11.その部族長は探求を命じたのか?
次にハナから電話がかかってきた時、トシはドミトリーのベッドに横たわっていた。
時刻はすでに昼を過ぎていたが、トシはまだ泥のような眠りの中にいた。その前日、というより、その朝まで出かけて酒を飲んでいたのである。
ベッドに埋もれるようにして寝込んでいたトシが電話に出てみると、「手に入れたよー」といういつものハナの能天気な声がした。
寝起きで頭に雲がかかったかのようなトシは、ハナがいったい何を言っているのかわからなかった。
それで聞き返したところ、「えー、ガンジャー」と言われたので、トシは一瞬おいたあと、「あぁあれか」と思い出した。
ガンジャとはこちらに来て初めて聞く名であったが、別の名ではグラス(ハッパ)、などと呼ばれ、ハナとトシが前回会った時に話題に上り、トシはいくらかの興味を示したのだ。
つまりトシは、日本ではよほど犯罪的な存在と目されているガンジャを、海外でなら良心への負担をずいぶん少なく楽しめるのではないかと考えたのだ。
アメリカといってもニューヨーク州ではそれはまだ違法ではあったものの、連邦の気まぐれで八十年前にはアルコールが違法だったのと同じように、
ガンジャも州の気まぐれでどちらにでも傾きうるものだったから、良心に咎めを感じるほどのものではなかった。
それでトシがせっかくだから体験してみたいと言ったところ、ハナは手に入れてみようと気安く請け合ってくれたのだった。
トシはその会話の事をほとんど忘れていたものの、ハナがわざわざ気にして手に入れてくれていたのが嬉しかった。
それでトシは、その夜ハナの部屋に遊びに行くと約束した。
夕方にはほとんど完全に回復したトシは、いそいそとハナの部屋に赴いた。
そこで今夜の計画を相談した結果、せっかくなのでまずは外に出かけて食事をしようと決まった。
その後、ほどよく酔ったところで部屋に戻ってきて、ガンジャタイムといそしむわけだ。
それでトシとハナは、前回クラブに出かけた時よりもずっとラフな格好でふらりと出かけた。
目当ては二ブロックほど下ったところにあるギリシア料理屋だった。
ここに引っ越してきてからの短い期間で、ハナはその店のマダムと顔見知りになったらしい。
ハナが一時的にニューヨークを楽しみに滞在しているカネのない学生だと承知してくれているそのマダムは、何かとおまけをしてくれるということだ。
ところが、出かけてみるとその店は休みだった。
それでひとまず、適当に歩いてみながら良いお店を見つけて入ってみる事にした。
ちょうど夕暮れにさしかかって傾き始めた太陽に照らされて暑くも寒くもなく乾いた気候は、あてもなく歩くにはもってこいだった。
二人にあてはまるで無かったけれど、足が誘われるかのようにハドソン・リヴァーに自然と向かっていた。
そしてリヴァーサイドの公園の入り口にケバブの屋台が止まっているのを見つけたときには、それ以上何かを探す必要などなかった。
欠けているのはビールだけだったから、二人は一度引き返して近場のデリに寄った。
これによって、片手にケバブ、別の手にビールという態勢が完成したわけだ。
河畔にでるとハドソン・リヴァーは右にも左にも際限なく伸びて、そして広い川面のはるか向こう(それでいてなぜか手が届くかのように身近に感じられる)には、ニュー・ジャージーのビル郡や森が延々と長いスカイラインをどこまでも刻んでいた。
空は破格に広く、どこまでも高く、日はななめの角度から控えめに照らして、風がゆっくりとすべての人々と木々とベンチと柵と芝生を撫でていく。
ハナとトシはその中を歩いて、やがて芝生の上に絶好の場所を見つけて腰かけた。
いつまでもその場所に寝転がっていられそうだった。
その瞬間をそれ以上に満喫できる方法は他に一つも思い浮かばなかった。
日が暮れた後、さて頃合いかと感じたところで、二人はアパートの部屋にもどった。
