4.「Drippin' feat. IO , YOUNG JUJU」 – 『FLY』 全曲ソウルレビュー –
※2017年8月28日に自作ブログに投稿した記事のサルベージです
今回の客演はIOとYOUNG JUJU
前作『PROUD』でSALUを客演に呼んだことで、なんとなく今回も期待されていた「お楽しみ枠」の客演招待。
結果的には、2016年にJ-HIPHOP業界でもっとも大きな話題を呼んだであろうKANDYTOWNから、IOとYOUNG JUJUが呼ばれた。
KANDYTOWNについては、このブログでは去年12月の「ポップミュージック2.0」という記事の中で軽く触れている。
SALUくんとKANDYTOWNの面々で、少し違うところがあるのは、「J-POPという業界(文化)に対して自分が何をできるか」という意識があるか無いかの違いだろう。
たまたま昨日見ていた24時間テレビのドラマの中で阿久悠役の亀梨和也が言っていたセリフになぞらえるなら、「歌には時代を動かす力がある。」という夢を抱いているか抱いていないかの違いとも言える。
「公園に集まってやってたサッカーとかバスケとかがたまたまヒップホップになった」と語るKANDYTOWNの面々は、どこかいい具合に力が抜けていて、どこまでも自分たちの感性や肌感覚に忠実であろうとする。
そこが、清水翔太やSALUくんと違う。
歌を通じて生まれる社会へのインパクトまでも考慮しながら、自分たちのセンスとの間で必死にバランスをとろうとしているのが、清水翔太やSALUくんだ。
ただ、そんなKANDYTOWNの中でも、古くから年上のBCDMGと関わりを持つことで刺激を受けてきたIOと、このところ精力的な活動をくり広げているYOUNG JUJUは、少しずつ広い分野への影響力を強めようとしているのかもしれない。
それはもちろん、決して簡単な道ではない。
清水翔太が現在の境地に至るまでにたどった足跡の困難さや、現在進行形で困難な模索の中で手探りをつづけているSALUくん、いまや足元すら見失っている様子のAnarchyなどを思えば、その難しさが想像できるというものだ。
(※注:これはすべて彼らの音楽から俺が勝手に受け取っている印象です)
ところで、今回の客演は誰だろうかということを予想するとき、俺は童子-TかJJJではないかと予想していた。
最高や pic.twitter.com/KCBz5y1pEh
— 清水翔太 (@sshota0227) February 27, 2017
今、日本の音楽で一番質がいい(と、個人的に感じる)のはHIPHOP!間違いないすよ。
— 清水翔太 (@sshota0227) February 27, 2017
ただ、JJJはラッパーというよりもトラックメイカーとして、清水翔太と近すぎる距離にあるゆえ、おそらく二人が組んで何かをするときには、1曲で終わるとは到底思えない。
そこで、俺としてはこの2人にはインディーで好きなように閉じこもって共作して、ミニアルバムぐらいは作って欲しいと勝手に希望するのである。
その際、さまざまなしがらみはあるだろうから、二人とも名義を変えた上で、ひそかにネットの片隅でリリースしたらいい。
そんな、一ファンの妄想。
今の音楽を取り巻く環境には、そういうロマンもある。
求めるか 与えるか
2017年の夜の風景にピッタリなトラップミュージックのビートに導かれる「Drippin’」は、アルバムでの直前の曲「My Boo」につづいて喧嘩の歌である。
しかし「My Boo」が喧嘩から生まれるカップルの甘さに焦点を絞っているのとは逆に、「Drippin’」では喧嘩から生まれるカップルのむなしさに焦点を絞っている。
アルバム1曲目の「Sorry Not Sorry」の記事で、「エロス」と「タナトス」という二つの力に引っ張られる対立軸を提示した。
この概念を今回の内容に合わせて言い換えると以下のようになる。
①奪う(求める)力=「エロス」
②与える力=「タナトス」
ここで少し個人的な話になるが、妻が妊娠中、一緒に受けた「パパママ学級」で紹介された概念を、俺はよく覚えている。
要約すると以下のような内容だ。
母の愛は無限ではない。
子に愛を注ぐ一方だと、いつか母の愛は枯れる。
母の愛を絶やさないためには、夫や家族など、周囲からの愛が母に注がれる必要がある。
これは非常にすっきりしてよく整った議論だと、俺はそのときに思った。
「与える経済」がここには成立している。
「子に愛を与える母」に、夫や周囲の家族が愛を与える。
子に向けて惜しみない愛を注ぐ母に対して、子もやがて「笑顔」や「なつき」という愛を返すだろう。
そうして愛に満ちた母は、夫や周囲の家族に愛を返す余裕も生まれる。
夫や周囲の家族は、それを受けてまた母に愛を返す。(場合によっては、家族の外の広い社会へと、愛の互恵関係が広がっていく。)
与えることによって全員が潤う経済がここに成立する。
しかし恋愛とは、エロス=奪う(求める)力によって始まるのだ。
たとえば「FIRE」で描かれるように、恋愛とは相手を欲し、相手の身体や時間、労力を求める力によって始まる。
そして、そのままエロスに基づいた恋愛をしている限り、「愛は無限じゃない」ので、愛は必ず枯れるのである。
カップルが共に生きていくためには、「相手に何を求めるか(エロス)」から「相手のために何ができるか(タナトス)」へと、思考と感情の転換が必要になる。
これはまったく真逆のベクトルへの大転換なので、誰もがある程度苦労するのは当然のことなのだ。
適当な相槌?
もしくはLINE通知?
