3-8.女たち
いくつかの、俺の心に残る疑問がある。
それは誰か特定の女によって生まれた疑問というよりは、何人もの女を知る中で、奇妙とも言えるほど共通した出来事があったからこそ生まれた疑問と言える。
ある女たちは俺に「会いたい」という気持ちと「会いたくない」という気持ちを同時に示した。
それほど正確に相反する気持ちを同時に示すという、論理的には不可能とも言えるような矛盾した感情表現を、俺のほうでも確かにそれが本当に違いないと疑いの余地なく信じられるほど非常に説得的に示してみせた。
たとえば夜に連絡をとってみたところ、俺と彼女がたまたま近い場所でそれぞれに別々の集まりに参加していたような時。
まだ新しく温かい二人の関係性からして、せっかくだから落ち合って一緒に夜を楽しむのが自然と思えるのに、女のほうでそれに向けて抵抗を示すことがある。
ためらいながら、だからといって、そんなつもりはまるで無いときっぱり断るのでもない。
そんな時、彼女の心は確かに俺に会いたいのだが、しかし同時に強い気持ちでためらってもいるのだと、俺にはすんなりと知れる。
それは論理的には矛盾しているけれど、感情の働きとして不自然な事とは感じられなかったし、おまけに特に珍しい事でもなかった。
他にもたとえば、二度目や三度目に、仕事の後などで、今度はデートや外食という前段階を踏まずに直接女を家に呼ぶ場合にも、同じような矛盾したためらいが示される事はよくある。
あるいは、ある女たちは、くり返す悪夢に苦しめられていた。
時に悲しい夢、あるいは苦しい夢、恐ろしい夢。
あまりに悪夢を日常的に見るので、彼女達にとって悪夢は生活の一部であり、しつこい肩こりや頭痛を受け入れざるをえないように、もはや悪夢を取り去りたいという希望も薄れかけているほどだった。
あまりにありふれていたから、女というものは夜に怯えるものなのだといって終わらせてしまってもよかったのかもしれない。
しかし俺には、その悪夢のすべてが原始からの本能的なものだとは感じられなかった。
彼女達の悪夢の話を聞き、また彼女達についていくらか知るとき、悪夢の背景にはある共通した、広々とした寂しさがあった。
その寂しさは、まるで水を手で押すように、滑らかな砂の上で足をかくように、彼女達があがいてみても自力で抵抗するのはあまり効果がないように思える種類のものだった。
その寂しさを解消するには、彼女達がどのように足掻くかということを考えるよりも、もっと広い視野で環境のほうに働きかけ、足場のほうから変えていく必要があるように感じられた。
ミエコちゃんが見せたあの目には、「会いたい」と「会いたくない」のように、互いに矛盾して相反した二つの気持ちに引き裂かれながら、必死で抵抗している強さが込められていたように、俺は感じる。
そして、隣の「自称マネージャー」に支えられて歩くかのように弱って見えたその後ろ姿の向こうには、あの悪夢を生み出す、暗い水のような寂しさがあるように感じる。
きっと女同士はそれをわかってやれるから、あのように支えあうのだ。
書く力になります、ありがとうございますmm