見出し画像

第3夜:(羊文学「1999」、中野打越太鼓「鼓勢」)


街へ出ることで、出会いがある。

金曜夜の下り電車に乗る時には、足元に気をつける。

見知らぬ誰かかの胃から戻された食物を踏むような、望ましくない出会いにでくわすことがあるから。


出会いといえば、新しい音楽を探ることをしなくなって久しいが、それでも出会いはある。

レストランや街角で音楽が聞こえてきた時には「Shazam」を使う。

「Shazam」を使うと、AIが音楽に耳を澄ませてデータベースを検索してくれる間、曲名が見つかるだろうかとドキドキする楽しさがある。

そうして知ったのがVaundyとか、Temsとか、Anson Seabraとか。

エルトンジョンのコラボアルバムがリリースされていることも、エドシーランとの曲がどこかの街で流れているのを検索して、初めて知った。

(フザけまくるおじいさんとお兄さんの図↓)


夜中の下り電車で、脳が麻痺したような気持ちでInstagramを眺めていると、10秒前後の細切れの音楽と出くわす。

「若者はこういう音楽を聞いてるんだな」という気持ちで、それを眺める。

そうして知ったのが、Tokimeki Recordsとか、コレサワとか、ずっと真夜中でいいのにとか。

インスタを見ていて、「ん?」と思ったら、Apple Musicで検索する。

きちんと曲情報を画面に表示してくれるInstagramは素晴らしい。


羊文学の「1999」を初めて聞いたのは英語バージョンだった。

Apple Musicで検索すると、日本語バージョンがすぐにヒットした。

音を聞いて、「なるほど、第3世代ね。」とすぐに思った。

いわゆるシューゲイザー的な、ポストニューウェイブ的な。

俺は、リスナーとしては、第2世代。

M83とか、The Pains of Being Pure at Heartとかを聞いていた。

(若い時にはなんとなく冷めた目で見ていたが年取ってから距離感置いて見るとなんとなく青春ぽくていいなと思うM83の「Graveyard Girl」のビデオ↓)


第1世代は、なんでしょう。

Rideとか、My Bloody Valentineとか。

世代的には、羊文学は俺とそれほど離れていないようので、スーパーカーとかを聞いていたのかな。

今、Wikiを見るまで、羊文学というのはジャケットに映っている女性1人だと思っていたぐらいの知識なので、何も知らんけど。


すべてをApple MusicやSpotifyで聞ける今の若い人たち以降は、こういう世代論みたいなのは通用しなくなるのかもしれない。

それこそ、AIのレコメンドに沿って掘っていけば、ルーツのルーツになんか簡単に辿り着けるので、その中のどれにハマるかなんて世代間の共通感覚なんてあんまりなくて、同じ世代でも人によって全然違うのかもしれない。

知らんけど。

昨日見た映画で
過ぎていった時代は
僕のママやパパが子供の頃
それは世紀末のクリスマスイブ

羊文学 "1999"

お前のママやパパは「イヴ・ラップ」世代か?!


お楽しみ会

先週土曜日は、下の娘の保育園の「お楽しみ会」で、そこはクリスマスに満ちた空間だった。

子供たちが手話歌で「赤鼻のトナカイ」と「あわてんぼうのサンタクロース」を聞かせてくれた。

俺は常々、娘の通う保育園を「楽園」だと思っている。

何かを強制されたり、脅かされたりすることなく、「幸福」と「安全」を第一に運営されているかのような空間がそこにある。

娘がそこに「行きたくない」と言うことはほぼまったくない。

平日の昼は保育園、平日の夜と休日は家族と過ごす生活に、それなりに満足している様子だ。


ただ、問題がまったく無いわけではない。

そこに一つ存在する問題は、俺が「保育士さんや親御さんと上手く話せない」ことだ。

「お楽しみ会」なんてことになるとそれは顕著だ。

とりあえず子供に夢中になっているような顔をしておいて、他の子どもたちの親御さんとの会話の機会をできるだけ少なく、短くするように努めている。

心の中では、いろんな大人と情報交換をして、会話を楽しんで、地域生活というものに溶け込むように暮らしたいと思っているので、このギャップはなかなか、俺個人としては耐えがたいものがある。


何の因果か、お楽しみ会の後に、同じ保育園のバングラデシュ人の子供の家に、遊びに行くことになった。

うちの娘はそのバングラデシュ人の娘さんと近頃はすっかり仲良しで、帰り道をいっしょに帰っていたのだが、気づくとあっという間に家に上がり込んでしまった。

一緒に帰る道すがら、ヒジャブに頭を包んだお母さんはほとんど俺を無視するかのように子供とのみ話していた。

相手がムスリムの女性だということを忘れていた俺は、「何か話さないといけない」と緊張していたので、安心するやら寂しいやら複雑な気持ちだった。

家の中にはお父さんがいて、こちらはいろいろと話してくれた。

俺は別に英語が得意ではない。

なので、こういう場面では二重に苦しむことになる。

「話題がない」+「英語が話せない」。

「日本のフルーツは安全でとても良い」ということを言いながら出してくれたキウイが本当に日本で買ったのかと疑うほどに固くて酸っぱいことに驚きながら、「食事の文化間ギャップというものは食材や調理法だけでなく、同じフルーツを生のまま食べてるだけでも熟れ具合の好みに違いが表れるのか」ということを考えつつ、何も言えなかった。


しかし結果的には、今までの保育園の親御さんたちとの会話の中では、かなり上手くいったという手ごたえを得られるぐらいに、このバングラディシュ人のお父さんとの会話は心地いいものになったのである。

ポイントは、彼が「ゆっくり話してくれた」ことなのだと思う。

彼の性格や英語力が反映されたものだと思うが、一つ一つの話題をとてもゆっくりと、長い間を開けて、言葉を選ぶように話してくれた。

俺も英語が得意でないものだから(おまけに話題を選ぶのも不得意だし)、とてもゆっくりと、思いついたように話した。

それが、俺には合っていたように思う。

話しても、話さなくてもいい空間、時間。

話せること、思いついたことがある時だけ、話せばいい空間。


和太鼓

日曜日は、上の娘と和太鼓の演奏を聴きに行った。

「中野和太鼓フェスタ2023」。

満員御礼であった。

いろいろ書こうかと思ったが、眠いので書かん。

きっかけとしては、中野駅前の通りすがりで聞いた「中野にぎわいフェスタ2023」での、「中野打越太鼓」の演奏が素晴らしく、また聞きたい気持ちで参加した。

和太鼓の演奏というのは、想像していた以上にキャッチ―で迫力があり、練り上げられた「技」への感動があり、体験としてはつまりまさしく「ライブ」なのだということを初めて知った。

「打越町会」という地名が、太鼓にふさわしいところもまたかっこよい。

まだ2回しか見ていないが、中野の太鼓団体の皆さんの顔を早くも勝手に覚え始めて、スタープレイヤーたちを見るような気持である。

娘も、体験会で太鼓を叩かせてもらって嬉しそうだった。

何より、娘と二人きりで半日出かけられたのは、久しぶりにゆっくりできて良かった。

そういうわけで、寝る。

おやすみ。

(生の迫力はなかなか伝わらないような気がするが、「にぎわいフェスタ2023」の動画を公式で上げていただいていたので貼る↓)


書く力になります、ありがとうございますmm