝えてくれ」と計画班の先任曹長に頼んだ。先任は、どうしたんだろうとやや戸惑った表情をしつつも、いつ ものように各班に集合を伝達して回った。
 しばらくして、「集合が終わりました」と先任が伝えに来た。執務室を出て、皆が集う事務室で、急遽集合をさせ業務を中断させてしまったお詫びを言いつつ、話を始めた。先ず説明したのは、仕事のやりとりで偶然気付かされた宮城沖地震の切迫度と甚大な被害想定に関してであった。皆は、きょとんとした様子を隠せない表情でいた。そこで、次のように言い方を換えて説明し直した。「30 年以内と記してあると、人は不安でいたくなく、安心していたいという防御本能があるから、無意識のうちに30 年後と読み替えてしまう」、あるいは「(官僚的思考の者が多い昨今)自分のいるうちには起きないと都合良く解釈し、やるべき仕事を前に後任者負担にして放っておくかもしれない」と。「今から1週間後、否、1時間後も、その30年以内であることに違いはないのだから、速やかに検討してやれることから対策を講じよう」と呼びかけたのであった。皆の表情は、「趣旨は理解できます。それで、部長は私たちに具体的に何をしろと言うのですか」というような気持ちであるとくみ取った。であるから、すぐさま具体例を示した。補給班に対しては、「このような巨大な地震が起きた際には、ざっくりとした想像で申し訳ないが、現地での災害派遣活動も、われわれの指揮所活動も少なくとも半年間は続くと考えてもらいたい」、「で、何をすればいいのかというということだが、若い時分に演習で使用した組み立て式パイプ製の簡易ベットを思い出してもらいたい。半年もの間、堪えられる自信はあるか?」、「今は、随分と安くて良い品物があって、折りたたみ式のソファー・ベッドなどは実勢価格で2万円を切る。だから、 備品ではなく消耗品として扱っても差し支えないのだろう?なっ補給班長」と説明した。

パイプ製の簡易ベット(イメージ)

 続けて、「補給班には、このような非常時の物資取得を検討し、1輸空隊はもとより、基地所在の各部隊にも要望数を聞いて欲しい」と指示した。整備班に対する説明は、「航空機は問題ない。C-130は、他の輸空隊が保有する C-1と比較すれば、定時で行う整備の間隔が長く、飛行時間に余裕がある上に、減勢期のC-1 とは違い部品の供給にも心配がない」、「一方、物資を地上で運ぶとか、航空機に搭載する際に使用する器材はどうか。24 時間空輸し続けるとすれば、果たして量質ともに十分か?」と。「整備班には、近隣の岐阜基地、高蔵寺分屯基地を含め他基地にフォークリフトやカーゴ・ローダー(KC-767 の場合は、ハイリフト・ローダー)等をどの程度保有していて、いざという際に借用できるか、自走はできないので、輸送はどのように行うべきかを検討しつつ、可能であれば事前調整を打診して欲しい」と指示した。残るは、施設班である。「直ぐに現場に向かい、その場で説明と指示をする」と言い、皆を連れ立って事務室を出た。
 最初に向かった場所は、司令部横の訓練場であった。基本教練や徒手格闘で使用する他、朝礼や基地の行事でも頻繁に使用していた。皆に向かって、このように話をし た。「ここは、この春に皆でアスファルト表面に日の照り返しを防ぐ遮蔽塗料を塗ったことを覚えていると思う。それはこの場所に基地の外から次々と到着する輸送車両を駐車し、物資や人員を一時的に留め置く際、気温上昇による影響を防ぐ目的で行ったものだ。問題は野外であるから、雨風などを防ぐことはできない。ここの物資や人員を移動させる先の集積場を、航空機が駐機するエプロン地区から近い場所に確保する必要があるということだ」と。続けて、「自分の頭の中には、既に候補の場所があるから、そのままついてきてくれ」と先を急いだ。向かった先は、格納庫であった。 その格納庫は、現在航空機の格納や整備作業では使用されておらず、器材置き場とな っていた。

施設班長に説明する様子(2010年12月施設班撮影)

施設班長に向かって、「ここにある器材や資材は、ごく一部を除き震災時の災害派遣活動には使われないと考えられるものばかりだ。施設班長は、いざという時に、電話一本で器材を搬出してくれるよう所有部隊に事前に依頼しておくこと。その際、これらを一時保管する場所を予め確保し手順化しておくことが肝要だ」と指示した。勿論、1輸空隊所属の各隊は応じてくれるかもしれないが、指揮系統上にない所在部隊は、すんなりとはいかない。そこで施設班長には、「少なくとも、どの器材がどの部隊の所有のもの かだけでも、早急に調べてくれ。各部隊長には、私から直接お願いするから」と安心材料を与えた。同時に補給班長には、「ここを物資等の集積場所として使用した場合、司令部からは遠い。物資の集積や作業の進捗状況などを確認するのに都度人を向かわせていたら、手間だし、疲弊してしまう。指揮所のモニター画面に映像が出せるカメ ラを設置したい。高価かもしれないが、取得可能か。あるいは近隣の部隊、例えば岐阜の第2補給処では倉庫等で既に導入していても不思議ではないから、調べてみて、あれば借用などを事前に調整して欲しい」と指示した。こうして、宮城沖地震での災害派遣活動を想定した準備に着手したのであったが、阪神淡路大震災の際の災害派遣のように、「救出に遅れ、助かる命を救えなかった」と(陸上)自衛隊が批判された悔しい思いは誰にもさせたくもなく、 基地で理解と協力が得られるよう幾度も足を運び丁寧に説明を尽くした。しかし、結果として聞く耳を持ってもらえなかった。しかし、感性や想像力にも個人差があると考え、気にもしなかった。そのような状況下で、人事部長が、「お前がそこまで熱心に言うのなら、俺の分一つでいいからソファー・ ベッドを調達してくれ」と言ってくれたのは、われわれ装備部一同の心の大きな支えとなった。かくして、関心を持ってくれた他基地を含め一部関係者の協力を得て、一人でも多くの人命を救うがため、 恒常業務の合間を縫うようにして対策は途切れなく進められていった。このとき、かつて隊長であったときの部下の候補生が、所在部隊の整備小隊長となっており、発災直後格納庫の器材搬出に大きな役割を果たすことになったことは、実に頼もしく強固な絆を実感したのであった。

