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3
風がないということ。しかし人もいない。草が揺れる程度の風ならば、人が通るくらいでもいい。しかしそれもない。草は群れでいるはず。いや一本でもいい。一本の草が頼りなく生えているのもそれはそれで面白い。
蝶々はどんなか。モンシロチョウだろう。であれば季節は春か。春は風が多いかと言われればわからないが、蝶々の多動なかんじと、草の不動なかんじの。
あの人も不同な感じがする。縁側に出られるということは少なくとも冬ではない。床ただから夏。どんな表情か。黙ってみているのか。どの角度から見ているのか。
こっちとあっち。あっちがわにあの人はすでにいて、より向こう側の草と蝶々を見つめている。それはうらやましいとか願望とかなのか。
モンキチョウだった。じっと見ているということからやはりあの人もかなり不動か。不動の草と不動のあの人に挟まれたモンキチョウ。
お豆腐屋、湯屋に続いて、かなり町の雰囲気がある。狭い町。向こう側の音だろうか。蝶々を眼で追いかけているというかはその動いている範囲を見ている。
庭から広がる世界。夕焼け昼と夜の間である。あっちとこっちの狭間である縁側。上に伸びる電柱。
やっと動き出した。電柱も草もあの人もみんな一人で立っている。しかし電柱は伝染が延びているから孤独とは違う。接続、別の電柱と関係している。
出来心で、しかし少しくらいは自慢している。石も電柱も固いもの。蝶々と草とは違う。両手で身体強い。
蝶々を見ていてなぜそんなことを思い出したのか。いや思い出したのではなくずっとその石を持ち上げたことを考えていた。
あたしはこっちの人間。視線で接続する。こっちとあっちははっきりと分かれているわけではない。電柱とか視線でつながる。石の裏側を見たかったとか。
理由もわからない。わかってくれということか。なぜ起こっているのか。あっちア側へ行ってしまうのを止めてほしいとか。蝶々と草のこと。
思い返すとそう思うというだけ。変な行動ばかりではなかったはず。やはりあっちとこっち。
修羅街輓歌
序歌
思い出はことごとく忌まわしい。楽しい思い出ほど覚えていられないのは何故だろう。忌まわしいとは、憎いという感情も込められているのだろうか。思い出に呼び掛けている。
思い出が人の形をしているような。でもおそらくその思い出も誰かとの記憶、人が必ずいるだろうから、思い出は人間の集合かもしれない。
今はもうない。むかしとはどれくらいむかしか。太古、原始時代とか。憐みがあったようには思えないので、原始人に、子供のころくらいのこと。思い出は昔。
豊かな心が憐みの感情を包んでいそう。より大きいもののような気がする。並列するものでもない。忌まわしい思い出と対置されている。
その二つは両立できないのか。忌まわしい思い出をなくさないとその二つは帰ってこないようなものだろうか。私は違うと思う。帰って来いという受動。
なんだか日常の言葉な気がする。初めの段が心内語で、この段が口から出ている言葉。逆転している。
また縁側。どうせ夕暮れだろう。縁側は光らない。タールは光っていたのに。これも受け身のような。陽の光とは言わない。
おそらくもう大人だろうし、もしかしたら母親ももういないのかもしれないので、これは回想。そのような家族関係はちょっと近代的な気がする。
昔の日曜のことを思い出している。これは豊かな心の内実なのか。懐古主義が過ぎる。全く未来を見ようとしていない。夜のことを考えよう。
と、今思い返してみればそう思えるだけで、思い出は美化されるものだ。すべてのものというのはやはりウソらしく聞こえてしまう。風船球もそこまで大したものではなかった。
下の段落に忌まわしい思い出が侵入してきている。どうしても思い出してしまう。もしかしたらこの母親の思い出が忌まわしい記憶なのか。そういうことにする。
去れ、と繰り返す。また段落が下がっているのは、もっと心の奥深いところにある声ということか。それらが一斉に、異議を唱えることなく去れ、と言っている。
2酔生
また青春だ。青春が血管の中に行ってしまったとかいう詩がどこかでもあった。過去を思い出してばかりでつまらないと思う。