すっかりいい気分で、部屋に戻るだけなのに浮き立っていた。
部屋にはまだ知らない、初めての体験が用意されていたからだ。
ハナの小さな鞄から簡単に取り出されたガンジャはポリ袋に入っていて、想像していたよりも小さかった。
ハナがまず口に咥えて火をつけ、トシに手渡した。
トシはふかすだけなのか、胸まで深く吸い込んだほうがいいのか聞いてみた。
吸い込んでみたらいいと思うけど、たぶんむせると思うよ、とハナは答えた。
それでトシは煙を口に含んだ後、吸い込んで肺に入れてみようとしたが、ハナの言うとおりに激しくむせ込んでしまった。
少しずつ吸ってみ、と言われたので、欲張らずに少量を口に含んで、無理のない程度に吸い込んでみた。
慎重にやってみると、これならいけそうだった。
「それでどうなるの?」とトシが聞いてみたところ、「楽しくなってくるよー」とハナが言っていたので待っていたが、どちらかというと体が重くなってきて、気づいたときにはトシは寝てしまっていた。
それは完結した眠りだった。
そこには不安も、不満も、不足も、なかった。
ただ自分自身として、とても長く、トシはどこまでも、どこまでも、始まりも終わりも無い安全な穴倉を、どこまでも疲れなく平常心でただひたすらに歩いていくかのように眠っていた。
丸一日は眠っていたかのような長い眠りから、少しずつ目覚めてみると、自分が誰でどこで何をしているのかさっぱりわからなかった。
混乱している事にすら気づかないほどの混乱の中から、自分を少しずつ思い出して現実感覚を取り戻してみると、川辺から部屋に戻ってまだ一時間も経っていなかった。
ハナがそこにいて、「寝ちゃったじゃーん」と、平和な言い方で静かな不満を表明した。
トシはハナの事などまるで自分と関係が無くどうでもいいほどに満たされて優しい気持ちだったから、「ごめんごめん」と謝った。
トシは完璧で、完全だったから、外に出たかった。
自分以外のものと出会い、驚いて、冒険がしたかった。
それでトシはハナを完全に肯定していたしハナもトシを当然肯定していると一点の疑いもなく信じる心で、一緒に外に出かけようとハナを誘った。
トシはこの提案は当然受け入れられるものと信じきっていた。
そしてハナはその提案を受け入れた。
ただ、その前に、さっきのガンジャを少しだけ残しておいたから、もう一服してから出発しようと言った。
トシも、この提案を当然受け入れた。この時のトシは、ハナがしたいことなら何も拒まなかっただろう。
ガンジャを吸いきってアパートの部屋を出た二人はさらにダウンタウンへと下っていった。
落書きにまみれた上に薄汚れた地下鉄のホームで、いつ来るとも知れない電車を待ちながら、二人はわけもなく愉快だった。
肘でこづきあい、目配せを交わすだけで笑い転げていた。
やっと来たと思った電車はなぜか速度をゆるめもせずに目の前を走り去り、太った中年の男が遠ざかっていく電車に向けて悪態をついた。
地下鉄の駅を支える灰褐色の分厚いコンクリートにはなぜか気のおけない親しみがあり、その中で二人だけが色づいているように感じた。
ただ電車を待って立っていただけなのに、片時もじっとして落ち着いてなどいなかったような気がした。
チャイナタウンからカナルストリートを挟んだ向かい側の路地にあるクラブの前には、人だかりができていた。
入場規制がかかっているのだ。
例によって黒人のでっぷりしたガードマンが入り口をふさぎ、なんとか交渉して入れてもらおうと、かわるがわる声をかけてくる群集を、何らかの基準で入れたり入れなかったしていた。
ほとんどの客は門前払いをくらい、ガードマンは群がる群集を次から次へと一蹴しては、群衆の全員に向けて何かを伝えようと野太い声を響かせていた。
おそらく、その基準を伝えてくれているらしかったが、人が多すぎて全然伝わっていなかった。
