死ぬ瞬間「受容」
死ぬ瞬間
を引き続き読んでます。復習すると、エリザベスによれば死ぬ過程で人の心は
1否認
2怒り
3抑鬱
4取引
5受容
の5つのプロセスをたどるらしい。順番にたどるわけではなく人によって行ったり来たりする。もちろん何かが抜けている場合もあるし、みんながみんな受容に至るわけでもないらしい。
マズローの欲求階層説もエリクソンの発達段階説もフロイトの精神性的発達論もわかりやすく段階ごとに分けているけども、実質これらの理論通りにきっちり進む人はあんまりいないと思う。
ネットで調べたユングの名言で「各個人は基準から少しずつズレている」というのがあったけれど、その通りだと思う。よく考えてみれば名言でもなんでもないのでは?めちゃくちゃ当たり前のことでは?
ユングの言葉で「はっ」と気づいたということは、たぶん私は存在しないはずの基準にとらわれていたのかもしれない。
そんな序章はさておき
死ぬ過程の最後のプロセスの「受容」がいまいちよくわからない。他の過程はわりとイメージしやすいと思います。やはり最後の「受容」が一番難しい。
「受容」と聞けば
私の場合なんとなく、「積極的に暖かい気持ちも持ち<自分、他人、運命、もの、こと>などを受け入れることができる」
というイメージをしていました。
「受容」と「受容」
死ぬ過程、つまりエリザベスの言う「受容」と私の「受容」はかなり違う。
違う感じはたしかにあるんですが、何が違うのかという点はとても説明できない。説明できないということは、私はまだエリザベスの言う「受容」が理解できていないんだなと実感。
死ぬことを「安らかに眠る」という表現をすることがありますが、これだとあたかも「とても暖かく優しい感情をもった上で、ゆっくりと亡くなっていく」というイメージをしてしまいます。
しかし、エリザベスは「受容」の章で「ほとんどの感情が欠落した状態」と表現しているところがあります。
ここで死ぬときには必ずしも「暖かく優しい感情」を強く持っているわけではないことがわかります。
感情
私たちが普段意識しているのは、「感情があるとき、あるいは現れたとき」であって、
「感情がなくなっていく感じ」そして「感情がないときの感じ」に関してはあまり意識しないのではないでしょうか。「感情がないときの感じ」とかもうなんやねんって感じですよね。ないんだから感じないわって思います。
いつも気づけば、元気になってるし、はたまた悲しくなっているし、嬉しくなっていることが多いとおもいます。
「失われていく感情」を注意深く観察することはほとんどありません。
たぶんエリザベスはこの「失われていくもの」を注意深く観察した数少ない人なのでしょう。
失われていくものを観察するのはめったにしないので、私がエリザベスの「受容」の段階を理解できないのは当然でした。
まとめ
このあとマインドフルネス瞑想にて、特に「失われていく感情を消えるまで見てみる」ということを意識してやってみたしたが、これが大変難しい。やはり見ているときはたしかに存在してます。ふと雑念がわき、一瞬そっちの方を見てもう一度見ると、もうそこには何もありませんでした。
「感情、感覚が消える刹那の瞬間」を見るのはかなり難しい。というか見れる気がしない。
すっかり遅くなってしまいました。おやすみなさい。
参考
原:エリザベス・キューブラー・ロス
訳:鈴木晶 (2020) 「死ぬ瞬間~死とその過程について~」中央公論新社
追記 5/30
死ぬ瞬間に関して印象に残った点でとても重要なことがありました。
そもそもなぜ死ぬ瞬間にこのような心理的葛藤があるのかということです。
エリザベス曰く
「無意識の中で、人は自らのことを不老不死だと思っているから」だそうです。
おいおいいくらなんでも無意識くん自意識過剰だろ。って思いましたが、よく考えてみると
たしかに私たちは、基本的には「明日死ぬかもしれない」なんて思っていませんよね。まぁ思っていたとしても、それに恐怖し続けることはないと思います。
実際のところ私たちはいつ死ぬかわかりません。でもだからといって、常に死に恐怖していたら、大変ですよね。
そんなことがあれば、当然私たちの体は恐怖に対抗するために、「闘争逃走反応」を起こし続け、脳内では特定の神経伝達物質がでたらめに分泌し、ポリヴェーガル理論でいえば背側迷走神経が発動して生物の機能を停止してしまうかもしれません。
こんなことにならないためにも、無意識の中では自分のことを不老不死だと思っている方が得策なのかもしれません。
この説が本当なら、人の心(あるいは脳)は良くできているな~と感心するばかりです。
無意識くんが「死」を意識せざるを得なくなったとき、「死」の恐怖を最大限抑えるために、私たちは感情を失っていくのかもしれませんね。