第4回:初の救援物資搬入

 巨大な津波が自動車や家屋、人々を次々と襲うという信じがたい映像を指揮所のモニターに映し出されたテレビ報道で目の当たりし、スピーカーの音声越しに松島基地の隊員が避難したことなどを耳にした直後のことであっただろうか。

松島基地の隊員が避難している様子

静まりかえっていた指揮所内に、突如電話の呼び出し音が鳴り響いた。指揮所専用の回線ではないから、自衛隊以外の部外からの電話に違いないと思った。基地渉外室の法務班⾧が、受話器を取った。聞き耳を立てたが、どのような案件なのか会話の内容が一向に聞こえない。 隊司令の反応は素早かった。「法務班⾧、内容が皆に分かるように復唱して話をしてくれ」と注意した。すると法務班⾧の口から出た第一声は、「総務省から福島空港にパンの空輸ですね」というものであった。いよいよだなと、皆が固唾をのんで聞いている中、続けて発せられた言葉に皆言葉を失った。「えっ、13万食をですか?」というものであったからだ。隊司令が私を見て、どうしたものか(なぜ総務省なんだ、輸送量はどのくらいなのだろう)という表情をしているような気がしたので、手を挙げて「隊司令、(口を差し挟むようで)申し訳ありません」と発言し、法務班⾧に向かって、「15万食ではどれぐらいの量なのか具体的にイメージできない。例えば、何トンのトレーラーが何台分かのように聞き直してもらえないだろうか」と言った。しばらく電話でのやりとりが続き、その後に判明した輸送量は、格納庫 1 棟分をやや上回るほどと見積もられた。隊司令に対して、「(前出の)格納庫の器材などの搬出は既に終えつつあり、直ぐにでも対応できます」と報告したものの、内心は「このままでは、まずい」との焦りを強く感じていた。というのも、ここは私の出身地であったから、基地周辺には最初に申し出のあった山﨑製パンの他にも敷島パン、フジパンなどの工場があることを知っており、同量のパンが続々搬入されると推察したからであった(実際に、そのとおりとなった。)。私は、そっと施設班⾧を呼び寄せ、格納庫の次に物資の集積並びに人員を待機させる場所として予定している補給隊倉庫、体育館、武道場などの整備を急ぐよう指示した。ちなみに、パンの空輸が支集団司令部の指示でも空幕や統幕からでもなく、総務省からの要請に基づくものであったのは、山﨑製パンの会⾧が発災直後無償提供を即座に申し出たものであったためと後の報道で知ることになるが、その申し出を受けた総務省、それも担当者が防衛省に対してではなく、現地の空輸部隊の担当者に直電で要請するということ自体、震災発生当初の錯綜した状況を至極象徴するものであった。
 しばらくして、現場から指示された格納庫では輸送機が駐機しているエプロン地区から遠いので、別の格納庫にしたいとの申し出があった。たしかに、航空機と物資との間を往復する距離が遠いと不効率で、隊員に負担もかかる。ただ、正直な気持ちを表現すれば、だからあのときの私の説明に耳を傾け事前に検討し、予め手順化しておくべきであったのにと思わずにはいられなかった。隊司令は、「装備部⾧、KC-767の格納庫はどうだろうか。場所的にも大きさからしても適当と思うが」と問いただされたので、私は、「整備補給群(司令)が支障ないと判断すれば、構わないと思います」と即答した。装備部(長)としては、航空機の整備を行う格納庫を集積場に転用することは、震災以外にも同時に他の事態が生起しないとも限らないから、極力避けたいところであったが、緊急空輸の主力は当面C-130と考えられること、後にKC-767を投入するとなった際も、KC-767の定期整備は暦日に基づき実施するので飛行時間には直接影響を受けないため、現状で整備の所要は当面の間、発生の見込みはないと判断した。私は、フォークリフトなど輸送機の支援器材の借用に関する調整状況が気になったので、事務所に急ぎ向かった。 
 物資は、金属製の板状のパレットの上で形を整えて積載し、専用のネットとベルトで固定した状態で、フォークリフトでパレットごと持ち上げ輸送機後方の貨物室ドアから、レールでスライドさせるように搬入する。カーゴ・ローダーは、パレット化した貨物を複数個搭載したり、卸下したりする際に使用する。

カーゴローダーを使用した貨物積載の様子(米軍)