明け方が一番気温が下がる、ような気がする。だからどの季節でも明け方は寒い。夜更けとか、夕暮れではなく明け方。世界が未来に向かっていくときにこの主体だけは過去を思い出している。
過ぎた、というほかないだろうがやはり受動的。もう二度とない、貴重な若い時代といういたって普通の考え方。
いやそれは説得力がなさすぎる。今こうして青春を振り返っている人間がそんなことをいってもあまり響かない。これは青春の渦中を振り返っているのであればまだわかる。
皆そうではないだろうか。青春が過ぎてからどれくらい経っているのだろう。反省会をするのはいいがやはり一人だ。生産的ではない。
戦士、勝ち負けの厳しい状況があったのだろう。しかし無邪気、とか陽気とあるのは、勝負事の世界にいても勝ち負けは関係ないと高をくくっていた。
後悔する気持ちはやはり憎む心に変わる。八つ当たりのようなものか。自分のせいにしたくなくて、周りのせいにする。それか心とかのせいにする。しかしそれは自分を責めているのと変わらない。
対外意識とは聞きなれないが、戦士という言葉から考えると、やはり勝ち負けにこだわること。相手が必ずいて、それは敵か味方かであって、彼らが自分にどう、逆かもしれない。自分が相手に。
それが矛盾に満ちているかは知らない。言い過ぎではある。憎む心がこの言葉を導いた感じ。外だけを気にして内省しない人。
傷ついた自分可哀そう。自己愛がちらほら見受けられる。しかし無邪気で陽気だったならばその傷にも今気づいたのだろう。知らないうちに。
もしかしたら対外意識の人も同じく傷だらけだろうが、それを知らないで生きていくという、それは青春時代の自分を非難している。鶏が多田いるのではなく鳴いて居る。
そんな内省ばかりの自分の苦しみを知りもしないで朝の到来を告げる。過去が過ぎ去っていく残酷さをかき消すような、霜の抵抗も虚しい。
3独語
器が大きいとか小さいとかある。またその人の能力とか頭の要領とかの譬えもあるがここではあえて文字通りの器。水は淡水であれ。大切な水。
こぼれないように、ではなくそもそも揺れないように気を付ける。しかしあまりにも神経質ではないか。小さな揺れがいつか大きな揺れに変わって結果こぼれてしまう、「揺れ」に不安を見出す癖がある。ヴェールとか。
さえ、それを最低限のこととしているのがかなり生きづらい感じをだしている。普通の人はおそらく最低限こぼれなければいい、というスタンス。器はどれくらいの大きさだろう。
最低限のラインを高く設定しておけば、おのずと余裕が生まれてきて、モーション、器を持ちながらのうごきも大きくなる、みたいなことか。あまりわからない。
揺れないようにするということとモーションが大きいことが食い違う。揺れないように気を配っている間は絶対にモーションも大きくはならない。実現不可能なことを解いている感じ。逆接で続く。
揺れないことに力を注いでいてもはやモーションを大きくするほどの余裕さえないのであれば。ということは二つの両立が大事、理想としている。
揺れないようにしながらしかしモーションを大きくしないといけないというのが、しかしそれが難しく、揺れないようにするので精一杯なので、神の力を待て。神頼み。
4
淡い光とか炎とかはある。そんな風にすぐに消えそう。記憶にも残らない何でもない一日である今日。
記憶に残ろうと、雨という出来事が起こる。物語を生もうとしてか。それとも淡いに拍車をかけるために、たしかに雨も淡いと言えばそのような気がする。落ちては流れていく雨を置いた。
やはり雨は淡い側のアイテム。一番淡いのが雨が降っている間の空気。その次が水。
林のかおりは雨が降っていれば消えてしまいそうだが、水が地面に落ちて跳ねるそのエネルギーで遠いところまで届ける。
いや水が一番淡いもので、その次食らいに淡いように思える、ほとんど水の状態に近いくらいの空気、ということか。秋が深まるという表現。
石が響く場面を見たことがない。石ころをぶつけてもこつんというくらいで。秋が深まるのはもっと除夜の鐘みたいにぐわんぐわんという感じ。
思い出を否定するならやはり石の響くようというのはわかる。内部で反響するのでもなく遠く響く野でなく、ただ瞬間こつんという感じ。