理由は何
考えて欲しいタイミング
いつもそう
you will never know
どんな気持ちで
仕事向かうeveryday
察するに、夜だか朝だかに彼女の機嫌が悪くなり、いつもの喧嘩がくり返されるという境遇を描いているのだろう。
「タイミングを考えてくれ」「どんな気持ちで仕事に向かうのかわかってくれ」と、相手に求めているだけでは、おそらく問題は永遠に解決されない。
「大した理由じゃない」のに必ず機嫌が悪くなる、彼女の心の奥底にあるものに思いを馳せ、そのわだかまりを根本的に解決するために自分に何ができるのか。
それを考えて実行し、彼女の心が一定の満足を得るまでやり抜かなければならない。
それをやったときに初めて、「自分がいったいどんな気持ちで仕事に向かっていたのか」などについて、彼女も思いを馳せてくれるようになる。
満たされていない心は、他人を思いやることができない。
自分を思いやって欲しいと思うのなら、まず相手の心を満たしてやるしかない。
それで問題は、「そこまでして(それほどの労力をかけてまで)一緒にいるのか」だ。
生きる上で、エロスもタナトスも必然ではない。
誰もが、どんなときでも、エロスで生きることも、タナトスで生きることもできる。
エロスがもっとも濃密なのは、惹かれあう最初の期間だ。
そこからある程度時間を重ねるにつれて、相手から得るものはだんだん無くなっていく。
俺に君は必要ない
なんて考えたくない
夢の中 出会ったころの君を抱きしめる
IOとYOUNG JUJUのパートに感じる「リアル」
IOとYOUNG JUJUのパートを聞くと、「リアルな」声がそこで鳴っているという印象を俺は受ける。
宮崎駿が『風立ちぬ』の堀越二郎の声に庵野秀明を起用することで狙ったような、そういう「生々しさ」。
生きている人間の声がする。
それは逆に言うと、まだ完全につくり上げられていない声、ということでもある。
IOとYOUNG JUJUのパートを聞くと、俺はBruce Springsteenの「Stolen Car」という曲を思い出す。
共通するのは、「受け入れがたい別れの痛み」「夜のドライブ」「ドライブと共に走る思考」といった要素だろうか。
KANDYTOWNの歌詞には、同年代の歌詞としては比較的多く「ドライブ」のイメージが登場する。
今回のパートでも、歌いだしで深夜の首都高のイメージを提示する。
そして後半の「君と二人slow~」以降はトラックの上モノのシンセ(?)の音とラップのグルーヴが交差して、疾走感を生んでいる。
ところでYOUNG JUJUの「俺を待つ人がいる」という歌詞が出てくると、わりと真面目に恋人のところに向けてクルマを飛ばしているのかとも思える。
しかし俺は、これはそうではなく、自分のライブに出演するためにクルマを飛ばしているのだと思っている。
「自分の成功(エロス)」と、「恋人への奉仕(タナトス)」。
この二つを天秤にかけたときに、これは「自分の成功(エロス)」のほうを取る男の歌だと俺は思っている。(Eminem的葛藤。)
そしてそれは、別に悪いことではない。
「それぐらいの相手だ」と、そう言えればいいのである。
相手との関係をある程度までに割り切ってとどめておき、距離感をはかって関係を整理しながら生きていく方法もある。
むしろ、そうであればこそ初めて「I’m on my way」と言える。
自分の欲求と行動に優先順位をつけて、何にどれぐらいの時間と労力を割けるのかを管理しているのだ。
たとえば男と女の関係にしても千差万別で、何でもかんでも「恋人」や「結婚」の型に当てはめて考えなければならない理由は無い。
むしろ、相手との関係や距離を常に目算し、お互いにとってベストな関係と行動を選択できる態度のほうが、個人に対するリスペクトに基づいている。
「恋人」だとか「結婚」だとかの、妙に限られた選択肢を強制される堅苦しい社会形式の時代をすぎて、俺たちは新しい社会形式と制度の時代に踏み込むことが可能なところ(入り口)まで来たのだと、俺は思う。
ただし、この話は決してそんなに簡単にならない。
簡単にならない理由には二つの要素がある。
「死」と「子育て」という二つの要素だ。
我々がエロスの饗宴にいそしむだけではいられないのは、人はやがて死に場所を探し始めるからだ。
いわば「自分の成功(エロス)」を求めて都心へと首都高を走り抜ける若者は「生き場所」を求めているわけだが、逆に都心から郊外へと「家族への奉仕(タナトス)」を求めて走り抜ける所帯持ちは「死に場所」を求めている。
優先順位の話で言うのなら、優先順位付けの基準が、人生が進むにつれて変わる。
それともう一つ、「子供は絶対に誰かが育てなければならない」。
放っておいて子供が育つということはないし、子供を育てることを放棄する社会というものもない。
そして子育てとはタナトス的な行為なので、社会や人生が純粋にエロスの饗宴で埋め尽くされるということを不可能にさせる。
(子育てをいつかAIが担うという見通しはありえない話ではないが、この場合は「子供が大人に対して与える良い影響」をすべてAIに吸収させることになる。)
と、今でも俺はこういうことを、30歳にしてわりと真剣に考えている。
同じように、ある程度まで見切りながら、そしてある程度まで迷いながら、「やっぱり音楽だよな」と思いつつ都心に向かうリアルな20代中盤の風景を、俺はIOとYOUNG JUJUのパートに聞く。
そして俺の予感によると、こういう一人ひとりの、今どきの賢い若者の迷いと決断の先に、何かが少しずつ変わっていく未来を感じている。
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