 作業効率を上げるために、優先して調整を行うべきは、フォークリフトの台数を増やすことであった。1輸空も様々な大きさのフォークリフトを有していたが、利便性が高いのは 5トンの大型であった。 事前の対処計画では、近郊の高蔵寺分屯基地から1台と遠隔映像転送装置(格納庫内の作業状況を指揮所のモニター画面に映し出すカメラシステムのこと。以下「遠隔カメ ラ」)を、岐阜基地からも更にフォークリフト1台を借用することにしており、調整は補給班⾧からの電話1本で順調に進んでいた。問題となったのは、小牧基地への運搬であった。電話で調整を行っている補給班⾧の脇で、施設班⾧と話して分かった。 基地の車両では、重すぎて載せて運ぶことはできない。物理的には自走可能で、災害派遣なので警察との調整次第で何とかなると一瞬考えたが、一般道をそれもそれなりの距離を、それも夜間に走行をさせるから、一般車を巻き込む事故を起こしかねない恐れがある。確実なのは、運送業者との役務契約による輸送であると判断し、補給班⾧の口から予算の工面も契約も小牧が行うと先方に伝えた。先の契約解除によっ て予算を確保したことが直ぐに役立った。補給班⾧は電話を終えると、すぐさま業者に掛け合った。既に営業時間外であったが、担当者をどうにか呼び出してもらい、通常なら何日もかかる見積もりもその場で作成してくれた。災害などの社会的混乱に際し、互いに助け合う日本の良さを改めて実感した。補給班⾧は調整を終えると、「部⾧、今から遠隔カメラを受け取りに高蔵寺に行ってきます」といい、部下と車両で急ぎ向かった。私は指揮所に戻り、フォークリフトと遠隔カメラを高蔵寺分屯基地から借用する旨を隊司令に報告し、指揮所の担当から現場に伝えさせた。こうしたことは、たかがフォークリフト数台のこと、たいしたことではないことのように思われがちである。しかし、現場から苦情や要望が上がってきてから対応するのと、上に立つ者が事情を察して先んじて対応をするのでは、現場のやる気はまるっきり違ってくる。意気に感じて、少々の負担や労苦を堪えられるようになるものであり、それを明確に意識して最優先で行った。そして、一刻も早く処置を完了すべく、会計隊⾧に速やかな契約を依頼したのであった。

器材搬出後の格納庫内(遠隔カメラ映像)

 こうして、救援物資を手始めとして緊急空輸の任務が始まった。しかし、任務は夜間も継続して行うのだから、私は若い時分に経験した実動演習などから想像をして、 終わる先が見えていれば2 ~3週間ぐらいは気力体力も持つであろうが、今後数日内に交替要員を確保する必要が出てくると考えた。人が足りないという問題は、物資の集積、貨物を輸送機に搭載する現場に加え、基地渉外室が担った救援物資搬入の際の自治体、業者などとの調整、駐車場への誘導、集積場への移動の統制の現場でも同時に進行していた。そうした状況下でも、発災当初から部下には整備した待機室のソファー・ベッドで仮眠を積極的にとるよう指導に努め、自らもまた、ことがある度に自らが対応せざるを得なかったが、執務室の接客用ソファーに座り体(脳)を休めた。しかし、終わりは一向に見えなかった。隊司令、副司令はもとより、司令部の各員も官舎や自宅に戻ることもできなければ、 他部隊などからの人員増強を受けることもなく、交替で僅か2~3時間の仮眠とろうとするものの、それさえも判断を求められたり指示する状況変化の連続に度々阻まれながら、その後も勤務を続け、こうした状況はゴールデンウィークが終わるごろまで続いた。隊員は、自分の家族を心配するそぶりも見せず、職務に邁進したが、むしろ家族の方が隊員のことを心配し、下着類や栄養ドリンクなど日用品を職場に届けてくれたりした。基地周辺の飲食店の人々や自衛隊の支援団体などからは、缶コーヒーなどの差し入れもあった。かくして装備部は、「仕事は選り好みをしない」との方針の下、一丸となって 次々と発生する難題の解決に立ち向かったが、元来私は他の人と違ってキャッチコピーみたいな職務方針を職場に掲げることは決してしない主義であった。震災の数ヶ月ほど前に、施設班の一人が、どうしても示して欲しいと言うので何気なく口から出た言葉を伝えただけであったが、いつの間にか事務室出入口のドアに印刷物が貼られていた。それは、かつて防衛大学校で急逝した上司(同じ整備職域の先輩)が、困難な状況を前にしてくじけそうになる自分に対して叱咤激励する際の口癖の言葉であった。その意味するところは、頼られた仕事は、決して断らないこと。その人にしかできないと分かっていて相手は頼ってきたのであり、真に困っているのであるから、必ず手助けすること。それを果たすことで人や物がその人に集まる。それは力となり、やがてより大きな仕事をこなすことができるようになる。ひいては部下を幸せにしてあげられるようになるというものであった。その教えが、奇しくも各自の英知を一つのベクトルに向かって結集させ組織力を遺憾なく発揮するためのスローガンのような役割を果たしてくれたのであった。 

