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不器用組織論

はじめに

今回は恥ずかしながら私の苦手なことを赤裸々に綴っている。自己開示と受容、相互理解、それらを超えて「不器用な自分をどのように考えるか」というテーマ。
「個別最適な学び」の重要性が謳われ、個々の特性を理解・尊重しようとする動きは広がってきているが、人々の「生きづらさ」は依然なくなっていないと考えている。
今回の投稿を通して「こんな私でも何かを始めようとしている」ということが伝わり「自分にもできるかな?」と思える人が一人でも居てくれたらと思います。

不器用な私が組織する

私が住んでいる町で社会教育活動を行いたいと考え、宣言し、最初に教わったのが「まずは小さくてもいいからやってみること」そして「仲間を見つけること」が大切だということ。

とは言っても、仲間はそう簡単に見つかるものではない。ただ一緒に活動してくれる人を探すだけでも難しいのに、同じ思いで苦楽を共にしてくれる「仲間」を探すのだから尚更…。

そして、ここで重要なのが「私が不器用である」ということ。そんな私が組織しようだなんて…途方もない挑戦だ。

しかし、「自分も不器用なんだよな」という人は世の中にたくさんいると思うので、不器用なりに組織を構築しようとした試みを通して気が付いたことを記録しておこうと思う。

不器用だからこそ見える世界

先日、大学生と社会教育活動を行うための第2回ミーティングを行った。ミーティングの進行では、私の不器用さが前面に出てしまい、参加者に不安感を抱かせてしまったかもしれない。

この私の不器用さは今に始まったことではなく、幼少期、学生時代、働いてからと、人生を掛けて付き合ってきたものである。
「不器用」であることから辛い思いもしてきたし、人との関係づくりに大きな影響を与えてもきた。
ずっと、「自分の弱み」として捉えてきた「不器用さ」だが、最近は少し捉え方が変わってきた。
「自分は不器用から得ているものがあるのではないか」ということ。さらに、今では「不器用はむしろ強みなのかもしれない」とさえ思う。

不器用には「不器用なりの生き方」があり、「不器用だからこそ見える世界」がある。

前提として1:私の不器用さ

最近は自己紹介の時に「得意なことと苦手なことの差が大きい」ということを伝えるようにしている。このことが起因して、様々な不具合が起きてしまうため、先に知っておいてもらう作戦だ(私なりに学び、工夫している)。

得意なこと:過集中、とりあえず前に進む、間違えた道だったら軌道修正、臨機応変に対応、好奇心旺盛、チャレンジ精神、新しいものづくり、今を生きる

苦手なこと:計画性、特定の記憶力(物の管理、人の情報、スケジュール管理)、記録を取る、継続的なシステムの構築、未来を見通す

この話をすると「少なからずみんな苦手はある」「自分もそうだ」ということを言われたことがあるのだが、この得意と苦手の差が大きすぎるところに「不器用」たる所以がある(中々理解が得られず同じ思いをしている不器用さんがいるのではないだろうか)
致命的なくらい苦手なんです…。

私の不器用エピソード

具体的な事例を挙げると、きっとイメージしてもらいやすいと思う。全てに共通するのは『私はいつも真面目に「よりよい」を目指して走り続けているがそれが逆効果』ということ。

episode1:楽しすぎて相手が見えない…
好奇心の赴くままに、何かを追究し、仲間とワイワイ話し合うのがとても好きである。「宿題をどう思うか」や「子ども達に必要な学びって何だろう」といったテーマでよく話している。
気になることはすぐに学びたくなるし、学んだことは発信したくなる。そんな真面目な話を熱く話しかけてくる人がいたらどうだろうか。しかも何度も…。「正直めんどくさい」と感じる人は少なくないと思う。さらには、「ドラマが…」といった雑談には全くと言っていいほど興味を示さない…。
「教育について深めたい」と思って教員仲間とグループを編成し「みんなで話したら楽しいのではないか」と規模を拡大したのだが、ニーズの違いなのか、熱量の違いなのか、いつも人は離れていってしまう。ファーストインプレッションで「距離を取りたい」と思われてしまうのが私の「いつも」である。
そして、そんな私を面白がってくれたユニークな数人が周りに残っている。

相手の状況や思い、求めているものを推し量って、進めた方がいいことは分かっているので「押し付けないように」と気を付けてはいるのだが、楽しくなりすぎるとどうしてもダメなんです。
辛抱強く深く付き合えってもらえれば「面白い味がする」と少しずつ分かってくるようなのですが…(自分で言うのも…)。

episode2:何事も深く探りたい質でして…
何事にも「問題の本質」が気になり始め「そちらを解決しないことにはどうにもならない」と考えてしまう。このことが起因して関係性を構築できないことは職場でもよく起こる。

