「脳業」生活と「農業」生活
たとえば、
都心と田舎、パソコンと軍手、革靴と長靴、
ネクタイとTシャツ、アスファルトと土、高層ビルと畑。
現代社会でいくと正反対のような印象をうける。
モノや情報に溢れた都心やネットの世界と違って自分から働きかける必要があるが、
今の生活に必要なことが詰まっている。
都会は人間だけが住むことを想定し作り上げられた環境であり、いわば「脳業生活地帯」。
大人も子供も玄関から足を踏み出すと、社会的な立場を背負って過ごす日々だ。
そこに自然と共生しながら暮らす「農業的生活」を組み込み、対照的な2つの生活をスイッチできるようになると人生は格段に彩りを増す。
自然の存在は普段の生活の中では不要不急の存在に感じられるが、時を止め、ゆとりを感じることで、
合理性ばかり求める生活の中で、
捉え損ねてしまう些細な変化や感情に気づかしてくれる存在だと思う。
狩漁採集民族から、農耕民族、そして現代と、生活様式を変化させてきたわけだが、現代の生活(公園や川ではなく、タブレット端末が主な遊び場所になった生活)は歴史的に見てもほんのここ最近であり、
科学や技術の進化のスピードと比較して、人が生活環境に合わせて進化するスピードは圧倒的に遅い。
まるで細い線をゆらゆらと描きながらで、地に足つけず、空に浮かんでいる風船のよう。
微風であっても自分の意思とは関係のないどこか遠くへ、飛ばされてしまう。
正しい場所や望んでいる場所へ運ばれる可能性は極めて低い。
いつまでも地に足をつけ、土を耕し良い土壌をつくる。
いつまでも植物や野生(自然)動物でありたい。
僕は高度な生命体ではない。
音に耳を澄まし、色に感動し、それを味わう。
ただ、自然の一部。
※2023年3月7日編集済み※