第5回:緊急物資が買えない

 震災が発生してから数日が経った頃のことである。緊急空輸の任務も軌道に乗り、 やや落ち着きを見せ始めた矢先のことであった。一息つこうと、事務所に戻ろうとした際、補給班⾧が珍しく声を荒げているかのような会話が聞こえた。若い時分は、こうしたようなことは珍しいことではなかったが、今のご時世では理由はともかくもよろしくない。補給班⾧に話を聞いて、すぐに心情を理解できた。1輸空隊の各部隊と基地所在部隊から、例のソファー・ベッドを調達して欲しいとの要求が次々と上がってきていたからであった。補給班⾧としては、私が足しげく説明して回り、司令部でまとめて調達し配分するからと話を持ちかけたにも関わらず、「(邪魔になるからと断ったにも関わらず)何を今更、要求するのか(できるのか)」との苛立ちを抑えられないでいたのであった。補給班⾧には、 「そうした私のことを思いやる気持ちは有り難く頂戴しておくから、ここは堪えて調達をしてやって欲しい」と粘り強く語りかけた。その横で、司令部の調達業務を実務面で私を補助する担当が、ちょうど私が事務室に戻ってきたこのタイミングで報告するしかないという感じで、新たな問題の発生を訴えた。彼の説明によれば、契約解除により確保した予算を基に物資を調達しようにも買えない状況であるという。というのも、平素自衛隊を含む官公庁が 物資の調達や役務の契約をする際には、公告を一定期間掲載することで広く業者を募り、一般競争入札によって取得価格の低減を図らなくてはならないが、業者の言い分は、「買い占めが起きており、右から左へと次々と品物が売れていく。自衛隊さんに見積もりを出しても、自社が入札できると限らないから、見積もりに応じていられない(そうした間にも商機を失う)」というものであった。この頃、テレビではガソリンスタンドに並ぶ⾧蛇の車列が映し出されていたから、業者が言うのももっともな話であった。私は、部下に難儀をかけてしまっていたこと、それにも気付かず、 意見を言わせてしまったことに、心の底から「申し訳なかった」と詫びた。そもそも、入札参加を希望する業者を募るために、公告の掲載に要する期間は通常 2 週間ほど、今はその暇もなく、何よりも人の命がかかっているとの発想に至らなかった不甲斐ない自分を責めた。 補給班⾧も脇で話を聞いていてくれたので、話を単刀直入に切り出した。こうなったら、随意契約(以下「随契」)に切り替えるしかない。随契とは、競争入札によらずに任意に決定した相手と契約することをいう。補給班⾧は、私よりも年上で調達等の手続きを熟知するベテランであったので、ことの重大さ、実行に移すことの困難さは、慌てた表情と「えーっ」という言葉となって直ぐに現れた。だが私は、随契に切り替えるための根拠と確信めいたものを持っていた。問題は、関係者が皆理解を示し賛同してくれるかどうかにあった。関係者に実行可能性の有無を感触取りするにも、先ずは隊司令に報告をして指導を受けな ければならないと考え、すぐさま指揮所へと戻った。
 指揮所に入り、人事部⾧に現在の状況を尋ねた。そして、指揮所での動きが特段ないと判ると、今度は隊司令の様子を窺って、込み入った話を聞き入れてくれるような状況か、話を切り出すタイミングを見計らった。私は、「隊司令、ご報告があります。ここでは何ですので、お部屋でお願いできますか」と言って、隊司令の後を追うようにして隊司令室に向かった。しかし、直ぐに部屋に入ることはしなかった。指揮所に⾧時間詰めていて、疲れがあると見受けられたので、湯茶を飲んで一息をつくぐらいの時間は必要と考えたからであった。「部⾧、入っていいぞ」と言われ、入室した。着席を許されても、堰を切ったように話を始めなかった。極めて重要な話であったので、判断を急かせるようなことにはしたくなかったし、慌てて話すようなことをすれば、自信のない、何か怪しげな話のように受け止められかねないとも考えたからであった。隊司令には、契約解除により予算を確保したものの、物資を調達できない状況になっていることを順に説明した。また、平素行っている一般競争入札では、直ぐにでも物資を必要としている現在の非常事態には適していないことも申し付け加えた。隊司令は、「うん、そうだな」と頷きながら、黙って説明を受けていた。問題の核心は、随契への切り替えを隊司令がどのように判断されるかにあった。
 話は少しそれるが、阪神淡路大震災の際、救援の遅れとなった原因は、都道府県知事等からの災害派遣要請を待ち続けたことにあった。出発が数時間遅れ、その間に火災の規模は見る見るうちに拡大、道路には逃げ惑う市民や一般車両があふれ、緊急車両の通行が阻まれ、現場到着に数日を要する結果となったのだ。自衛隊発足以来、自衛隊法には、都道府県知事等が自衛隊の災害派遣に係る要請を行うことができない状況(人命救助のため特に緊急を要し、要請を待つ暇がない事態)を想定し、独自の判断で災害派遣を決定できる「自主派遣」が認められ、近畿を管轄する陸上自衛隊中部方面隊総監(司令部は伊丹駐屯地、陸将)にも、その法的権限が与えられていたにもかかわらず、これを決断するに至らなかった。背景には、自衛隊の自発的行動を望まない当時の政治的風潮であるとか、前例がなく躊躇したのではないかとか、事前の検討が不十分であった可能性等が考えられるが、その一方で、地方自治体の要請が無くても部隊の派遣が可能な「近傍火災」を根拠に部隊を派遣した部隊長もいた。記者会見で、涙して苦し紛れに釈明する陸将の姿は、当時飛行隊の小隊長であった自分には、原体験、鮮明な記憶として残った。というのも、この震災を遡ること35年も前の伊勢湾台風において、陸海空自衛隊はもとより米軍も災害派遣に活躍し、メディアでも大きく取り上げられた事実を、私は地元で両親も被災に遭っており、子供ながら調べて知っていたから猶更であったのだ。
