『Friday』 第1話 Meguro - Ebisu(inspired by 清水翔太)
自宅近くの目黒駅のホームにアラタが立つのは遊びに行く時だけだ。
仕事も買い物も、愛用の電動機付き自転車で行く。
だから電車に乗るのは、どこからどんな経路で帰ってくることになるかわからない遊びの時だけだ。
仕事を終えた夜8時。
山手線目黒駅のホームは仕事帰りの大人たちであふれている。
慌ただしくすれ違うだけの人々の中に、共有して漂っている一つの空気がある。
「金曜日」。
家路につく人。
遊びに出かける人。
どちらにせよ、仕事のことを頭からやっと解放できるという安心感。
仕事の服から部屋着へ。
仕事の服からお出かけの服へ。
このホームの上で、あるいは電車で移動しながら、誰もが自分を着替えているのだ。
そんな、共有して漂っている一つの空気。
アラタは左手の腕時計を触った。
時計をつけている自分は、外に出ていく自分だ。
電話が鳴った。
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画面を見ると、トモコだ。
その名前を確認してから、アラタは電話を取った。
次の電車が来るまで、2分ほどあったはず。
アラタ「あいよ」
トモコ「やっほー。アラタくん。久しぶり」
アラタ「おー、久しぶり。ってほどでもなくね?」
トモコ「そうだっけ。わかんない。ね、今何してんの?」
アラタ「今、出かける。ユウと出かける」
トモコ「マジ?! ユウくん?! どこ行くの? 一緒に出かけよ!」
アラタ「え、なんで。ユウと遊ぶんだけど」
トモコ「だから一緒に遊ぼうよ。私も今からちょうどミキと遊ぶんだけど!」
アラタ「あー、ミキちゃんね。ミキちゃん、久しぶり」
トモコ「でしょ! どこ行くの? 合流しよ」
アラタ「えーっと、とりあえずユウと合流したらまた連絡するわ。今日はたぶん、とりあえず2人で遊ぶかなー」
トモコ「冷たくない?! いいのかなー、ビッグニュースとかあるんだけど」
アラタ「ビッグニュースって、何それ?」
トモコ「いや、それは合流してからでしょ。いいのかなー、絶対聞きたいと思うんだけど」
アラタ「あ、電車来た。とりあえずユウと合流したら相談してみるけど、たぶんとりあえず2人だと思うわ」
トモコ「えー、遊ぼうよー。まぁいいや、また連絡して」
アラタ「あいよー、じゃあね」
アラタは山手線の外回りの車両がホームに滑り込んでくるのを待ち、乗り込んだ。
恵比寿でユウと待ち合わせている。
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たった一駅の山手線に乗りながら、アラタはトモコのことを少し考えた。
大学の英語のクラスの同級生で、今は鉄道の関係会社で働いている。
アラタはもともと英語に自信があり、トモコも高校でアメリカに留学していたから、一番レベルの高いクラスで二人は一緒になった。
トモコはたしか、留学した女子のご多分に洩れず、適当なオッサンと現地処女を喪失したはずだ。
そういう細かいことをアラタは知らないが、とにかく出会った時からトモコは立派なビッチだった。
そして今もビッチだし、おそらくこれからもビッチだ。
そういうトモコと一緒にいるのは居心地がいいし、遊ぶのも楽しい。
ユウはアラタの中学の同級生。
ミキちゃんはトモコの職場の同僚だ。
トモコとユウは会ったことがある。
アラタはミキちゃんと会ったことがある。
ミキちゃんはたしか彼氏と遠恋中だが、トモコと一緒に行った飲み会で会った既婚の男といろいろあって大変だ、という話しを聞いた気がする。
ユウとミキちゃんは会ったことはないが、まぁ別に大丈夫だろう。
合流するのも悪くはないがしかし…。
アラタは今夜、知っている人よりも、知らない人と遊びたかった。
そして、ユウはなおさらそうだと思う。
だからトモコの誘いにすぐに乗らなかった。
今夜は、もっとオープンに楽しみたかった。
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アラタとユウは恵比寿で落ち合った。
駅前の街角のラフなイタリアンを出す立ち飲み屋で、サラミやオリーブを噛みながら近況を交換した。
ユウは相変わらず、とっくに卒業した大学のサークルのかつての同級生に惚れつづけていた。
そして、もはや自分が浮気性の相手にとっての何番目の男なのかわからず途方に暮れていた。
アラタはユウのそんな姿を見るたびに、途方に暮れるほど好きになれる相手がいるのは素敵なことだと思う。
惚れた相手の一貫性の無い行動に振り回されることを嘆くユウの姿はまるっきり幸福そうではないにしても、アラタにとっては少しまぶしい。
アラタには今、そんな風に思える相手が誰もいないからだ。
それがアラタの近況だった。
アラタ「どうするよ」
ユウ「ねえ」
特に何かアテがあって集合したわけではない。
アラタは時計を見て笑った。
アラタ「まだこの店入って20分だけど。もう話すことないのかよ」
ユウ「そうねえ」
アラタ「まだ9時前。何でもできるぞ」
ユウ「ああ、なんでもできるな」
アラタ「金曜の9時前。ヤバくね?」
ユウ「ヤバい。ヤバい。」
ユウがニヤリと笑った。
アラタも、腹の奥から笑いが込み上げてきた。
金曜の夜は奥が深すぎる。
