制約があるなかでも全力で楽しく生きようとする姿勢の話
こんにちは!あいでんです。
最近は天気が不安定ですね。洗濯をしようかしまいかいつも迷います。そろそろしっかり晴れてくれませんかね。
今日は13−14時の1時間しかalways LUNCH が利用ができない幻の店舗へ行ってきました。水餃子うまかった。あと、この白いやつ。
博多わいわい亭 にて
▷「自由」って本当にいいことなのか?
ここ最近はとても自由だ。
時間的自由と精神的自由があるおかげで良質な「暇」を生み出すことができている。
しかし、あまりにも暇すぎると1日が怠惰的になる。
その一方で、外出した方がいい1日を送れる気がするとか、電波が通じない海外に行くといい1日が過ごせる気がするとか、カフェに行くといい1日を送れる気がするとか。
そこでこういうお話がある。
制限された方が意外といいのかもしれないというお話。
これは時間の使い方においても同じことがいえるのではないだろうか。
例えば、期限が決められていない提出物よりも、期限が設定されている提出物の方がやる気が出るし、実際にやる(まあ、やらなきゃいけないから当たり前だけど)。
全く予定がない時よりも、ある程度予定が埋まっているときの方がタスクをしっかりとやったりするし、煮詰まっていたものが一気に晴れたりする。
思い返してみれば、小中学生の時はできることは制限があったけどその分発想力豊かな遊びを思いついたりしていたし、追い込まれたときの方が何かといいアイデアが出たりするものだ。
今でこそ日没とか親とか暗黙の5時ルールとか関係なく外で遊べるし、時間を自由に使えるけど、小中学生(特に小学生)だとそういうわけにもいかない。
日没は家に帰らるサイン。あの5時とともになるサイレンはお別れの合図でした。
でも、限られた時間だったからこそ、その時間をいかに有意義にするのかみたいなことは”こどもごころ”ながらに意識していたのかもしれない。
とはいえ、自由というのも実に捨てがたい。
自由というのは時間的制約によって選択肢が制限されないということなので、自分の裁量次第で時間を使うことができる。
制限があるとそれはそれで生きづらかったりするかもしれない。知らんけど。面倒くさくなってしまうのはあるだろう。
まあ、結局のところ自分を律することができるのであれば自由度が高くてもいいのだろうけど、私のような人間だと予定やタスクをブッ込むことで自分を律するといいのかもしれない。
今のところalways LUNCHと卒論がその役目を果たしてくれている。
子どもの頃のような色々と制約があるなかでも全力で楽しく生きようとする姿勢は忘れたくないものである。
▷おわりに
そう、最近気づいたことですけど、1年もnoteを投稿していたので「文章を書く」ということに関してはそこそこできる自信がありました。
でも、テストとか卒論を通す中で、「書けることを書いていただけ」だったということに気づきました。当たり前だろと思われるかもしれないですけど。
自由に書いているつもりでも自分の中で制限を設けていて、その中で自由に書いていただけだったんですね。
だからその制限の幅を広げるためにも頑張らないとダメだなと感じている今日この頃であります。
それでは、また次回!
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