5.「夢がさめないように」 – 『FLY』 全曲ソウルレビュー –
※2017年12月8日に自作ブログに投稿した記事のサルベージです
ブルースの構図のブルース
「一寸先は闇」というけれど、夢は闇の中にこそぼんやりと浮かび上がるものだ。
未来は闇だからこそ、そこに夢を描ける。
「幸運」というものも同じく、「失敗」や「失望」の中にこそあるものだ。
アルバム『FLY』の5曲目「夢がさめないように」の中で清水翔太は、思いがけずめぐり合った夢のような時間について歌う。
ゆめがさめないように
できるだけ長く長く
僕らが笑うたびに 世界ごと連れて行ける
「幸運」や「幸福」というやつは複雑で微妙なバランスのうえに成り立っている。
「幸せな時は不思議な力に守られてるとも気づかずに けどもう一回と願うならばそれは複雑なあやとりのようで」というのは小沢健二の歌詞だ。
誰かとの会話、愛嬌、気遣い、疲労感、ソファの弾力、照明の具合、音楽の響き、直近の食事内容と腹具合、空気の香りと肌触り、そして酒の種類と量とペース。
何が良かったのかわからないけれど、とにかくそこに生まれた夢のような時間。
何が良かったのかわからないけれど、とにかくこの夢のような時間からさめずにいられるように願う。
そんな瞬間の気分を、清水翔太は少しくぐもった音響のレイドバックサウンドで描き出した。(清水翔太あこがれの「D」っぽい「ブラウンのかかった」レイドバック感)
この「夢がさめないように」を初めて聞いた時、俺が思い出したのは小沢健二の歌詞の「夢で見たよな 大人って感じ ちょっとわかってきたみたい」というフレーズだった。
小学生の俺がオザケンのその歌詞を聞いていた頃、「大人の何であるか」はさっぱりわからなかったが、しかしその音の中に込められた「大人って感じ」だけは確かに聞き取ったと感じていた。
それから20年ほどが経ち、清水翔太の「夢がさめないように」を初めて聞いた俺はこう思った。
「今の小学生は清水翔太のこんな歌を聞きながら、大人って感じをきっと思い描くのだろうか」と。
きっとそうなのだと思う。
そうだとしか思えない。
そうであってほしい。
そうでないとしたら間違っている。
ちょうど20歳ほど上の先輩から、少年は大人を習うのだ、きっと。
夢がさめないように
ところで俺の娘は現在、0歳と11ヶ月である。
娘を見ていると、そこには夢があふれているように感じる。
といって、別に「生まれたばかりの赤ん坊の未来には、どんな夢もかなうような無限の可能性がある」とか、そういうことを言いたいのではない。
むしろ、彼女が何も知らなくて何も出来ないからこそ、娘の生活は夢にあふれていると思える。
我が赤ん坊は何も無いような部屋のすみや、家具の隙間にもぐりこんでは、そこでいったい何が起こるのだろうかと惹きつけられて魅せられている。
彼女にとって世界は未知の世界で、謎とおどろきに満ちている。
それはたとえば「マジック・リアリズム」と言った時の意味での「マジック」だ。
ディズニー的な意味での「マジック」が、我が娘の生活には散りばめられているのだ。
彼女は夢の世界に住んでいる。
そして30を過ぎてなお、自分も同じだなと、俺は自分に対しても思う。
大人の俺はすっかり上手くこの世の中を歩いて渡れるようになったとはいえ、やはり今でもまだ、何もわからないところに手探りで突っ込んでいくような感覚はある。
夢のようなこの世界で不完全な自分は、わからないものに説明をつけたり、何か形を与えたり、納得のいく手ごたえのあるものにしようとしている。
それで今日も仕事をしたり、誰かとしゃべったり、何かを書いたりつくったりしている。
きっと永遠に、いつまでもそうなのだ。
不完全だからこそ、我々は何かをしている。
もしも我々が完全ならば、あくまでも我々は世界の一部なので、世界も完全だということになる。
そしてもしも世界が完全ならば、我々などそもそも存在もしないし、存在したところで存在しないのと同じ程度の意味しか持たないだろう。
我々のこの人生は不完全な、一つの夢だ。
そしておそらく、それは幸福なことだ。
この夢のように儚い一瞬を、楽しむのだ。
いつまでもつづくように、祈りながら。
”ゆめがさめないように”
グラスに注ぐのはそんな想い
昨夜の悲しい気持ち
君の笑顔で洗い流すように