思い出よりももっと深遠なものとしての夢。石が当たってこつんというくらいの日に夢のようなすごいものはない。
一日に続き私も石のよう。私の歴史はない。響くほどの余地がない。奥行きもない。
ただ輪郭だけ。中身がない。意味がない。表情も動きもない。実体がなければ存在できない。影の主がいないと現れない。その時々で現れるインスタントな存在。
意味を伴った言葉がない。ただ石のこつんという音だけ。淡いとかはどうなった。だから吹いたら消えるくらいの言葉。こういう時に風が出て来ないのが不思議だ。
空をやはり限りないものとして見ている。包んでくれるとか、天への入り口とかではない。自分に立ち向かってくるもの。どこまでいっても到着点がないもの。
しかしそれだと石の比喩と食い違う。奥行きがない。空は奥行きがあり過ぎて逆に平面的。関心は自分の心へ行く。空はどこまでも続くから手近な心。
理由というか無実の罪。手近にある子の心でさえもどこからきたのかわからない。ただこぶしを握る。歯を食いしばるように。
誰も攻めてはいけない。自己責任か。その握った拳の行き先もない。どこから来てどこへ行くのか、ただ我慢するほかない。
せつなさは淡さに続くものだろうか。淡い外界と石のように冷たく硬い内面。ただ内面も最後にはせつなさ、淡さにたどり着く。
雪の宵
屋根、瓦、天井。自分の家ではないどこか。旅人。異邦人。雪が降っている。寒い中での旅行。雪は積もる。
雪の結晶っを拡大してみると六角形だとか幾何学模様であるが、それを人間の手を見ることもできなくはない。また雪は音もなく降るので、囁き声、小さい音。
白くて軽くて、しかし温度は真逆の煙と雪がここで「ふかふか」という擬音語でつながっている。屋根から煙突が延びているような家。暖炉がある。
白から赤。屋根の根元にある暖炉からの火の粉。雪が上から下へ。煙と火の粉は下から上へ上る。
囁いたり手立ったりはむしろそちらのほうでは。雪の譬えではない。黒の背景にそれら情景はたしかにはっきりと見えるだろう。空が舞台である。より大きいもの。
またここで雪に戻ってくる。一貫するテーマとしてやはり雪。煙と火の粉は人間の営み。バランスは取れているのかもしれない。
手とか囁きとかを煙に見出していたのは、旅の途中、おそらく別れた女のことを思い出していた。雪が降るのはその思い出をかき消そうとするはたらき。時間。
想いを馳せるための道具。景色。もう一度会いたいとか、別れたことに対しての感情は不明。のやらというのが平気なかんじ。
雪と煙はしかし屋根の上で出会う。しかしあのおんなとこの主体は今まさに別れたばかりという。
帰ってきてほしい感じは少しくらいはある。あの女のことを考えるのにも疲れた。何度も繰り返し考えるのにも飽きたので暖を取るためにも酒を飲む。
部屋の中にいるのだとすれば雪が屋根に降るという情景は見ていない。悔やんでいるのだろうか。しかしカイとカイとという反復がそうは思わせない。
繰り返すことから逃れられない。酒を飲んだところで、いや、酒を飲んだからこそ逡巡に拍車がかかって、おんなのことを忘れられない。
酒は逆効果だった。身体は温まったのかもしれないが、心は冷えていく。そそ、とかるる、とか狙ってはいないのだろうがコミカル。
だから見えていない。酒を飲んでも忘れられなかったのでまた初めに戻った。また冷えた心、淋しさに感応して外の雪に注意を向けたのか。
手が上から下りてくるようなイメージはないし、バラバラに降るからよくわからない。それか屋根を包み込む、積もった状態を手というのならまだわかる。
だとすればホテルというのは自分のことだろうか。熱が下がらない自分を、冷やしてくれる雪がもっと降らないだろうか、ということ。
手も囁きもやはり煙と火の粉のような気がする。その手も囁きにも答えはない。
生ひ立ちの歌
1
幼年時
私の頭の上に降る。私の頭上でふわふわとしている。私の上をどこからどこまでとするのがいいか。私の上だけに降っているはずはないから。
白い色、感触、冷たさを除けば綿の比喩は的確ではある。寒い雪ではなく暖かさを持って来てくれる雪。
少年時
私の上にずっと降っている。それは横軸の空間ではなく縦軸の時間においてだった。幼年の私にだけ降っているのではない。何かで例えるその変化。
