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「人の善し悪しを勝手に決めないこと」は結構大事だと思った

先入観は関係性を汚すだけな気がする

この人はいい人だとかはまだいいとしても
あの人は性格が悪そうだとか
あの人はああだったらしいよとか
そういう噂話が溢れているのは
「噂話をする人自身に話題になるような出来事がないからなんだろうな」と思う。

お互いに話すことがあれば、そういう話にはならない。
闘病中の話や、アレルギーのことや、気になるお菓子のこと、昨日あったこと。
そういう目で見れば、話題は結構転がっている。
くだらなくたって、オチがなくたっていいのだ。
せっかく会えるんだったら、笑ってもらえる方がしあわせだ。

そりゃ、私だって、
「あんなことがあって困った」という事実が私の身にあって、それを友だちに相談するようなシチュエーションもある。
でも、できるだけ「真実の分からない根拠のない話」はしないようにしたいと思っている。

私は、私以外の人が何を抱えているかを知らないし、
どんな思いを持って生きているかも知らない。
察することはできても、それはすべてじゃない。
辛いけど笑っているのかもしれないからね。
私はそうだった。

だから、その人がどうであるかなんて勝手に決めるのはやめようと心がけている。
出所のよく分からない定かじゃないものに評価をつけるのは、ただその人との関係性を汚すだけな気がするから。

本当の「善し悪し」をつけられるのは自分だけ

「人に善し悪しをつけたい人」は溢れている。
他人の人生をはたから見ては、いいと思えば羨ましくなり、悪いと思えば苛立ちを覚える。
その都度振り回されるのは、「勝手に人に善し悪しをつけたその人自身」だ。
そして、そういう気持ちが溢れている場所は息苦しい。

本当の「善し悪し」をつけられるのは自分だけだ。
自分自身の善し悪しだけを心で思っていればいいんだと思うと、自分のことがどこかで勝手に「よし!」「あし!」されていてもどうでもいいなと思えるようになった。

今日もまあまあ笑顔でいられたから「よし!」
周りの人が穏やかに過ごせているようだから「よし!」
いい人に優しくしてもらえたから「よし!」
最近忘れっぽいのは「あしよりのまあよし!」
洗濯物が乾かないのをいいことに家事をサボっているのは「あし!」

私は私。人は人。
私は私の「よし」を増やす努力をしていたい。

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