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3-10.神の照らすクロスロードに悪魔はたたずみ、エルフは道をためらう


 俺の前には二つの道がある。
一つの道は、ミエコちゃんとの関わりを捨て、俺がずっと大切に育んできた流動性の生活へと帰る道だ。
もう一つの道は、ミエコちゃんという外部性を俺の生活の中に取り入れ、土着性を育むことだ。
今の俺はどちらの道も選ぶことができる。
そしてどちらの道のほうが「より正しい」ということは言えないから、どちらを選ぶかは俺の胸算用一つで決まる。

 かつて電車の中で見た、ある中年の夫婦の印象が、俺の中には強く残っている。
その夫婦の風貌は互いによく似ていて、行動や会話の細部までもが自然に調和していた。
それと同時に、二人の風貌はひどく冴えないものだった。
二人の風貌の冴えなさは、二人の処世能力の貧弱さに由来するものではないと感じられた。
というのは、二人とも顔の造形は整っていたし、表情や仕草から見て取れる知性は明らかに秀でたものだったからだ。
その気になれば身なりを整えて外見の魅力を上げることぐらいは、彼らならば簡単にやってのけるはずだった。
とすれば、二人の風貌が冴えないのは、二人が外見を飾る意志を持っていないからだ。
そしてなぜその意志を持たないかといえば、二人が現状に満足しているからに他ならない。
それが、俺の中に強い印象として残った。
あの夫婦は、他人からすれば特に魅力の無いゴミだ。
しかし彼らは、他人からのもの欲しげな視線など、必要としていないのだ。
それはそれで一つの生き方だと、俺は思った。
流動性の市場から降りること。
しかも、「誰かと一緒に」降りること。

 今、俺が選ぶべき二つの道は、ミエコちゃんをゴミとして捨てるのか、ミエコちゃんと一緒にゴミになるのか。
そういう選択だ。
そして、一緒にゴミになってもいいと思える女と出会えることが貴重な事であると、俺は自分で理解している。
だからミエコちゃんを捨てるにしろ、共に生きるにしろ、選択はどちらにしても、覚悟を伴うものになる。


 「なぜそれがミエコちゃんだったのか」。
自分の心に問いかけてみて、俺はその答えをわりと明確に見つけられると思う。
拍子抜けのような結論だが、本来平等であるはずのすべての女の中から、俺がミエコちゃんを特異な位置につけてしまった原因は、俺とミエコちゃんが同じ中学校出身だったという事につきるだろう。
俺がミエコちゃんと再会した時、俺が平等性と合理性の世界から外れてしまうそもそもの原因をつくってしまった「誤謬」は、彼女を俺の前に現れた単なる肉体と個性ではなく、一つの物語として捉えてしまったことにある。
中学生から現在までにミエコちゃんが辿ってきた変遷を俺の心が問いかけてしまったことは、それまで俺が慎重に避けてきた過ちだった。
俺は彼女の物語に耳を傾け、あまつさえ自分の物語を優しい気持ちで語ってしまった事で、早くも二人の物語をつむぎ始めてしまったのだ。
さらに同じ中学校出身であることの現実的メリットとして、共通の友人たちと今後近隣同士で人生を分け合っていけたら素晴らしいのではないかという希望や、双方の両親が手近に住んでいる事で子育ての負担が減る事など、未来に向けての楽しみや現実的算段までもが俺の脳内でくり広げられてすらいるとき、俺はもはや名前を失くした一個の透明な全地球市民としての都市生活人ではなく、土地と人間関係に根付いた名前のある具体的な人物になってしまっていた。
それまでの俺の生活は、自分が何かの象徴や意味をそなえた顔と名前のある個人ではなく、「単なる肉体とそれに付随する情報」に過ぎないという前提を守ることによって、成り立っていたにも関わらず、だ。

