真田幸村と伊達政宗が戦った! 道明寺・誉田の戦いについてわかりやすく解説します。
道明寺の戦い、誉田の戦いは1615年、大阪夏の陣の最中に起こった戦いです。
道明寺の戦いとは
大阪夏の陣の最中に起こった激戦の一つで、豊臣方の猛将、後藤又兵衛と幕府軍が戦った戦いです。
豊臣方は幕府軍が河内平野に侵入したところを、後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永隊が道明寺で迎撃するという作戦を立てます。
後藤又兵衛の隊は
夜明け前に道明寺に到着します。
ですが、又兵衛の隊以外は到着しておらず、又兵衛隊2800だけで幕府軍34300人を迎え撃つことになります
又兵衛隊は小松山に陣をひきます。
午前4時になると幕府軍が又兵衛隊に攻撃を仕掛けます。
これに対して又兵衛は奮闘し、敵将を返り討ちにするという戦果をあげます。
また、何度も又兵衛隊は幕府軍を撃退しますが、攻める幕府軍の数は3万人にもなっていました。
さすがの又兵衛隊もささえきれず、又兵衛は戦死、又兵衛隊は壊滅しました。
誉田の戦い
真田隊は遅れて到着しますが、到着した頃には又兵衛隊は全滅した後。
しかし、悔やむまもなく伊達政宗の隊が攻撃。
真田隊は、伊達隊をひきつけて反撃します。
両軍入り乱れての激戦となります。
しばらく、激戦が続きますが両軍とも被害が大きく、一度両軍とも撤退し、戦線は膠着状態となります。
すると、幸村は大阪城から撤退の命令を受けます。
これを受けた真田隊は撤退しますが、伊達隊は追撃してきませんでした。
真田幸村の最後
翌日、真田隊は幕府軍本陣に攻め込みます。
家康自身も切腹を考えたほど追い詰められますが圧倒的兵力差を前に真田隊は壊滅。
幸村は戦死します。
同日深夜に大阪城は落城。
徳川の天下が確立します。