3.「Damage」 – 『PROUD』 全曲ソウルレビュー –
※2016年12月10日に自作ブログに投稿した記事のサルベージです
アルバム『PROUD』は勇敢で強靭な歩みの証
清水翔太は、デビューした時から悲しみを引きずっていた。
心の中に、いつも忘れられない別れを持っていた。
「Damage」のイントロのセンチメンタルなピアノは、あの頃を思い出させる。
故郷と呼ぶのがふさわしく思えるほど、美しく繊細なピアノの旋律。
これまでも何度となく、あの感情を掻き起こしてきた清水翔太印のピアノ。
2曲目の「PROUD」で清水翔太は、自身が無傷で無垢な存在ではないことを示唆してみせた。
この3曲目の「Damage」で、その傷や心残りをそっと見せるのだ。
必要ないといえば必要ない。
女々しいといえば女々しい。
過去のことなどさっさと忘れて、次に、次にと進めばいいのにと、言おうと思えば言える。
過去や失敗のことなど、さっさと綺麗に洗い流して次の歩みを進める人と、過去に引っかかって考えつづけて動けない人では、どちらが賢いのだろう。
過去を忘れる人の歩みは、でたらめで方向感覚がないから、あてにできない。
引っかかって動けない人も、どこにも行けないから、変化がない。
過去に学ぶことも必要だし、歩みを進めることも必要だ。
強いて足を進めながら、「すべてを忘れない」態度こそが、最善ではなかろうか。
ゲド戦記の第4巻『帰還』の中で、テナーは初めてレバンネンに出会う。
テナーというのは第2巻でゲドに連れられてアースシーに腕輪をもたらしたかつての少女であり、レバンネンというのは第3巻でゲドと共に黄泉の国の門を閉ざした若き王である。
中年となり、人生を重ねてきた賢き女性テナーは、レバンネンの人柄に触れて、以下のような印象を抱く。
レバンネンはなにごとにも真剣で、きまじめで、自分の地位が求めてくる形式という鎧に身をかためていた。が、誠実で純粋なゆえに、ひどく傷つきやすいところも持っていた。テナーはそんなレバンネンに心ひかれ、いとおしさを覚えた。この若い王は自分ではすでに十分つらい目にあってきたと思っているが、この先ずっと、何度も何度もつらい目にあうことだろう。しかもそれを、ひとつとして忘れることはないにちがいない。
このような歩みこそ、もっとも勇敢なものではなかろうか。
つらい目にあっても歩みを進め、しかもそのすべてを忘れることがない。
王にふさわしい態度であり、また王を持たないがゆえに自立しなければならない現代人すべてにふさわしい態度ではなかろうか。
清水翔太のデビューアルバム『Umbrella』は痛みと悲しみに導かれ、彩られている。
しかし次の『Journy』、『COLORS』と、俺が聞いた印象では、創作の新しい源を探せないままでいた。
アルバムを出すたびに、それは『Umbrella』を少しずつ薄めていくかのように、インパクトに欠ける創作にとどまっていたのだ。
それでも清水翔太はその歩みを止めなかった。
時に自分の創作に満足しないなら満足しないなりに、カバーアルバム『Melody』や、数々のアーティストとのコラボなどで模索をつづけながら、止まることだけはしなかった。
しかもただアルバムを出すだけでなく、セールスしつづけた。(行為としてのセールスではなく、結果=数字としてのセールスだ)
それはプロフェッショナルとしての清水翔太の矜持であり、生き方であっただろう。
その間、清水翔太はいつも痛みを忘れなかったし、新しい出会いや痛みもいくつも得ただろう。
そのすべてと対峙し、音楽をつくり、アルバムを出し続け、その先にこそ、このアルバム『PROUD』はある。
「Damage」が俺に思い出させるもの
「Damage」のミュージックビデオでは、それぞれの人物がまるで自分の歌のビデオに出演しているかのようにふるまっている。
(ちなみに、その人物とは、登場順に青山テルマ、童子-T、與真司郎(AAA)、BLADe、加藤ミリヤ、當山みれい、Boo、そして愛犬のエマとなっている。
そのうちBLADeという人物だけ俺は知らなかった。⇒ https://blade.officialsite.co/)
