覚えてもいない一言が妹の進学の決定打になった話
「わたしが大学に行けることになったの、おねぇが許してくれたからなんだよ。」
10年前のある日、「おねぇ」であるわたしに、妹が言った。
ちょっと何言ってるか分からなかった。
わたしは妹の大学進学を反対したことなど無いし、許可を求められた記憶もなかった。
「ちょっと何言ってるかわかんない」
声に出てた。
そのとき聞いた妹の話は、今でもわたしの胸に残っている。
自分の存在を肯定できる、大切な思い出なのだ。
妹はわたしの2つ下で、5人兄妹の末っ子だ。
賢く優しい兄達や愚かな姉を間近でみて育ってきた妹は、賢かった。
昔は見た目も良く似ていて、近所のおばちゃん達に、どっちがお姉ちゃんか分かんないわねぇなんて言われることを2人で面白がっていた。
性格は違ったし、何より妹は賢かったけど。
ちなみにこれは嫌味ではなく、自慢だ。
今でも兄妹でいちばん仲が良い。
一方、5人の子どもを育てた両親は、なるべく公平に愛情を注ぐ努力をしたそうだ。
アルバムに残っている長男の写真だけが桁違いに多く、初めての女の子だったわたしのための雛人形は7段飾りの豪勢なものだった、という差はあるけど。
反抗期が兄妹でいちばん酷かったわたしは、その先の進路を決めずに高校を卒業した。
今なら親があの進学に反対する理由にも首がもげるほど頷けるけど、当時のわたしにはわからなかった。
卒業してからしばらくニート生活を送った後、地元の会社で働くことになるのだけど、進学を夢みていたことなど忘れて新しい趣味に目覚める良いきっかけをもらえた。
数年間はその趣味のために働く日々を送っていた。いま振り返っても、人生をめちゃくちゃ楽しんでいた期間のひとつだ。
わたしが全開で人生を楽しんでいた頃、妹は高校3年生。進路について悩んでいた。
当時の妹にも夢があり、そのために行きたい大学があった。
妹は賢かったので、学力にそれほど問題はなく、推薦を受けるのにも申し分ない素行の良さで教師からの評判も良かった。
これは嫌味ではなく、自慢だ。
妹の悩みの種は、大学に入れるかどうかではなく、親を説得できるかどうかだった。
ちなみにうちの親は、学校の成績についてあれこれ言うことが無かった。
教育熱心とはほど遠く、勉強に関してはのんびりと放置してくれていた。
そこには、大学まで通わせるための経済的な余裕の無さが根底にはあったのかもしれない。
子どもに奨学金という借金を背負わせてまで通わせることはないと感じていたのかもしれない。
6つ上の兄が4年制大学を奨学金で通っていたから。
妹の、説得の日々が続いた。
ある日はお夕飯のあとに神妙な顔つきで話し合い、ある日は両親が朝起きて必ず目にする場所に手紙を置き、本気の気持ちをぶつけていた。
そんな折、妹はわたしに聞いたそうだ。
「わたし大学に行ってもいい?」
もちろん覚えていない。そしてわたしはこう答えたそうだ。
「行きたいんなら行きなよ~」
…たぶん何も考えていない回答だ。
だけど、わたしは妹の味方だったし、全開で人生を楽しんでいたわたしにとって、行きたいなら行く、やりたいならやる、という基準でものごとを決定するのは当然のことだった。
それからすぐ、親の許可がおりて無事に受験することになるのだが、妹がわたしに投げたあの質問こそ、わたしがやさしさにふれた瞬間だった。
それは、父からの質問だったという。
「大学に行きたかったら、おねぇに許可してもらいなさい。おねぇには進学をやめさせておいて、おまえだけ行かせるわけにはいかない。」
父は忘れていなかった。わたし自身がすっかり忘れ、違う進路の先で人生を楽しんでいるときも、あったかもしれない進路を断ったことを。
そして、子どもを公平に愛そうとする姿勢をくずさなかった。
"親の心子知らず"と言うが、わたしは父の苦悩を知らなかった。いや、いまでも知らないことは多いのだろう。
親になる人生を選べなかったわたしは、これからも子に対する親の気持ちはわからない。
だからせめて、親に対して最期まで、家族の中でいちばん身軽でいようとおもっている。
家庭をもったほかの兄妹が動きづらいとき、わたしがいちばん動けるようにしておこうと決めている。
それは、結婚をせず子どもも持たないわたしに、愚痴はこぼしても決して責めない、そんな親の愛を公平に受けているわたしだから決められることだ。
妹から父の話を聞いた10年前のあの日、父のやさしさに気づいた日、嬉しくて、恥ずかしくて、申しわけなくて、ムズムズして、助手席の妹にバレないように、「なにそれ~」と笑って、泣いた。
今夜はお父さんと3人でビールを飲もうね、と約束した。
夏休みに帰省した妹を、駅まで迎えにいって、実家に帰る途中だった。
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