ドアの横からはチェーンの仕切りの中におとなしく並んでいる人たちの列ができていたから、ハナとトシもひとまずおとなしくその列に並んだ。
人々は薄明かりの中で、落ち着かない様子で言葉を交し合っていた。
多くの人々が浮ついていて、急いで移動したり、電話で誰かと連絡を取っていたりしていて、何かが起こっているのは確かだった。
その列から入り口を観察していると、トシはやがてある事に気づいた。
中に入るのを許されるのは、女性に限られていた。
あるいは、男性よりも女性の比率が多いグループだけを通していた。
それで、次にガードマンが列に並んだ人々に向かって何かを言ったとき、トシはハナの腕を取り、思い切って「ヘイ」と声をかけて前に進み出た。
「男が一人、女が一人だ。いいだろ?」というようなことをガードマンに言ってみた。
野菜のカブみたいな腕をした黒人はバカにしたような顔で何かを言ってきたが、トシは理解できなかったので自分の考えをただ伝えようとした。
つまり、トシが観察していた限り、自分達は入れてもらう資格があるのではないかという事を熱弁したのだ。
やがて小ざかしげなアジアの小僧が嬉しそうにキーキー言っているのに黒人の嫌気がさしたのか、突然チョイチョイとぞんざいに手招きすると、早く入っちまえとでも言うように二人をドアに押し込んだ。
その光景を見ていた周囲の群集から抗議の叫び声があがるのを、トシは背後に感じた。
入ってみるとそこは当然に薄暗く、黒い壁に囲まれて細長く前方にまっすぐ伸びた通路だった。
天井は高く、その通路の出口にはカクテルライトに照らされたフロアの空間が見えた。
そこから見ただけでもフロアはとても広く、向こう側の壁がスモークに煙って見えないので、どれほど広いかわからなかった。
それもそのはずで、そのワンフロアがそのクラブのすべてだったのだ。
フロアに満ちた人々の頭がたくさん見えたが、通路には人はまばらだった。
トシはハナの手をとって、その通路をフロアに向かって歩いていった。
途中ですれ違った背の低い黒人の少女は信じられないほどの美人で、交差する紐以外には肌が剥き出しの背中をトシはふり返って目で追いながら、チョコレートとはまさにあのことだと思った。
あんなに傑出した美しさの少女が、いったいニューヨークのどこから来てどんな生活をしていて、これからどうなっていくのか、トシにはまるで想像もつかなかった。
どこにいようと、周囲の少年や男達を浮き足立たせている事だけは間違いないと思った。
フロアは青い光に照らされていた。
足を踏み入れて正面の左手、ずいぶん高いところにDJブースがあり、二人の男が忙しく動き回っていた。
人ごみはそれほどひどくなく、進みたい方向に進める程度のものだった。
別に熱狂的に盛り上がってるわけでもないんだね、みたいなことをトシとハナは叫びあいながら、右の壁につくられた箱の中にあるバーカウンターに向かった。
何か、トシの経験からして例外的に居心地のいい何かが、このクラブにはあった。
これほど殺気だっていなく、かつこれだけ寂れていないクラブは、トシには初めてだった。
四角いカウンターの中に立つ数人のバーテンダーは三面からの注文に答えていた。
自分の順番が回ってくるまでカウンターに肘を置いてもたれて、隣と会話ができるくつろいだ雰囲気がそこにはあった。
なんか、いいね、とトシは言った。
オシャレじゃない?とハナは言った。
箱の外には、フロアの上で交差しまくる人々の姿が見えた。
トシとハナがその箱からフロアに足を踏み出した瞬間、人々の動きが変わった。
まるで透明な水に、色のついた水を数滴たらしたかのように、複数のポイントから少しずつ顔を見合わせてささやき合う動きが浸透していった。
ビートは一定のリズムで空中を満たしており、全身にぶつかってくるその波動の中心を確かめるかのように、ななめ上を見つめている人たちが何人もいた。
