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「頑張れ」「努力しろ」に意味は無い
こんなことを書くと、不快になる人や反論する人もいるだろう。承知の上で書く。
今日はタイトル通りのエッセイになる。
私の人生で何度言われたか分からないくらいの言葉たち。幼少期から繰り返され、社会人になってからも言われ続けた言葉たちだ。
「頑張る」ことや「努力する」ことは美徳とされている。それが世の中の共通認識なのは間違いない。強迫観念に近く、盲信する人すらいる。
2つの言葉に共通することがある。
「嫌なことを乗り越えろ」だ。
全てを否定はしない。
しかし、他人に言われたことを嫌々やることに意味は無いと思う。
と主張する私も、以前は肯定派だった。正確には、肯定派というよりも、使うことに疑問を感じなかった。ほとんどの人がそうじゃないだろうか?
大学時代、空手部に入っていた私は脳筋だった。社会人になってからも、頑張って努力するのが当たり前だった。全力投球で仕事をしていた。
だが今は「頑張れ」や「努力しろ」と誰かに言うことへの忌避感が強い。実際に数年間は口に出していない。
何故か?
それは、うつ病になったからだ。
うつになってから、他人から言われる何気ない「頑張れ」という言葉に対する恐怖感が生まれた。
それまでの人生観がひっくり返る体験が30歳を超えた私に訪れた。
うつは、静かに療養することが一番の治療法になる。つまり頑張ることは厳禁なのだ。私の場合、仕事を頑張りすぎて発症した経緯もある。
だが価値観を変えることは容易では無い。
それは分かってもらえるだろう。30年以上も染み付いた考え方なのだ。築30年の家屋をリフォームする場合、少し修繕するだけではどうにもならず、建て替えになるのと同じこと。
すぐには価値観は変わらなかった。自分を見つめ直し、行動を変えることで少しずつ変わっていった。そして数年が経ち、私の考えは180度変わったのかもしれない。
その上で出した結論がタイトルになる。
意味が無いという主張は、その体験だけで言っている訳でははない。
誰かに強制されたことには面白みが無くて忘れてしまう、という理由もある。
受験勉強が良い例だ。
大して興味が無いのに、良い高校や大学に入るために暗記したことは、何も覚えていない。
もちろん、識字や四則演算のように生活する上で欠かせない知識もあるし、義務教育を根幹から否定する気もない。
私が言いたいのは、「強制的な努力は苦しく、つまらない」ということだ。
それと逆のことがある。
自分が面白いと思うことを突き詰めるのは、努力ではない。何故なら苦痛とは思わないからだ。
自分の興味を大事にして没頭することは、努力の何十倍の効果がある。これを「熱中」と呼ぶ。熱中は他者に介入されない主体的な行為だ。あっという間に時間が過ぎていく。
他に伝えたいのは「人は一人一人異なる」ということ。
あまりにも当たり前過ぎるが故に、人はそのことを忘れてしまいがちだ。年齢を重ねると、自分の価値観や経験で物事を判断してしまう特性も拍車をかけている。
努力することが好きな人もいれば、好きじゃない人もいる。好きじゃない人を怠惰と断ずるのは簡単だが、それは努力を美徳とする人のマウントポジションではないか?
何が良くて何が悪いかなんて、主観的な物差しでしかない。
「俺は頑張ってきたんだから、お前も頑張れ、努力しろ」は、ただのエゴの押しつけだ。
私はこう思う。
別に頑張らなくてもいい。逃げ出してもいい。でも熱中できることがあると楽しいよ、と。
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