この「ようで」は比喩ではない。推測に近い。現実の雪に近くなる。綿という幻想で隠されていた雪が少し解けて霙になる。しかし急ではないか。
十七十九
降って来るものにも動きが現れる。霰はもっと冷たくてかたいもの。雨に近い。雪が解けていく。
二十二十二
ですますが終わる。また大きく括られていたのが年齢刻みになっている。比喩で例えることもなく、ただ予想するようになった。
二十三
しかしここでまた雪に戻ってくる。しかし程度が増して、吹雪、雪が過度になって逆効果になっている。今後にも影響が出るもの。
二十四
おそらく程度で言えば幼年時の雪と変わらないかもしれない。しかしあの時は真綿のように暖かく感じられていた雪はただしめやかに、冷たくなってしまった。
2
花びらは季節が違う。真綿よりも遠いもの。降ってくるという動作に着目している。空の存在がある。起点。
花から薪、同じ植物として、それが燃える、花はおそらく明るい色だから。とにかくまだ暖かい。
雪の降っている日は何かと静かなものだ。その中で牧野燃える音はかなりクリアに聞こえる。そして雪の積もった日は夜が明るいものだが、ここでは暗くなっているから、積もるような雪ではない。
触覚。またなつかしくなっている。これが入ると詩が一気につまらなくなる印象。雪が一貫して降っている。
だから雪を手で例えるのはそんなに上手くない。助け。救い。この主体にとって過去は救い。
熱い額を冷ます。風のときとかに温度を図るために額に手を当てるが、手の比喩の継続。しかしつまらない。
額につくのはなよびかだ、手だといいながら結局涙。少し水分の多い雪。なぜつまらないのか。
雪を救いの何かだと見ている。しかし過去へ通じるためのアイテムであるとすれば、あまり納得はできない。感謝とはどちらに向かうものだろうか。
長生きを願う。ずっと過去を見つめ過ぎだったのが、最後になって神様に頼む。神頼みであることを除けばいいかもしれない。結局それが本音だろう。生きていたい。
白くて冷たい。肌に当たればすぐに溶けてしまう雪。人間の目に留まる前にその姿を消すというのを貞潔という。いや、もしかするとこの願いが断られたということかもしれない。婉曲的に、私のそんな願いも聞き取ってはくれないほど他者の侵入を許さない、そのことを貞潔と言っているのかもしれない。
時こそ今は……
花はそのままでも香りがするものだが、燃やしたときにはまた違う香りがする。しかしそれは自然ではあまりあり得ないこと。人間の手によってつくられるかおり。
せっかく花を燃やしてまで、あの時摘んだ罪を思い出すが、そこまでしても結局よくわからないという。花の無駄遣いである。
それは花側の抵抗なのかもしれない。いい香りなど立ててたまるか。その花は一行目と同じものか。水は逆に冷やすもの。
しほだる花は燃やすほどの価値もないもの、落第。帰る人々は香炉のかおりなど気にしない、自分の生活に集中している人。
泰子が誰か知らないが、この人に伝えている。花で例えているのは泰子のことか。泰子を燃やした人がいる。
騒がしい気配がするので、泰子と一緒に香炉の前でゆっくりしていたい。そのための準備だった。泰子のために。
空に遠くも近いもないが、泰子に合わせている。空を今だけは泰子と一緒に居られるような安らかな場所として設定している。鶏、イぬ、いきなり出てくる動物。
他人事、同情しているように見えて、やはりかわいいものとして費やしているように思える。空はたいへんだな。ここから見る分には楽だ。
さて、このままいくとまた空に吸い込まれてしまう、空をぼうっと眺めてしまうので、今大切なのは泰子である。そのために一行目から香炉を準備していた。
たしかに世の中すべてが今暮れようとはしているが、できるだけ近くにある物にその世の中が反映されているもので、今は籬である。
空を見てはいないが、今頃は多分濃い青色を水道に流すように、暮れの色に染まっていくだろう。家に帰る必要はない。
風が泰子の髪を通過する。それは空からの伝言でもある。目を逸らすな。花を燃やしたこと。みんな帰る家があること。
開き直る。その罪は消えないので、もう一度花を燃やして、とにかく泰子と一緒に居たいと願う。