この歌は個別の体験を歌ったものというよりも、抽象度を上げることで普遍性を高めた、完成度の高い詩のようなものだと感じる。
だから聞く人すべてに、自分自身の体験を思い起こさせる。
多くの人々が同じように体験したであろう心の痛みを描いている。
「Damage」を聞くと、俺は自分がどこから来たのかを思い出す。
かつて心に受けたdamageが、今の俺を形づくった。
誰かを想いつづけて、心から「会いたい」、「会って想いを伝えたい」と願うのに、現実にはそれができないということがある。
なぜ会えないのかといえば、答えは明確で、会ったところでその先の発展がないからだ。
会いたい、伝えたいとは想うけれども、それはあくまでも聞いて欲しくて、自分の現状を知って欲しくて、わかってほしくて、それで終わりなのだ。
「俺は君をずっと想っているんだ、それを知ってくれ」
それだけのことで、だからどうしたとかは、無い。
それがわかっているから、会いにいけない。
こういう場合、重要なのは今もこの世界のどこかで生きている現実の「君」よりも、むしろ心の中にいる記憶の中の「君」のほうだ。
だから実は、こんなにも「君に会いたい」と思っていても、現実には会いに行くことはむしろできない。
本当に相手のためを思うのなら、相手のためになる何かをしたいと思うのなら、まずは過去に浸るのをやめるべきだ。
心に受けたdamageを、いつまでも後生大事に抱えているのをやめるべきだ。
それは恐ろしいことで、悲しいことだ。
だから簡単にはできない。
ただ、本当に悲しいのは、思い出やdamageにすらサヨナラを告げなければならないと知る時で、実際に心を断ち切るのは、一瞬の出来事である。
「Damage」という曲の甘さ、美しさ、痛切さは、あの胸の痛みを完璧に表現している。
「Damage」は俺に、いったい何が自分を、今いるこの場所まで連れてきたかを思い出させる。
かつて、「One Last Kiss」に全身全霊の涙を流した俺がいたことを思い出させる。
「Damage」の音作り
超細かくて軽いビートの上にバラードを乗せて、こんなにもスムースなグルーヴをつくることができるのだと教えられたのは、西野カナの「Dear…」を初めて聞いた時だった。
なんであんなにチャッチャカ言っているのにメロウなんだろうと不思議に思ったものだ。
あの頃、バイト先の鉄板焼き屋で、一向に来ない客を待ちながら有線でこの曲がかかるのを楽しみに待っていたのを思い出す。
この「Damage」という曲も同じように、超細かくて軽いビートの上に乗った、R&Bバラードだ。
今回のアルバムで清水翔太は自分のヴォーカルをエフェクトで切り裂いている。
現代の感情を表現する上で、もはやこれは一つの必須の手段と言ってもいい。
その分野の第一人者とも言える、James Blake。
2013年の新木場でのライブで、結局一番ハッとさせられたのは、このJoni Mitchellのカバーだった。
いくつかのエフェクターを自在にあやつりながら、感情世界に観客を巻き込んでいくようなステージだったが、その根っこにある「歌」の良さに改めて気づかされた一曲だった。
現代を生きる我々の人生はデジタル的だ。
デジタル的というのは、体験が相互に切り離されて「点」として独立しているということだ。
我々はいつどこで何をしたか、具体的な日付けや地名や象徴的なタイトルと共に記憶にしまっている。
切り取られたあの日の風景を、いつでも手元に呼び出すことができる。
今後ますますその傾向は強まるだろう。
人生はタグ付けされ、記号化され、デジタル化されている。
デジタル化されたその人物や出来事は、James Blakeのアルバムのジャケットがそうであるように、実物とはいくらか離れたものになる。
歌だけが、生の響きをそのままパッケージされているわけにはいかないのだ。
加工されてこそ、我々の人生の体験に寄り添う。
エフェクターを通した声が、我々の心に不思議と一致するのは、こんな理由による。
「Damage」は静的な歌
「Damage」はアルバムの中では、ドラマの少ない歌だ。
静的な歌だという意味である。
とどまる心の歌だ。
アルバムでは次の曲から、まるで外に出て人と会うかのように、体と心が動き出す。