橘紋 〜なごみ2023年3月号より〜
橘紋はその名の通り、柑橘類のミカンの実と葉を模した紋章である。
この橘を文様として使い始めたのは平安時代中期以降といわれているが、『万葉集』には橘を詠んだ和歌が七十二首もあり古くから鑑賞されていたことがわかる。また『古事記』では橘を「非時香果(ときじくのかくのみ)」と呼び、いつまでも香り高い実で尊い生命力が宿ると信じられていた。
橘の紋章を最初に用いたのは平安中期まで公卿であった橘氏といわれている。七世紀末、県犬養美千代(あがたのいぬかいみちよ)が元明天皇より橘宿禰(たちばなのすくね)の氏姓を賜ったことに始まるが、橘紋を用いた記録はなく、その子である橘諸兄(たちなばもろえ)が聖武天皇に橘姓の継承を懇願したことから御印として用いたのではないかといわれているが定かではない。
橘紋を用いた代表的な武家といえば、代々徳川幕府を支えた井伊家である。井伊家伝記によると家祖である井伊共保(いいともやす)が遠江井伊谷(とおとうみいいのや)の龍潭寺(りょうたんじ)で生まれ、出誕時に御手洗の井戸の傍に一果の橘があったことから、橘紋の産衣を着せたと記されている。それを由来とし、彦根藩の旗印は井筒紋であり、井伊家の家紋は彦根橘紋(井伊橘紋)となったとされている。
幕末の大老・井伊直弼は大名茶人としても知られており、特に茶道の心得でもある「一期一会(いちごいちえ)」という言葉は彼の著作である『茶湯一会集』の一節から誕生したといわれている。
黒船が来航し、開国論と尊王攘夷論のぶつかり合いの中で、幕府大老として日米修好通商条約締結、安政の大獄などを断行したが、安政七年(1860年)三月三日に桜田門外ノ変にて水戸攘夷派の凶刃に倒れた。
平安時代より紫宸殿の警護を司った右近衛府の象徴として植えられている、通称「右近の橘」を家紋に持ってしても加護されなかったことは、さぞ無念であったろう。
引用画像
「井伊直弼像」 狩野永岳筆 彦根城博物館蔵 万延元年(1860年)