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羊の歌
羊の歌
1祈り
うつぶせではいやだ。空を見上げていたい。空を眺めながら死んでいきたい。誰とも目を合わせたくない。
痩せこけていたい。なぜ。もっと願いたいことはあるはず。
生きている間気づかなかったことに、その死ぬときになって気づく、とか責められる、とかだろうか。上を見上げれば自ずと顎が露出する。
罰と来た。いづれ死ぬ。そのことに気づかなかったのか。肉体はいつか衰える。
罰を受けてもなお上を向いていたい。申し訳なさげにしていたくはない。
例によって、「も」という助詞がそう思わせる。先人に倣って。死ぬときに神に近くなる。
2
思惑というと何か悪い事を秘密のうちに考えることのような感じ。古い物好き。そういう考え事が空気や霧のような形というのはうなずける。
やはり自分で出て行かせるのではなくあくまでもその思惑が自主的にというか自然になくなってくれることを望む。身体の得に何処にあるものだろうか。
それらのことと思惑は相対するもの。思惑は複雑で騒がしいもの。何の思惑か。
否定形にはなっているがかなり高望みではある。思惑は不純なもの。どんどん思惑の輪郭がはっきりしてくる。
ただ交際とあるので容易に男女交際とすることはできないが、常識的に考えてそうだろう。明るいもののように見えて陰惨。
眠っている状態を良いとしている。思惑や汚濁にまみれるくらいならば。
単純。人との関係がない。孤独。古いとは人間の本能のようなもの。原始から変わらないもの。
無力。だから去れと命令することしかできない。腕を動かしてどうにかすることができない。気体に対してしっかりとした質量を持つ腕は何もできない。
呼びかける対象は並列されている。思惑は疑惑に近い。よからぬことということに変わりはない。腕の次は眼。
一か所をじっと凝視しているのか、それとも見開いたままただぼうっとしているのか。疑うときほど目を細めるイメージ。逆である。
外界。他者。見えるものしか信じない。心は眼に見えないのに。
古くからある、ずっと疑っている。子どものときは疑いはなさそう。
夢の内界へ閉じこもる。夢、何でもあり。つまらない。つまらない夢を見ている。
3
九歳と言えば現代日本では小学45年生くらい。賢いのか馬鹿なのか、個人差はあるがまだ子供といった感じ。過去形なのは今はもういないということか。あったというものみたいな言い方。
性格がどうとか、容姿がどうのこうのではなくとにかく「女」であった。誰の子供だろう。または友達か。
いきなり世界。子供と世界ではかなりバランスが悪いように思えるが、ただの、しかも一人の子供に世界の中心があるというのは逆説的で面白いかもしれない。
それをその子供は自覚していたのか。傍から見て、子供は無邪気に動き回るし、周りも大抵のことは見逃してくれる。であればやはり世界を有しているというのは過言ではない。
首をかしげている時、どこに触れるのでもなくただ傾いているのが、世界に向かって頭を投げ出している風に見ている。それは世界を軽視しているのか、すべて思い通り、落ち着いているのか。
私が何才かわからないが、話しているときいつもそうしているというのか。それは私に何か伝えるわけではない。
暖かい場所。落ち着ける場所。もしかしたら私が有している場所。彼女が世界を有しているように炬燵が私のテリトリーなのだろう。
その子供は私のテリトリーには入って来ない。首をかしげるのにも何ら意味はない。ただ所有している世界の一部としか見ていない。
限定しているとすれば「めずらしく」という言葉のみ。冬の日も、午前もすべてが曖昧。ただ以上だったのが晴れているということだけ。
陽が何か空間的に質量を持っていて、それで満たされているような印象。こたつに入る必要もない。暖かい。
ということは二人の間で会話があった。しかしそれは描かれていない。省略されている。それよりも晴れていることが重要。子供の動作に込められている。
陽でいっぱいだから。陽が子供の中に侵入してきている。その陽でさえも彼女のものか。お互いに入り込まれている。
有しているものにたいしての余裕。高みの見物。世界は彼女中心に回っているので、しかし耳たぶに陽がすけているようすをおそらく彼女自身は知らない。
心は見えないはず。だとすればこれは私の都合のいいように作りだされた彼女であり、現実にいた人間ではない。蜜柑の色などという比喩が当てはまるほどウソらしい人物。
優しさが氾濫するという事象を言い換えると。優しすぎて八方美人のようになってしまい対応がすべておざなりである。その優しさに価値がない状態。
鹿に触ったことがある。ぶるぶる震えていた。小さい動物。縮こまって他者との交流を避けようともしない。
無知の状態に帰る。それは内面を凝視、侵入しすぎているから。罪。
会話の内容も、彼女の心も、すべてを明らかにしようとすることを止め、ただ日の当たる一室、しかしそこは私の領域であるが。
4
直前までの会話を中断したような、話題を変えたような印象。もう侘しいとか悲しいとかはうんざりだ。つまらなすぎる。心。心ってなんだ。
夜、どうせ暗い夜。何も言うことなし。部屋になにもなさそう。気を紛らす何か。
単調であるのはそう。繰り返し同じ言葉。
連弾しているということは心は一つではない。複数ある。よって侘しくない。解決。
汽車の笛が母親のようだという詩がどこかであった。それは自分の近くから遠ざかっていく音。消えていく音。外に耳を傾ける。
しかしどうしても内面に向かってしまう。汽車からの連想。連弾? 小さい頃に出掛けた記憶。また何事も楽しかった時の思い出。
いけない。またこうして何の関係もないところに強引に連想の糸を見出して、結局行き着くのは後悔だとか未練だとか。
今目の前にある、部屋の中にある旅とか幼い日を含んでいる事物に眼を向けよう。そうすれば連想が広がることもない。
だから思いなき思いというのが全くナンセンスである。何か知らず知らずといったような、ボケっとしている時の心情のことか。思いある思いは作業とか仕事のとき。
閉じてからかなり年月が経つ。誰も触れようとはしなかった。生臭くてぬめぬめしている。通常の心はそうではない?
