7.「thinking bout you」 – 『PROUD』 全曲ソウルレビュー –
※2016年12月16日に自作ブログに投稿した記事のサルベージです
「thinking bout you」から、アルバムは後半へ
アルバム7曲目「thinking bout you」 は、前曲の「Drunk」から曲調もテーマもガラッと変わる。
レコードで言うならばB面が始まったというところだろう。
一度針を上げ、一呼吸置いて、再び針を置き直した時、スッと入ってくるのが清水翔太の歌声である。
ふたたび喪失の痛みを歌うこの曲から、アルバムの後半は始まる。
そしてこのB面こそ、20代の景色を描いたこのアルバムの真骨頂ともいえる濃密な出来栄えと、俺は言いたい。
ヴァース1 喪失
アルバム7曲目の「thinking bout you」は、3曲目の「Damage」につづいて、喪失の曲だ。
しかしこの2曲の歌詞の性質は対照的だ。
「Damage」は心に住み着いてもはや自らと一体化した喪失の痛みを歌う静的な曲。
それに対して、「thinking bout you」では喪失から生まれる痛みが異物となっていて、それを受け入られない苦難を歌う動的な曲である。
「動的平衡」という概念を主張している福岡伸一という生物学者が言っていたことだが、生物が反応するのは「動き」に対してなのだという。
これだけならもっともな話というか、ほとんど当たり前の話だ。
ただ、俺が面白いと思ったのは、「不在」もまた一つの動きなのだということ。
「在ったものが無い(なくなる)」というのは、生物の関心を強く引くのだと。
まるで夢の中にいるような
だけど心の奥で覚めてるような
君という棘が刺さったまま
毎日が静かに通り過ぎていく
「thinking bout you」において「君という棘が刺さったまま」と表現される時、問題になるのはむしろ、棘が「刺さっていない」ことのほうだ。
それほど強く存在を感じているのは、むしろその存在が「無い(消えた)」からだ。
「在った」ものが「なくなる」時、人の(生物の)注意・関心はそこから離れなくなる。
人はそこに在る何かに慣れて、心地よく無視している時、その存在を意識することがない。
だからそこに「在る」のに、意識の上では「無い」ほうに近くなる。
失って初めて、浮かび上がってくるのだ。
無いはずなのに、まるで「棘が刺さった」ように、喪失の痛みを伴いながら。
「まるで夢の中にいるよう」なのは、「無い」ものの存在を常に感じているからだ。
幽霊のように、実体が無いが確かにそこにある、何かを感じている。
ヴァース2 痛みと呪い
前項でヴァース1について語ったことは、以下のヴァース2の歌詞においても、まったく同じことが言える。
こんなに苦しむくらいなら
出会わなければよかったのかな
忘れようとすればするほど
すぐ隣に君がいるような気がしている
いないはずなのに、いなくなったはずなのに、何故か、より強く存在を感じてしまう。
その不在が(不在による存在の訴えが)、まるで身体の一部を失ったのと同じように、痛みと苦しみを発するのだ。
アウトロの、歪んだギターが胸をかきむしる痛みを表現している。
かつて俺も、同じような痛みと疑問を抱いたことがあった。
まさしく思ったものだ。
「こんなに苦しむくらいなら 出会わなければよかったのかな」と。
こういうところでグルグル悩んで、モヤモヤくすぶっていく中で、心はさらに、さらに暗くなっていく。
そしてこの疑問をもっと先鋭化させていくと、さらに根源的な疑問につながっていく。
「こんなに苦しむくらいなら 生まれなければよかったのかな」と。
そしてそれを認めてしまったら、「生まれないほうがよかった」と思ってしまったら、その別れは自分への呪いとしてのしかかってくる。
生きていく力が失われていく。
誰かを失った時、自分にとって大切な存在であればあるほど、悲しみは大きくなる。
その悲しみを自分への呪いにするか、祝福にするかは自分次第だ。
①悲しみにとらわれてしまう ⇒ その出会いは呪いになる。
悲しみに注目すれば、その出会いは自分を苦しめる呪わしいものになる。
目にするもの、触れるものすべてが、悲しみに浸されて生きるのが苦しい時、生きることには何の価値もないように思える。
どんなものも失われ、やがて消えていくとすれば、何もかもが初めから何の意味もない単なる無駄に過ぎないと思える。
どんな出会いもいつかは必ず別れとなり、悲しみになるのなら、初めから何もしないほうがよっぽどマシなのではないか。
初めから出会わなければ話が早いし、生まれなければもっと話が早い。
それなのに明日もまだ生きて、その先もまだ生きていくことが、重荷でしかなくなる。
この苦しみに早く終わりが来るように、重荷を早く降ろしたくなる。
足を縛る呪いに、動けなくなる。
②出会えたことに感謝する ⇒ その出会いは祝福になる
出会えた喜びに注目すれば、その出会いは自分にとってかけがえのない宝物になる。
それだけ痛むということは、痛みの前に必ず、喜びがあったはずだ。
その喜びと、過ごした時間に感謝できれば、その出会いは自分の命への祝福になる。
出会えたから、胸が痛むのだ。
生まれたから、胸が痛むのだ。
そう思えたら、痛みを受け止めることができる。
そんなに苦しむほど大切にできるものに出会えたことに感謝できる。
その胸の痛みは、あの人と出会えて、同じ時間を過ごせたからこそ感じられる、貴いものだと思える。
出会えた証であり、懸命に生きて愛したことの勲章であり、素晴らしい時間がもたらす報酬なのだと受け止めることができる。
いつでも明日へ向かう力を与えてくれる、静かに光る祝福となる。
俺はかつて恋人と別れて苦しんだ時、どんな出来事も、感情も、自分への呪いにするのか祝福にするのかは、自分の受け止め方と行動次第だと知った。
そして俺が、自分の人生すなわちこの与えられた命を呪いにせずに祝福とするのは可能だと信じることができたのは、自分の両親が自分を生んだとき、どんなに喜んで祝福してくれたかを知っているからだと気づいた。
その時以来、俺にとって、どんな痛みも苦しみも、喜びも悲しみも、すべては俺が生まれたことへの祝福である。
「Damage」のエントリに書いたような、重荷に苦しむのではなく、重荷を降ろすのでもなく、重荷と共に歩む術を知ったのだと言ってもいい。
ブリッジ
I Know あの子と引き換えさ
受けとるよ 罪の果実
このブリッジは謎めいている。
まともに受け取るのなら、解釈は二つだ。
①あの子よりも自分の夢を取ったというエゴの罪
②あの子よりも別の子をとったという浮気の罪
どちらも充分にありそうな話だ。
まあどちらでもあまり大差ない、というのが俺の態度だ。
答えは清水翔太にしかわからないから、それぞれが好きに受け取ればいい。
むしろこの罪悪感、それと特定の誰かのことを考え続ける気持ち。
この二つが、アルバムの後半を構成していく重要な要素だと感じている。
この要素に導かれる、アルバム終盤の名曲の連打にはすさまじいものがある。
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