 さて話は元に戻るが、私は、「会計法」の第29条3第4項に、「契約の性質又は目的が競争を許さない場合には随意契約が認められる」という例外規定があることを熟知していた。これは、航空機や器材の部品の調達で随意契約から一般競争入札の制度に切り替わ ってしばらく経ったときの出来事がきっかけであった。私は、当時空幕で事故等調査のとりまとめ、分析などを担当していたのだが、部隊からの通知文書で、一般競争入札により車両器材用に調達した外国製の安価なタイヤに、トレッド面の剥離やバーストが起きて困っている現状を度々目にして憤りを感じていた。私は、自らの意思で会計課に足を運び、状況を説明して随契に戻せないか、例外はないのかなどと執拗に質問した。この際に、 会計法の適用除外を知ったのであったが、「契約の性質又は目的が競争を許さない場合」とは、どのようなことを指し示すのか、他の官公庁がこの規定に基づいて随契を現に行っている先例はないか、独自に調べた。すると、東京都(石原慎太郎知事)が、人命救助など特に緊急を要する救急車や消防車などのタイヤは、従来どおり随契で(品質が良い)国産タイヤを調達する旨、ホームページ上で公示していたのであった(まさに自衛隊車両は、緊急車両に違いないと思うが)。そこで、都庁担当者に、「目的が競争を許さないような場合」とは、いかなる場合なのかと問い合わせ、この度のような大規模震災等の緊急時がこれに該当すると理解したのであった。勿論、このような経緯を含めてご説明を申し上げたものの、 前例はなく責任が重くのしかかるから決断は難しい。こうした場合、同時にその判断を上に求めることが望ましいが、それは同じともいえ、検討してもらえたとしてもそれに多大な時間を要し、間近に迫った3月末を迎えてしまって、せっかく確保した予算を失効しかねない。一刻も早く災害派遣活動に必要な物資を調達したいのは誰もが同じ気持ちではあるが・・・。隊司令は、「部⾧のいうことだから、間違いはないのだろうが・・・・・・」との言葉を口にしたが、表情から即判断を仰ぐのは時期尚早と感得した。そこで私は、「あまり時間をかけないようにして、引き続き検討します」とだけお伝えし、その場を引き下がった。
 私には、考えがあった。以前、部隊勤務で共に苦労して困難を克服した経験がある会計職の同期(ただし防大卒ではなく、一般大出身)と連絡がとれる仲にあったからだ。すぐに連絡した。彼は、「契約解除も随契も基本的に問題ないと思うが、そのような例外的措置は、あくまで3月末の年度内に限ることが前提となるのではないか」との見解を示した。その上で、他基地の状況を調べてくれるというので、連絡を待った。その日のうちに、彼から連絡があった。いくつかの基地などに問い合わせてみたが、どこも契約解除すら行っていないという。続けて彼は、「空幕会計課の先輩に事情を話してあるから、その人に電話をして相談してみるといい」と力を貸してくれた。その人に電話をすると、一人ではなく周囲に人がいて話を一緒に聞いているようであった。その人は、「話は聞いている。 お墨付き(許可)をもらおうとしているわけじゃないよな(分かっていると思うが、それは無理な話だから)」、「隊司令は承知されているのか」などと一通り確認した後、「部⾧に、やる覚悟ができているなら、できる限り応援をする。こちらから関係先に理解を促す連絡をしてもいい。他基地が執行できずに残った予算をかき集め小牧に付け替えることも考える」とまでいってくれた。正直、予算関係は装備部⾧の専決事項でもあったので、自衛官となった自分にとって、後にも先にもこれ以上とない課せられた使命の如く厳粛に受け止め、決意を固めた。後に、会計検査等で問題となった際は、独断専行だったとして責任をとろうと腹をくくった。その一方で、万が一にも会計検査の結果、不当と判断されても、国民が報道で知ったら、逆に会計検査院の判断を疑問視して抗議の声を上げてくれるだろうとの確信も同時に有していた。このとき、以前ゴルフ好きの上司が常々私に言い聞かせていた言葉を思い出していた。それは、人は偉くなると(自分の能力が上がったと勘違いして)できること(例えば、部下の仕事)をやって悦に入る。だが、(それは階級や経験がそうさせているだけであって)、その人が職責として真にやらなくてはならないことをすべきなのだと。この件の先のやりとりは組織や個人を批判することにつながりかねないので割愛するが、その後、災害派遣活動が数ヶ月間という⾧期にわたって、ここ小牧基地では九州など西方各地から続々と被災地の救援に向かう各部隊に対して、燃料であるとか、糧食等が支障なく提供し続けられたのは、関係者のこうした尽力があったればこそのことであった。