その深い深い夜の、まだ帳の縁に立ったばかりなのだ。
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それから20分後、ユウは「相席屋」の下をウロウロしていた。
アラタ「ダメ、12組待ち」
階段を下りながらアラタが言った。
12組待ちでは、早くても2時間は待つだろう。
「相席屋」は男同士のペアと女同士のペアが相席になるシステムの居酒屋だ。
女はタダなので、それで需要と供給のバランスが成立している。
ユウ「アホくさ。ほか行こうぜ」
振り返ったユウの横を通り過ぎて、ちょうど今も二人連れの女が相席屋への階段を登ろうとするところだった。
ユウ「あ、相席屋行くんすか?」
ユウは反射的に声をかけていた。
ユウ「なんか、すげぇ並んでるらしいっすよ。男は12組待ち。女はいくつだった?」
アラタ「4組待ちだって。早くて40分とか1時間ぐらいじゃん?」
まだ階段の途中にいたアラタは、適当な数字を答えた。
ユウもアラタも、とっさに二人連れの雰囲気と顔の様子をうかがっていた。
そしてアラタもユウも声に出さずにこう思ったはずだ、「けっこう可愛い」と。
それがお互いに通じていた。
ユウ「そういうことなんで、行っても待ちますよ。それよか俺たちと飲まないっすか。」
二人連れの女は「え?」などと言いながら考えている様子だった。
アラタ「あ、ちょっと階段の途中なんで、降りましょう」
ユウ「どうっすか? はいはい、ちょっと俺らの格好見て、それで選んでいいから」
アラタ「そうそう、中入ると、相手選べないよ。今なら、選べる」
ユウ「いらなかったら、『チェンジ』って言って! 他の人呼んでくるから」
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「渋谷まで歩くぞー!」
ユウが叫びながら線路沿いの道を駆け出していく。
「るせ!走ってんじゃねぇか!」
アラタはユウの背中に向かって声を投げつけた。
ユウはしばらく走ると、線路沿いのフェンスによじ登ってアラタのことを待った。
アラタが近づくと、またフェンスから飛び降りて走り出した。
そして、しばらくいったところでフェンスに登って待っている。
せっかく一緒に飲み屋に入った女子二人連れも、ユウの奇行に恐れをなして帰ってしまった。
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最初から、女子たちのほうもウザい感じではあった。
「え、彼氏いたことないからわかんない」とか、何か質問するたびに「当ててみて?」などと言っては自分たちで笑っていた。
それでも、一つ一つ律儀に笑いに変えていくことで、それなりに場は暖まってきてはいたはずだった。
ところが、ユウの会話への入り方がおかしいのだ。
ユウ「え、じゃあ俺たちのうちで、逮捕歴があるのはどっちだと思う?」
ユウ「まぁ俺たちもあんまりハメ外すと所属事務所がうるさいからね」
ユウ「はい、じゃあこれがホージーのマネ! ここから歩幅を少し狭めて、でも腰の高さは変えないように膝を曲げると誰になる? ヒントはロッテ!」
などなど、ハチャメチャな会話を入れ込んでくる。
そのたびにアラタは律儀に突っ込んで場を持たせていた。
アラタ「おい!前科持ちを暴露すな!で、どっちだと思う?」
女A&B「……」
アラタ「その目は俺って言いたいのか?!」
アラタ「やべ、そうだ。マネージャーから連絡来てない? って、とりあえず乗ってみたけどめんどくせーわ」
アラタ「ホージーって古いな。フランコでしょフランコ。ちがった、ボーリックかー!」
などなど。
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ユウ「アラタってさ、すげーヤツだよな」
駅のコンコースに向かって歩いていく女子二人の背中に中指を立ててニヤつきながら、ユウが言った。
アラタ「すげーのはテメェだよ。テキトーすぎんだろ!」
ユウ「頭の回転がすげーよ。やべ、振り返った! えーい、しねーい!」
振り返った女子二人にユウはわざわざ片膝立ちのポーズを決めて、左手を右手のひじに添えながら右手の中指を思いっきり立てて笑った。
ユウ「ギャハハ、バイバーイ!」
女子二人は心底からウザいという表情を見せて、もう二度と振り返らなかった。
ユウ「ちゃんとさ、いろんな人のこと考えて、ちゃんとバランスが取れて偉いよ。あー、俺はダメな奴だなって思った」
アラタ「お前がダメな奴なのはたしかだな」
ユウ「どーすんだよ!連絡先すらゲットしてねーよ!」
駅前で叫ぶユウを、通り過ぎるサラリーマンやOLが振り返っていく。
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恵比寿駅前を忙しく通り過ぎる人々には、目黒駅で見たような一体感は無くなっていた。
それぞれがすでに自分のやることを見つけてしまったかのようだ。
飲み会を終えて家に帰る人。
デートからどこかへ泊りに行く人。
誰かを上手く捕まえた人や、捕まえそこなって帰る人。
目黒駅から3時間が経過した今、アラタの収穫はゼロだ。
アラタ「おい、ユウ」
ユウ「なんだよ」
アラタ「次どこ行く?」
ユウはアラタの顔を見ると「ひひっ」と笑った。
金曜の夜は深い。
書く力になります、ありがとうございますmm