「その活動をすることで子ども達は何を得ているのか」「子ども達がその動き方をする根本にある要因は何か(例えば授業中に関係のない話をするのはなぜか)」「そもそも未来が不透明な現代において今ある教育の形はどういう意味をもつのか」等々。
こんな問いを聞いただけで拒否反応が出る人も多いのではないだろうか(このサイトにアクセスして、こんな記事を読んでいる人には興味深いかもしれませんが)。

そんな関心の持ち方をして、熱く情報提供していると、
「いや、そんなことより明日の授業をどうするか」「仕事をどう効率化させて、時間を生み出すのか」「評価基準は何にするか」。
といった「技術的な話」に関心がある人とは会話ができなくなってしまう傾向にある。そして、人が離れていく…。

episode3:明日が見えない…
学校教育では「計画性」が大切にされている。行き当たりばったりでは、様々なトラブルを内包していても予想できないし、「やってみた結果、うまくいきませんでした」では「子ども達への責任」が果たせないからである。

私の人生は行き当たりばったりで「うまくいかないこと」も多々あったが、それでも何とかしてきた。
ここまで苦手ではない人の中には、「努力すれば何とかできるのでは」と考えている人もいると思うが、そんなレベルではなく苦手で、努力しても向上された幅が微々たるものであった。

一週間先なんて濃い霧の中で、明日さえも見えない。一日が終わって、明日の確認をしてやっと、「明日はこれだ」となるのである。その分「今を精一杯生きる力」でカバーして、子ども達の今と向き合っているのだが。「それが自分」と開き直って、「こんな自分にできる教育」を精一杯行っている。
こんなところにも不器用さが隠れている。

以上、エピソードを3つ紹介したが、バランスの悪さを理解いただけたでしょうか。

前提として2:器用の方が優位か

何事も「できる方がいい」と捉えられることが多いのではないかと思う。特に学校では「できないことができるようになる」ために学んでいると言っても過言ではない。ではやはり、「不器用よりは器用の方がいい」ということになるのだろうか。
私は必ずしもそうではないと考えている。

世の中には「器用貧乏」という言葉だってあるし、ここまでAIが発達した時代に「人を頼るロボット」が開発されたりもしている。

「出来る」ことはもちろんいいことだが、「出来ない」ということの中にも「価値」があると考えている。

前提として3:不器用は改善されるのか

人生を掛けて不器用と付き合ってきたことは前述したとおりだが、「努力すれば改善されるか」というと、「そうだ」とも言えるし、「そうではない」とも言える。

様々な失敗を通して、不具合を軽減させる技術を学び、改善方法を身に付けてきたので、少しは問題を回避できるようになってきた。しかし、100あった不具合が0になるかと言えば、30~60くらいの範囲で起こりうるし、その不具合の問題の大きさも、相変わらず「これはまずい…どうしよう…」というレベルのものも含んでしまう。

これは「根本的な苦手さ」が改善されたわけではなく、それを軽減する「スキル」を身に付けただけだから起こるのだろう(昔よりは大分ましだが)。

「オンラインミーティング」より

上記したような前提を踏まえ、教育大生と行った「第2回ミーティング」について振り返っていきたい。今回のミーティングはお世辞にも「うまくいった」とは言えないが、その分、私にとっては学び多き会となった。

不器用組織論1:システムに「失敗」を包含する

不器用故に、うまくいかないことが多々起こってしまう。これをポジティブに捉えると、うまくいかないことと向き合う経験を数多く積めたとも言える。「失敗」や「うまくいかないこと」からの学びは「成功」することに匹敵するか、それ以上に価値があるとよく聞く。これは本当にそうだと思う。
うまくいった時には「達成感」はあるかもしれないが、「思考」は中々進まない。しかし、うまくいかなかった時には、「なぜうまくいかなかったのか」「どこまではうまくいっていて、どこに問題があったのか」「改善するために、どのようなアプローチをすればよいのか」ということを真剣に考えることになる。

「失敗」や「うまくいかない」も含めた懐の深いシステムの構築こそ、よりよい活動、よりよい組織を作っていくために必要なことだと言える。

不器用組織論2:仲間の存在から見えること

今年度の取組では、大学生に加え、大学時代の同期が一緒に活動してくれている。その同期が今回の「ミーティングのうまくいかなさ」を共有し、ともに考えてくれた。
共に振り返りを行い見えてきたことは「不器用でも不器用なりに何とかできるが、理解してくれる仲間がいるともっとすごい(語彙…)」ということ。

【今回の話し合いの課題】
・活動の目的、理念をはっきりさせずに話し合っていた
・たたき台がないので、明確なビジョンをもって話せなかった
・事務的な内容と活動内容とがごちゃまぜになっていて話しにくかった
・活動の見通しがはっきりと持てなくて不安感があった
・ミーティングの議題がないので何を話していいのかふわふわしていた