第6回:人が足りない

 パンを中心とした救援物資は夜通し基地に運び込まれ、C-130輸送機が福島空港へと次々と運んだ。発災直後、パンは被災地で非常に歓迎された。というのも、温める必要もなく封を開ければ直ぐにどこでも食すことができ、持ち運ぶ際も保管するにも手軽であったからだ。しかし、詳細は後の回に譲るが、現場の状況、被災者のニー ズは、その後刻々と変化していく。福島空港でC-130の地上支援を行っている現場から、司令部に要望が上がってきたのは、救援物資の空輸開始から数日経ったときのことであった。福島空港には、発災当初被災者が多く避難をしており、食事をするにも休憩しようにも人目が気になってしまい、気持ち的にも休まらないから、空港内の事務所などを待機室として借りられないかという現場からの切実な訴えであった。 私が空港事務所との調整を試みようと考え始めたところ、隊司令から、「部⾧、あのテントは使えないだろうか」との助言があった。それは、前年秋に小牧基地で行われた国際緊急援助隊の訓練で使用した指揮所用テントであると即座に分かった。ちなみに 国際緊急援助隊とは、海外で発生した地震などの自然災害に際して行う人的支援のことで、当時国外運航が可能な輸送機は C-130以外にないため、テントは小牧基地で保管していたが、自隊のものではなかった。隊司令に、「直ちに確認をとり、借用を願い出ます」と報告し、補給班⾧を指揮所に呼び寄せ、支集団司令部を通じて空幕の許可を得るよう指示した。ほぼ即答に近い形で、使用の許可が下りた。指揮所を通じて、福島空港の現場には次の便でテントを送ると伝えた。素早い対応に現場も大喜びしたのもつかの間、現場からテントが風に煽られ倒壊したと悲痛な連絡が入った。

