ビートたけしの“業の肯定”。
故7代目立川談志を愛する者なら“業の肯定”という言葉はご存じだろう。
俺がこの言葉を知ったのは、元立川一門であり1984年末の「軍団芸名一斉変更令」までは『立川談かん』の名で活動していたダンカン(ふんころがし)から、1985年3月25日に出版されたばかりの“『現代落語論』其二「あなたも落語家になれる」”を勧められてからだ。
ときに立川談志49才の著作。“其二”と断るぐらいだから“其一”もあり、それは29才である20年前に『現代落語論』として発刊している。
──軍団に紛れ込んだばかりの頃、俺は何かと談かんと行動を共にしていた。殿の命で放送作家の仕事へも関わりはじめた彼の手伝でもと考え、始終くっついて歩くその姿から「立川小談かん」と揶揄されもしていた。時にふんころがし26才大道20才。
ある日、ダンカンがおもむろに幾分厚めな本をバッグから取り出し、柄にもなく照れながら「ほらこれ、これ」と示したページは以下であった。
その六 古典落語時代の終焉
3 弟子たちをどう育てるか(279ページ)
自身について書かれた事が嬉しかったのだろう。ちなみに、ダンカンには師匠が2人いることになるが、談志師匠を普段は「大先生」と呼び、殿同様、盆暮れの挨拶も欠かさない。
さてこの本、目次を眺めるとさっそくこうある。
序 落語って何んだ
1. 人間の“業”
このように序章から結論をまず置き、帰納法で展開をはじめている。以下に続くので少々長いが肝心なところなので引用する。
この後さらに『忠臣蔵』を例に取り、落語では四十七士ではなく、討ち入りが嫌で逃げたような奴がむしろ主題になること、松竹新喜劇の人情話『銀の簪(かんざし)』と同じテーマである噺『厩(うまや)火事』を比較し「ひとくちにいえば、“建前”と“本音”の違いが落語である」と続いている。
殿はもちろん二冊とも読了している。“立川錦之助”の高座名を持つ通り、談志師匠に対してはどちらかといえば愛が勝る『敬愛』の念がある。立川談志一門会にも、声が掛かれば何を差し置いても参加していた。
──殿は例えば深見師匠に対し畏敬の念は当然強い。しかし殿はこの師を超えようと俺のボーヤ時代には全知全能を傾けあらゆるアプローチを試みていた。浅草時代も次第に師匠が教えた笑いのポイント以外に独自に工夫をして見せるなど修行の“守・破・離”で言うところの“破”にチャレンジしていたと聞く。
──そして談志師匠。
移動の車中で殿はさながら哲学者だ。流れゆく景色に視線を預け、思索に耽る。ときには眉間に皺が寄り、また弛緩したように虚ろな表情の時もある。
絶対的に睡眠が不足しがちな殿は楽屋ではショート・スリープをとり、移動時間は思考をフル回転させ、思索に没頭する。例えば今までの総括や今後の構想など、閃くまま縦横無尽に、そして奔流のごとく思考を巡らせ、そんな移動時間は常に貴重な“思索の場”だった。
そして目的地でドアを開け降車し歩きはじめながら、しばしば思索の結論を特定の誰に告げるともなく突然口にするのだ。つまり俺しか聞いていない。
──その日は確か中野坂上付近だった。到着しドアを開けるや殿が口を開いた。
車中では間違いなく“業の肯定”に対しての思索だったのだ。談志師匠が落語界に投げかけた“業の肯定”に以前から引っかかりがあったのだろう。
共に江戸っ子。まどろっこしい言い回しを嫌う生理がある。
以前ダンカンから聞いた話では、高校中退で学歴が“中卒”の談志師匠は時折コンプレックスに苛まれる事があったらしい。
特に師匠が1971年に36才で参議院議員となるや、政界で当たり前のように交わされる専門用語群がまるでわからず、大いに焦った。威勢良く乗り込んだ政界だったが、まるでお話にならない現実と自身の体たらくに慌て猛勉強に明け暮れたそうだが、コンプレックスそのものは消える事はなかったようだ。
「談志師匠に限って」とは思うが、どこかにそのコンプレックスの影が“業の肯定”という、幾分難さをもった言葉を使わせてしまったのかもしれない。
それを“弟子”のビートたけしが“業の肯定”を“しょうがねえじゃねえか”と開いた──と言えるだろうか。
思うに殿は自身が敬愛する対象へは“乗り越える事こそ最大の恩返し”と考えていたように思える。逃げることなく真正面に見据え、まさに「挑む」というふうに──
じっさい、フランス座時代、コントに臨む際に深見師匠からの指示を受けるとその「指示」はしっかり踏襲しながらも、必ずそれにプラスアルファのアドリブを入れたと聞く。そこには「師匠を超えるには師匠から言われたままの事をやってはダメだ」との意志が透けて見える。
ただし、厳密に“業の肯定”が果たして“しょうがねえじゃねえか”と全く同じかと問えば各位議論の余地もあると思うし、今今の殿なら更に考え直し別な見解があるのかもしない。
これを読まれた御仁はどうか39才時点の発言であった事はくれぐれも留意されたい。後にも先にも殿が談志師匠の極説“業の肯定”を語った事はこの時だけであったと思うので、ここ記すことにした。
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