【その原因】
・目的は第一回ミーティングで触れていたので伝わっていると思っていた。
・目的の部分までみんなで話して作り上げたいと思っていた。
・「与え、与えられる関係」ではなく、「全員が主体となる組織」を目指したいため、たたき台を作らず、ワイワイと話し合おうと思っていた
☆「活動の見通し」をもって計画を立てることが圧倒的に苦手分野なので、事務的な内容に関してはうまく進められなかった ⇒ 一番の要因

【その原因】の上位3項目はそこまで悪いものではないと考えている。フリーに対話をする場合、初めは「道筋が示されていないので、混沌期は必ずある」と思うし、その「混沌期」を乗り越えて全員で一つの形を作れた時に、「一人一人が主体」となれる可能性だって含んでいる。
しかしこの方法では、対等に話し合える関係でなければ発言できなかったり、慣れていない人が不安感を抱いたり、時間がかかったりするのも事実である。しかし、このことは乗り越えられない壁ではないと考えている(時間的制約はあるが)。

今回、問題となったのは「見通しをもつことの圧倒的な苦手さ」である。

何をするにも「事務」という苦手分野は避けられないため、これまで私が組織化する時に「上記したような混沌とした状態になること」は「日常茶飯事」であった。いつもはそのまま突き進み「初めはうまくいかなくても走りながら軌道修正し、最後にはある程度何とか形にできるし、結果うまくいくことも多い」というのが、経験上の実感であった。

そして、今回もそのように進もうとした。「自分がやるといつもこうなるから…」と。

しかし、同期が「みんなで作り上げるにしてもたたき台は大切。苦手なら、今一緒に見通しておこうか」と言ってくれた。必要な事項を項目立てることもできない私に「いつ頃子どもに呼びかけるの?」「それまでに何を決めておかなければいけないの?」と一つ一つ確認してくれた。
そして大まかな計画(たたき台)が出来上がった。なんだかうまくいく気がする。

一人では「うまくいかない」を抱えながら突き進むしかないが、仲間がいれば「うまくいかない」を補い合って、「よりよい」を生み出していける
大学生たちともそうありたいと願っている。

不器用組織論3:それぞれの見える世界×協働=Well Being

上記してきたように、不器用な私だからこそ「感じられるもの」があると考えている。言い換えるならば「器用だから優位」とか「~ができるからよい」ということではなく、それぞれの存在「一人一人には独自の見える世界」があるということである。

先ほどから「器用」「不器用」と言っているが、これは完全なグラデーションであり、それが個性としてそれぞれの中に存在する。「同じ世界の捉え方をしている人はいない」とも言える。

「一人一人の世界の違い」に反発するのではなく、大学の同期がそうしてくれたように「相手の見える世界がどうなっているのか」に心を向け理解しようとした時に共感と協働が生まれる

そして、「多様な世界観」が集まり、協働を通して掛け合わせることができた時「よりよい在り方」に近づいていくのだろう。

終わりに

教員という立場には、多くのバイアスがかかっている。
それは、「これまで自分が受けてきた教育の形」であったり、「子どもに対する責任」であったり、「ルールやマナー」であったりする。

そのバイアスは「相手の世界」を見つめる目を塞ぎ、ともすれば「するのが当たり前」という自分の見方で推し量ろうとしてしまうことに繋がってしまう。

それらのバイアスを一つ一つ見つめ直し「一人一人が見つめる世界」を尊重できたとき「不器用」は「生きづらさ」ではなく「大切な一つの視点」となると言えるのではないだろうか。

不器用に悩む方々へ
不器用なりにも「自分のよりよい」を追究し、うまく出来ないながらも突き進んでいく。
不器用さゆえに「理解される範囲は狭い」かもしれないが、目指してきたことに「確かなもの」があるのであれば、必ず一歩ずつ前進しているはず。
その前進の先に「みんなのよりよい」が存在しているのであれば「自分がうまく出来ていないこと」なんて大した問題ではないのかもしれない。
仲間がいてもいなくても前進する不器用さんたち。
一つ言えることは、あなたに本当の意味で理解し合える仲間が現れた時、もっとすごい!(語彙…)

不器用さんの理解が難しいと感じている方々へ
以上書いてきたように、不器用な人は「扱いにくい」「関わりにくい」と感じる人もいるかもしれません。しかし、その人には「世界が自分とは違う見え方がしているかもしれない」と思えば興味がわいてくるのではないでしょうか。
ここまでくると、不器用と器用を分けて考える必要もないのかもしれませんが、様々な個性(存在)を受け止め、協働することが「よりよい」につながることは確かだということは確信しています。
「相手の世界を知り、受け止める一歩」を一人一人が踏み出せる日が来ることを願っています。

以上、大学生とのミーティングを通して考えた「不器用」に対する考察でした。そんな場を一緒に作ってくれた学生さん達、大学の同期、協力を名乗り出て下さった教育大学の先生に感謝です。

道東より、私の不器用人生の全てを込めて…

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