倒壊したテント(イメージ)

 「部⾧、どうなっているんだ」との隊司令の声が指揮所内に響く。もう 1 張りを追送し、その場をとりなしたが、取扱説明書を調べてみると、市販の海外製レジャー用品をただ単に転用したものと判明、一般競争入札で自衛隊の行動に供する物品を調達することの困難さをまたしても痛感させられた。その現場では、空輸を終えた救援物資の被災地への地上輸送が滞るという別の問題が生起しはじめていたが、この影響が小牧基地に及ぶのはもう少し先のことで、われわれはそうした現地の状況を知り得ず、想像すらもしていなかった。
 ちょうど同じ頃、指揮所内で渉外室⾧が人事部⾧に小声で話しかけているのを目にした。聞き耳を立てると、人が足りないという。渉外室は、緊急物資を基地に搬入する輸送車両の誘導や集積場への移動の統制などを担当していたが、平素の業務の特性から所属員には事務官もいて自衛官は僅かな数でしかないから、当然であった。人事部⾧は、隣席の監理部⾧に「渉外室のもとに自分の部下を支援に差し出すので、同様に支援してもらえないか」と話をした。「装備部もか」と一瞬身構えたが、人事部⾧は、「安心しろ、お前のところと防衛部からは出さなくていいから」といってくれて内心ほっとした。出せるような人は残っておらず、⾧期戦に備え少しでも休ませたかったからだ。ちなみに、人事部長、監理部長、渉外室⾧、勿論隊司令、副指令、基地業務群司令、整備補給群司令も皆防大出身で、とりわけ監人装の3部長と渉外室長は期も近い関係、特別な絆があったことが緊密な連携調整に大きく役立った。
 さて、部⾧間で、そんなやりとりをしていたころであった。物資の集積、貨物を輸送機に搭載する現場から、24時間継続して作業を行っており、人が全く足りないと悲鳴にも近い声が指揮所に届いた。平素の業務量であれば、基地業務群管理隊の所属員だけで対応可能であるが、1日24時間を単純に8時間でシフトで組むとしても、単純計算で3倍の人員が必要になる。基地業務群司令は、そうした状況を見越して管理隊以外の所属各隊から支援要員を出させ、現場はどうにかやりくりしていたが、それも限界で疲労は無視できない状況にあった。なお、1 輸空隊は他の航空部隊と同様に司令部と3つの群(グループ)から構成され、群には群本部と機能別に編制された隊又は班がぶら下がっている。人事部⾧と私の問題認識は同じで、災派活動の⾧期化は目に見えていて、いずれ現地の捜索救助部隊には近隣の部隊以外に対しても増援の要請がされると考えていた。その場合、民航機をベースに開発された KC-767空中給油輸送機は乗客仕様に換装しての運航が見込まれるであろうし、1 輸空隊にも増援の差し出しが支集団司令部から求められるかもしれない。基地機能を維持するためには、基地業務群からの差し出しは適当ではないから、所属員が多い整備補給群に頼らざるを得なくなるのではないかとの思いを巡らしていた。しかし、⾧期化による人員不足に加え、KC-767も運航されるとなれば、整備の所要が発生する。その際、同時対処は可能なのか。 人事部⾧は、人の差し出しを求めるのは容易ではないと、困り果てていた。そこで、 私は人事部⾧に、「提案があります」と話を持ちかけた。人事部⾧は、「そんな人員、 どこにいるっていうんだ」と一瞬険しい表情を見せたものの、とっさに私が言おうとすることに気付いたのか、「まさか」との驚きの表情を隠せないでいた。
 解決の糸口は、その前夜にあった。私の執務室に、小牧基地に所在する部隊の一つである第5術科学校(以下「5 術校」。)の先任空曹が訪れていた。航空警戒管制と航空保安管制などに関する術科の教育訓練を担っており、学生を含めれば、基地所在部隊の中では最も人員規模が大きい。5 術校の本部は、同じ庁舎内にあるので、今回に限ったことではなく、普段から5術校の学校⾧(以下「5術校⾧」、将補)からの要望を伝えるとか情報収集などが主な目的で頻繁に来ていた。5 術校⾧は気さくな人柄でもあったから、ときには私の執務室にお忍びで現れ、驚かされることもあった。それを可能としたのには、共通の知人であるOBの存在もあった。先任は開口一番に、 「部⾧、何かお困りなことはありませんか」と述べた。直ぐに私は、5術校⾧が心配 して何か手伝うことはないかと、先任に申し伝えに行けと命じたのだろうと理解した。 私は先任に、5術校⾧からのお心遣いには丁重に感謝の意を申し伝えて頂くようお願いし、「近々そうした状況が生起するでしょうから、その際は、よろしくお願いいたします。そのようにお伝えください」と言い、先任との対話を終えたのであった。
 私は、人事部⾧に「お察しのとおり5術校です。昨夜、先任を通じて支援の打診がありました」と言った。人事部⾧は、自ら確認するため、5術校のカウンタパートである総務課⾧のもとに走った。人事部⾧は、帰ってくるなり、「5 術校はすごいぞ。 話は既に要所に通っていて、言葉は適当じゃないかもしれないが、やる気満々という感じだった」と語った。人事部⾧は、隊司令のもとに近寄り、ひそひそ声で報告した。報告が終わると、隊司令はすぐさま指揮所を出て5術校⾧のもとへと向った。読者は、どうしてこのような回りくどい話になるのか不思議がられるかもしれない。とりわけ1輸空隊司令は小牧基地司令を兼ねているから、5術校に指示するだけのことではないかと思われる方が寧ろ自然でさえある。しかし、基地司令としての指揮が及ぶのは基地の保全に必要な警備などごく一部の任務に限られており、基地に所在する各部隊は、部隊の規模、指揮官の階級にも大きな差があれど、立場は対等であるから、基地司令といえども、 所在部隊⾧に災害派遣活動を支援すべく人を差し出せと指示することは現実的にあり得ないのである。その各部隊を指揮監督する司令官という点でも、1輸空隊は支援集団司令官(司令部は東京都府中基地)であり、5術校が教育集団司令官(司令部は静岡県浜松基地)であるように、仕える上司も違えば、司令部が位置する基地も場所を異にする。自衛隊の全力を挙げての災害派遣活動中ではあるものの、この間も 5 術校が担う教育訓練の業務は欠かせないものであるし、教育集団司令官から特別な指示が出ていて平素にはない業務に従事していたりするようなことも考えられる。そうした事情も1輸空隊側では知り得ないから、協力を軽々に要請することもはばかれる。 隊司令と5術校⾧は同じ将補であっても、どちらが先任者であるのかとか、先輩後輩の関係もある(現に5術校⾧が先輩であった。)。5 術校⾧は、事前情報をもとに、1輸空隊から協力の要請があった場合、自らの責任で支援を行って差し支えないかと教育集団司令官に事前にお伺いを立て、あからじめ承諾を得ておくことで、即応できる備えをしていたのではないかと考えられた。そのように説明すると、読者は一連のやりとりが理解できるのではないだろうか。実は、このように円滑にことが進んだのには、震災の10か月ほど前に発生した 予行演習の如きハプニングが大きく寄与したのであった。