 ある場面を思い出す。俺とミエコちゃんはその日、井の頭公園駅の駅前を、吉祥寺方面に向かって、公園の入り口へと歩いていた。
その時、俺はその見覚えのある場所を、ずいぶん懐かしく感じていた。
その場所に来たのは中学生以来初めてで、記憶に残っていたその景色が井の頭公園駅前であるということすら、俺はその瞬間まで忘れていた。
公園の入り口に立てられた銀色の低い車止め、公園の中へと入っていく低くて広い階段、高い木々に覆われるようにして土に直接埋め込まれているいくつもの遊具。
そして、その公園の脇に沿って商店街の横を抜けていくアスファルトの道は、十数年前の俺が仲間達と六人ほどの群れをなして自転車で帰っていったその道のままだった。
あの頃、俺と仲間達は、用もなくただ自転車で吉祥寺に来ては帰っていくのがお気に入りだった。
途中のコンビニで買うチュッパチャップスやアイス、味つけ卵などの味が、今でも口の中によみがえる。
俺がそのことをミエコちゃんに話すと、ミエコちゃんは俺との共通の友人の話や、ミエコちゃんがその頃何をしていたのかの話をした。
そして、ミエコちゃんはあの頃、俺の母親を見たことを覚えていると言った。
ミエコちゃんがクラスの男子と一緒に帰ったある中学三年生の午後、その男子は俺の家の前に自転車を置いていたのだそうだ(俺の家は中学から近かったから、家が遠い友人達はよくうちに自転車を置いて学校に通っていた)。
自転車を出す時に、ちょうど俺の母親が、買い物にでも行くところだったのだろう、家から出てきた。
「こんにちは」とあいさつを交わしたたった一瞬のことだけれど、ミエコちゃんの中には俺の母親の印象が残っていた。
それはもちろん、たまたま男子と一緒に帰っている場面に出くわした事や、その男子が禁止されている自転車通学をして置かせてもらっている事などの気まずさで、その瞬間が今でもミエコちゃんの記憶に残るほどの印象にはなっているのだろう。
それでも、なぜかその時、井の頭公園を歩きながらその話を聞いた俺は、「この人は俺を知っている!」という感触に打たれたのだった。
ミエコちゃんと俺はあの頃同時に中学生だった。
子供として親に面倒を見られている、無防備で幼いあの頃の俺と、確かに同じ時間、空間に生きていた人なのだと、なぜか感銘を受けた。


 では、俺とミエコちゃんは「運命」だったのだろうか。
ある意味ではそうだ。
同じ中学校出身で、この年齢で再会しなければ、これほど惹かれることもなかっただろう。
ミエコちゃんと、ミエコちゃんを基点として始まる諸関係の中に埋め込まれる事によって、俺は始めて具体的な人物としての顔と名前を持つ。
その対照的存在としてミエコちゃんもまた、俺と関わる事によって具体的な肉と声を持つ。
お互いに出会う事によって何かが始まり、かけがえのないものになっていく。
俺たちは二度とゴミにはならない代わりに、死を得る。
孤独の中で新鮮でいるよりも、誰かと一緒に腐るという、固有性を得る。
それは運命とも言えるだろう。

 しかしむしろ俺として注目したいのは、元始の時点ではそれがほとんど誰でもよかったということのほうだ。
ある人と出会ってその物語を語り始めた途端、それは運命になる。
たとえそれがミエコちゃんでなくとも、俺が誰かと出会った時に同じ誤謬を犯していれば、それは「運命」になっただろう。
ミエコちゃんでなければ始まらなかったという事はないし、俺を変える特別な何かがミエコちゃんだけにあったというわけでもない。
それは、嘆くべきことだろうか。
神様が俺たちに、何かロマンティックで重要な宣託をあらかじめ下しておいてくれたわけではなく、たまたまの行き当たりばったりで出会った誰かと寄り添って生きていくということは、嘆くべきことだろうか。
そうでもないと、俺は思う。
なぜなら、それはたしかに神が与えたものではないが、俺が自分で始めた事なのだから。
自分で始めた事のほうが、神に与えられた事よりも尊くないと、誰に言えるだろうか。
自分で始めた事だからこそ、そこに責任も生まれる。
そして目下のところの俺の問題は、この「責任」という悪魔的な、そしてどこまでも人間的な産物を、自分で背負い込むことにするのかどうか、だ。


第四部 2014年 二十七歳 トシあるいはイチ

書く力になります、ありがとうございますmm