分かりえないという前提で、分かろうとするっていう、そこに愛がある
友人から勧められて郡司ペギオ幸夫さんの「天然知能」読みました。
友人も、それから別のレビューでも「面白い。が、理解するのが難しい」という本です。読んでみると、確かに難しい。でも、なるほど面白い。
あとがきで著者が、以下のように述べています。
質的な違いを全て量に置き換え、計算することで意識や生命を理解する。そのようなアプローチでは決して辿り着けない存在様式が、現実にある。そう言ってしまうと、現実の生命や意識は、逃げ水のように認識の彼岸に逃げていくだけです。量的な評価・計算主義に対抗する概念として、何か積極的に定義すべきだろう。こうして構想されたものが「天然知能」でした。
ざっくりいうと、例えば「人工知能」があるが、これは工学的なアプローチで知能を捉えたもの。論理や計算の世界です。これが悪いわけではない。ただ、これだけで意識や生命をすべて語れるわけじゃないでしょう、ということです。「天然知能」そのものの詳しい解説は、ぜひ本書を読んでみてください。
さて、ここでは、読後に考えたあれこれを書いてみます。
身体を持っているわたし達の外界を知る力
読み終わって考えたのは「知能」ってなんだろうな、ということです。
物理的に体があるわたし達は、自分の内側と外側があることを知っています。これは、意識的にも無意識的にもです。例えば、ソーシャルディスタンスなんていう言葉が生まれました。もともと誰かとの距離感て、さほど意識していないですよね。どちらかとえいば、無意識に自分なりの感覚で他者との間に物理的な距離をとります。こちらは、ソーシャルスペースやパーソナルスペースと言われています。他者との間の言語化されていない心理的な距離が表れているのです。ペアが立っている距離を第3者として見たときに、無意識に二人の親密度を感じ取ったりすることもありますよね。
つまり、明確に言語化もされていないし、「彼らの心理的距離は2メートルだ」などと量的にしていないけれど、二人の関係性を「知る」ことはできているのです。そんな知能をわたし達はもっています。
そんなことをぼんやり考えていて、もうひとつの本が思い浮かびました。
こちらです。
これがまた、大変興味深い哲学的な考察が書かれた本です。
頭足類であるタコは、人間とは異なる知能を持っています。
タコの場合、5億個のニューロンは身体全体に分布しており、3分の2のニューロンは8本の足に存在する。そのため、脊椎動物のような「脳と身体」という二分法も通じない。「身体全体が脳であり、脳が身体である」というようなあり方がタコの実態だ。その結果、脳が身体各所に司令を出すというような中央集権的な身体制御ではなく、分散処理的な身体制御が試みられる。腕を切り落としても、腕だけで自律的に餌を捕獲しようとするが、それも、独自に思考するだけのニューロンを備えた自律性をもつ8本の腕をもつためだ。
タコは、切った足も動きます。それを見るとちょっと気持ち悪いです。でも、そういう生理的な構造になっているんですね。もし、わたし達が同じような体を持っていたら、タコのそれを見ても「気持ち悪い」とは思わないのかもしれません。
身体が違えば、理解も違う
わたし達が何かを知っているとして、他の誰もが、まったく同じように捉えているかというと、それはあり得ないのです。そっくりさんは確かに世の中にはいますけど、まったく同じ体つきの人はいません。双子だって良く見れば違います。だから、「わたし」の「知っている」と「他の人」の「知っている」は違うんですね。
再び天然知能からの引用です。
わたしとあなたの行為を同一視することは、「何かに関して」同じであるという、「何か」の基準を曖昧にしない限り不可能なのです。
私はずっとそう思ってきましたが、実際、そのような事実が最近、脳科学的に明らかになりつつあります。 ミラーニューロンは、「いま・ここ」で知覚されている行為が違っていても、その目的が同じなら活動すること、完結した行動よりむしろ未完結で曖昧な行為に対して活動すること、などがわかってきたのです。それはまさに、ミラーニューロンが「わたし」と「あなた」の同一性を、曖昧にずさんにしているからこそ可能だという本書の仮説に、整合的だと言えるでしょう。
わたしとあなたは、そもそも同じじゃない。やや逆説的ですが、曖昧にできるからこそ同定できるという脳科学の知見もある。一方で、明確に同定して、分析的に物事を組み立てる知能もわたし達は持っている。それが人間の文明を作ってきました。結果として、分析的に捉えるのが賢いという風になりがちなのです。でも、わたし達の賢さってそれだけじゃないでしょ、ということなんですね。
だからそこに愛がある
お正月、駅伝を見てたらコマーシャルでこんなことを言っていました。
「分かりえないという前提で、分かろうとするっていう、そこに愛がある」
この「分かりえない前提」とは、やっぱり、人それぞれ違うんだよね、という話です。それは、意見だけではなくて、身体的にもそもそも違うようね、ということだと思います。ちがうけど、でも「分かろうとする」。自分ではない、外側のことを「知ろうとする」のがわたし達の本能で、それを「愛」っていうのかもしれないですね。
そして、このとき「愛とは○○である」と定義して一般化する知能もあれば、「それが愛だよね」と多様な身体感覚で分かり合う知能もあるんだと思います。
多様性は、そもそもどの組織にでもある。互いに見出す賢さを顕在化していきたい
ここまでの話を振返って、経営や組織づくりにどんな示唆があるかなと考えました。やはり、多様性が大事だと改めて思いました。そうじゃないと、同じことをやるのが正解になってしまいます。変われない、学びのない組織になるんだろうな、と。とはいえ、違うバックグラウンドの人をとにかく混ぜれば良いわけではないんだろうとも思います。互いが、違う個性を持っている、もっと積極的に言えば、違う強みを持っているという前提に立つこと。それを発見しあう行動が求められると思います。
…そして、それは、潜在的に(つまり天然で)わたし達が持っている賢さだというのがわたしの信念です。今年も、その賢さを顕在化していくための取組みを進めていきたいと思います。