第7回:小牧空港にまつわる話

 地元の人たちは、親しみをもって小牧空港と呼ぶことが多いが、正式名称は、県営名古屋空港である。航空自衛隊(以下「空自」)小牧基地が隣接し、飛行場の管制業務は空自小牧管制隊(基地所在部隊の一つ)が実施しているが、共有する滑走路そのものは愛知県が管理している。中部国際空港が開港する以前は、国際線の定期旅客便とともに、国内主要路線の定期便の多くが発着する主要空港の一つとして賑わっていた。 古くは、先の大戦中に旧陸軍の飛行場として地域住民の協力のもと設営され、戦後は米軍が接収し滑走路を北側に拡張した。米軍の駐留並びに空自第3航空団が移駐した時代には、住民を巻き込む航空事故が連続して発生するなど、かつては飛行場に寄せる住民感情は複雑なものがあった。空自の航空機を中心とする防衛力は、任務の特性上、他の自衛隊とは異なり、所在している基地そのものが、戦闘力発揮の基盤である。それ故、平素から地域住民の理解と支持を得るため、地域社会と良好な関係を維持することが大切であることは、空自幹部自衛官なら誰もが認識をしているはずのものである。隊司令は、基地周辺の住民に格別の関心を向け、私は隊司令の意図を体すべく基地外柵の環境整備など、在任中最善の努力を傾注し続けたが、その必要性を改めて強く認識をさせるアクシデントが発生した。それは、私の赴任直後のことであった。
 KC-767 の主翼にエンジンをぶら下げるナセル(パイロンともいい、支柱のこと) にある点検整備用のパネル1枚(直径約20センチ)が不時落下する事案が発生した。 隊司令は、各部⾧等を集めた会議の席上、装備部⾧の本来業務ではない(渉外室の業務である)ことを承知の上で、「装備部⾧は、航空機整備が専門であるから、この度の対応をよろしく頼む」 と私に命じた。不時落下の事実判明は、地上での飛行後点検の際に整備員が発見したことによるものであった。私は、今現在も滑走路上にパネルが落ちていて、地上滑走中の航空機がタイヤで跳ね上げでもして事故になってはいけないと危惧した。このため、私はすぐさま空港事務所に対し、車両を使用した滑走路の点検を要請する通報を行うとともに、飛行場を管理する愛知県庁への連絡を施設班⾧に指示した。ほんの 1 か月前のこと、施設班の勧めとはいえ多少の戸惑いもあったが、これら関係先に着任の挨拶回りをしていて助かった。かつて空幕で勤務した際、私が不時落下事案等の報告と調整を受ける側であったので、 空幕及び支集団司令部への報告は自ら行い、ことは円滑に運んだ。近隣自治体への第一報、報道機関へのピンナップ (公表)などは、平素のとおり渉外室が担当し、報道への対応並びにその後の飛行再開に向けた自治体への説明に関する事前調整などは、私がに担うことになった。こうした間にも、不時落下の報道を耳にして、飛行ルート周辺の地域住民から、「自動車や家屋などに傷がついた。航空機から落下した部品が原因ではないか」という類いの問い合わせなどが渉外室に次々と寄せられた。渉外室のメンバーは、丁寧に受け答えをしつつ、個々に確認をして回り、都度私に連絡をしてき た。いずれも傷の大きさ、形状などから、パネルの落下によるものではないことはおおよそ推測できたが、どこで落下したのかが明確になっていない以上、むやみに否定することはしなかった。
 私は、航空機整備幹部としての歩みを戦闘機のジェットエンジンの整備を担任するエンジン小隊⾧からスタートした。異物の吸い込みによるエンジンの損傷(FOD:Foreign. Object Damage という。)は整備を行う上でもっとも留意を要する一つであったので、 ナットの緩みを防止するために取り付ける細い(セーフティ)ワイヤーの切れ端でも、紛失が疑われるような場合は、徹底して探し出すことを常としてきた。私は、飛行経路や訓練内容、気象状況などの確認した事実をもとに、当機を操縦していたパイロットからの聞き取りで、 パネルの落下地点を推定できないか試みることにした。発見さえできれば、住民の不安を早期に解消する一助になり、自治体への飛行再開に向けた説明でも、原因究明はもとより再発防止に取り組む姿勢などをアピールする上でプラス材料になると考えたからであった。すると、着陸直前にタービュランス(乱気流)のような強い横風に揺さぶられた機体の状況が判明したので、パネルの位置や取付けの構造から考えて、着陸時に飛行場内に落下した可能性が高いと判断し、飛行場内の捜索を実施したい旨、隊司令に報告した。先述したように、滑走路の管理は愛知県であり、空港事務所からの許可はどうにか得たが、 航空機の運航に支障がないようにするため、与えられた捜索の時間は日が出て明るくなりはじめる早朝4時過ぎから5時までの40~50分であった。パネルが落下してから時間が経っていたので、強い風の影響で滑走路の端から草地内に飛ばされた可能性も考えられ、捜索の範囲はきわめて広大であった。したがって、発見は容易ではないと誰しもが思うのは当然で、かくいう私も早朝から隊員を働かせて何も発見できなかったという類いの批判の矢面に立つ覚悟はしたが、一方で必ず見つけ出す、これまで見つからなかったことはないという強い信念を胸の内に秘めていた。捜索を明朝に控え、1輸空隊の各群と司令部から差し出し可能な人員数の報告を受け、執務室で飛行場の平面図をもとに施設班⾧らと捜索範囲の割り当てを検討し、人員数が全く足りないと困り果てているときであった。そこに、突如として5術校⾧が現れたのであった。
 5術校⾧は、「部⾧、ご苦労さん。大変だな。5術校に捜索を手伝わさせてもらえないものだろうか」と発言されたものだから、われわれは面を食らってしまった。 5 術校⾧は、われわれの驚いた様子を見て表情に笑みを浮かべながら、「なぁ部⾧、 航空機の部品が不時落下すると、こうした事態になるということの重大さを、学生に身を以て学ばせるには、これ以上とない好機であると思わないか」と語り、私の賛同の意思表示を待っているかのように感じられた。私は、5術校⾧に、「是非お願いをいたします。今すぐに隊司令に報告し、判断を伺って参ります」と述べ、5術校⾧は、「うむ。戻るよ」といって出られた。隊司令は私からの報告を受けると、「部⾧、それは本当か。5術校⾧のところに行ってお願いをしてくる」と急ぎ向かった。当 日早朝3時30分過ぎ指揮所を開設、その場の⾧は隊司令代行の私であった。勿論、 1 輸空隊各隊等の現場指揮官は、一部を除き小隊⾧、班⾧などの若い尉官であった。指揮所のカメラで各隊等の集合状況を見ながら、トランシーバーで配備完了の報告を受けはじめた際のことであった。5 術校の捜索隊に目をやると、ひときわオーラを放つ人物が目に入った。肩から蛍光タスキをかけ、何本もの白色のテープで彩られたライ ナー帽をかぶった姿で陣頭指揮を執る5術校⾧であった。この意気込みが、教官や学生に伝わらないはずがない。捜索開始から僅か10分足らずで、トランシーバーから、「パネル発見、パネル発見。こちら5術校。繰り返すこちら5術校」という歓喜の第一声が入ったのであった。少しばかり話がわき道に逸れてしまったが、こうし た経緯もあって、あの災派の折にも5術校(長)から再び支援の手が差し伸ばされ、共同でことに当たるということが実現したのであった。
 飛行場のことについては、災派の指揮所活動中に、隊司令の口から何気なくボヤキが出がことがあった。今でもはっきりと耳に残っているのだが、「こんなことになる のだったら、部⾧、あの件をもう少し強く要請をしておくべきだったなぁ」というも のであった。あの件とは、私と施設班ぐらいにしか分からなかったと思うが、「空港使用料(発着料)」のことであった。当時の記憶でしかないが、飛行を1回行うごとに、 C-130で約15 万円、KC-767 で約30万円を愛知県に支払っていた。隊司令は、平素は愛知県が空港の管理、メンテナンスを行っている以上、やむを得ないが、「災害派遣とか国際緊急援助などの実任務で運航する際は、減免をして欲しい」と関係者に働きかけをしていたのであった。勿論、発着料の発生によってこの度の任務運航が制約を受けるようなことはなかったが、想定宮城沖地震に向け準備していた際、すっかりそのことを失念していた。機会を捉え、隊司令から総務省の資料をもとに県の関係先に再度話をしていただく好機を逸してしまっていたことに気付き悔やんだが、後の祭りであった。将来、南海トラフを震源域とする大地震は、決して起きて欲しくはないと思うのはやまやまであるが、そうでなくともかつて関西空港が台風の高潮で浸水して空港機能を喪失したように、中部国際空港が大きな揺れや津波などによって深刻な被害を受けないとも限らない。そうした際は、この度と同様に小牧空港は災派活動の拠点として重要な役割を担うことになることは銘記しておくべきであろう。(続く)

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