「あぁ、交代か」と気づいたトシも上を見あげると、ちょうどDJブースで動き回る人数が増えて、青い光に包まれてあわただしく何かを運んだりセットしているところだった。
「何?」。
「DJの交代だよ」。
トシはバーの箱の横の壁にもたれかかり、ハナの場所も空けてやった。
人は、増えてきているようだった。
降り注ぐ青い光をあいまいにさせていくスモークに包まれて、人々が交差し、体を揺らし、くねらせて、うごめいている。
一定のリズムの爆音が、すべての人々の服を等しく平等に振動させている。
誰かが誰かを探している。
傍らにいる友人に大声で叫んでいる。
見知らぬ誰かに声をかけている。
酒をおごっている。
無謀にも電話に向けてどなっている。
背中がぶつかる。
ののしる。
目を閉じて音に身をゆだねる。
上げた手が誰かの顔にあたる。
酒を落とす。
悲鳴があがる。
やがてどこからか自然と拍手が聞こえ、
皆が手を上げて歓声をあげ始めた。
熱狂的な拍手もあれば、おざなりな拍手もあった。
クラブには、自分の都合で忙しい人が多い。
しかしこのクラブには、手と足を止めてDJの交代を待ち受ける余裕のある人々がいる。
それが、トシには珍しかった。
やがてDJブースの中の一人が片手を上げて、歓声にこたえた。
そいつが目の前の機材に手を伸ばしていじり始めると、確かに耳をすませていたはずなのに、さりげなくいつの間にか、ビートが変わっていた。
そしていつの間にかピアノのフレーズのループが差し込まれている。
トシは確かに耳をすませていた。
しかしまるで万華鏡をのぞくかのように、重なった音たちは次々と音色を変え、数を変え、バランスを変え、まるでつかみどころがなかった。
トシにはそれが、四拍子ごとに変わっているのか、一瞬たりとも同じ姿であることはないのか、それとも数十秒は同じフレーズを繰り返しているのか、その区別すらつかなかった。
ギターのカッティングが入っている事に気づいた時には、知らぬ間にベースが抜かれていた。
低音はすぐに返ってきたが、女性の澄んだ歌声が乗っている。
歓声が上がった。
トシはまるで目が覚めたように、ハッとした。
「真ん中に行こう」。
ハナに声をかけ、人をかきわけてフロアに出て行った。
フロアの全体は四角い形をしているが、その端に大きな円形がくり抜かれた広い空間がある。
DJブースはその円形の奥の頭上にある。
DJブースから見下ろすと、その円形の中心が一番よく見えるようになっているはずだ。
照明もその中心に一つの集中をつくっている。
トシとハナはその円形の中心付近まで進んだ。
トシはこの音楽を存分に味わいたかった。
その円形が、このフロアにおける一つの中心であり、スピーカーの構成もその場所に一つの中心をつくってあると思ったからだ。
人々はその場所で身を寄せ合いながら、思い思いに音に身を浸していた。
トシも目を閉じて、変幻自在の音の重なりを感じた。
ハナもついてきて、隣で好きにしていた。
トシは空中を見上げた。
光が次々と形をかえ、スモークがただよっていた。
トシはふと思いついて、「すぐ戻る」とハナに声をかけると、突然ふり返って人ごみをかき分けて進み始めた。
バーカウンターにたどり着くと、バーテンダーに「このDJは誰なんだ?」と叫ぶように聞いた。
金髪を短く刈り上げて黒いシャツを着た白人のバーテンダーは、迷うことなく一つの名前を告げた。
「Q‐ティップ」。
その名前と、バーテンダーがそれを告げる様子から、トシは今夜のこのクラブは彼が主役なのだという事を察した。
それで、クラブの外はあんなにも、どうにかしてフロアに入りたい人たちで混みあっていたのだ。
トシはもう、どんな音も聞き逃したくなくて、すぐにハナのいるフロアへと引き返した。
書く力になります、ありがとうございますmm