カビ生えるに対応してこの二つの形容詞が登場。しかしこれは比喩ではなく実際の外見の描写らしい。
静寂というのは音がない状態のことだからそれに水が濡れるようにというのは、むしろ乾いた頬が回復するのではなくより白けていく。
何度もこのような逡巡をして来たから慣れている。それがよりわびしさを加速させ、単調さに拍車をかけている。
どうしても自分、中身から目を背けることができない。本当に興味がない。さみしいとかせつないとかあまりにも凡な表現。
無意識に、制御できない。自然に繰り返してしまう。
涙に意味がなくなった。ただの水。ほとぶこともない。乾いた頬を膨らませることもないような涙が出る。うつ病の症状に似ている。
憔悴
善い意志を持って目覚めることの方が少ない。理想が高すぎる。それとも今までは善い意志を持って目覚めてきたのだろうか。
「平常」何ら変わりのない日常に嫌気がさす。善い意志と近いもののような気がするが。
しかしそれは依然として「意志」である。どこかへ向かって行こうとする思い。対して平常の思いはただ同じところに留まっていようとする気持ち。
安住したくてもできない。意志とは心の動きであってそこに留まることはできない。
悪い意志と共に進んでいく。抜け出したいと思っていた。しかし抜け出しても結局また平常の想いにぶつかるだけ。
夜の思い。朝昼夜と考えることは変わっていくのだろうか。夜が来るたびに、どうしようもなく考えてしまうこと。しかしそのきっかけは何か。
この思いが悪い意志のことか。善い意志が悪い意志に転換した何かきっかけがあるはず。海のようだと考える。
荒れている海。さわがしい。磯臭い。危険。魚が取れない。魚でさえ嫌がる。
船頭が又出てきた。かつては妻と二人でいたはず。座って眺めていた。そのときには表情も会話も聞き取れなかったが今はやつれたかおをしているという。それは主体の鏡だろうか。
船頭が悪い意志を持った主体であり、荒れる海で魚が取れる見込みもないのに漁に出ている。心身共に疲弊している。
ない、という普通の打消しではなく、あるまいという打消し推量のニュアンス。先導自身でも魚が取れない事を知っている。それでも舟を出す。漁に出る。
やっている風をだすためだけ。時間を浪費するためだけに。水面、世間をただじっと睨みつけているだけで、海からすれば船頭はちっぽけな人間である。
2
昔、とくれば必ず今、の話題が出る。しかし未来のことについてはあまり詳しくないこの詩集の主体。逆接の今昔である。
恋愛詩だらけである、世の中は。邦楽のほとんどが君だとかあなただとかがいて、個人的な体験を吐き出すのかそれとも恋愛という一般的なものについての意見を述べるのか。何が恋愛詩。
今の私、詠むというのが俳句や短歌のそれになっている。心情を吐き出す。今までにあっただろうか。みちこ。マルガレーテ。
それを後悔しているというのならまだしも、やっている甲斐があるのならばそれでいいと思う。昔けなしていたことは忘れて続けて行けばいいのではないか。
逆接の逆説。愚劣なものだとけなす心は消えない。癖のようになってなかなか抜け出すことができない。甲斐を潰しにかかるのはいつも自身である。
それは少なくとも恋愛詩ではない、それを超えた何かというただ漠然とした計画であって、それを具体的に言い表せないうちは恋愛詩からは抜け出せないだろう。
おそらく間違っている。傍から見れば。恋愛詩を書いて満足している自分を見ようとしていない。まし、という言い方も気になる。より良いだとか、超えたものではなく。
愚劣よりかはまだ柔らかくなった。昔にとらわれている。この詩は少しメタい。詩を書くことに言及しているのは珍しい。
恋愛詩のようなものを書いている自分に、恋愛詩を書いている自分を許すことができない自分に。
すでに出ている希望らしきものはさっきのまだましな詩境というもの。しかしそれすらも無視してまた新しい何かを考え始めている。
とんだ希望の内実を明らかにしないまま冒頭の反復に移る。
恋愛詩を書くために必要なもの。より大きいもの。作品のために必要なもの。まず先に作品があるのか。とんだ希望の意味はそれか。
恋愛を夢見ることがとんだ希望なのか、それよりまだましな詩境に至りたいというのか、わからなかった。
3
それが何を指しているのか。普通に暮らしていれば堕落に出会うことはまずない。それは過度なプライドがあったり、高すぎる理想があったりする。
責任逃れ。では一行目に書くべきではなかった。わからない、無知なまますすんでいく。説明責任を放棄している。
腕は掻き分けるもの。それに怠惰が乗っかっている。
今日も機能も明後日も、昨日も一昨日も、雨が降っていたり曇りでないだけましではないか。なぜいきなり天気の話になるのか。話をそらしている。
昔に対して思うことはない。それぞれの昔があって良いも悪いも時が進んでいくうちに変わっていくからだ。
わからないなりにもそれを解き明かそうとしている。それともこれは結局わかるものかというスタンスをただ言い換えているだけかもしれないが。
怠惰の反対が真面目な希望というところに一般的な感性を感じる。それが怠惰から由来。
怠惰の中にいてようやく見えるもの。もし怠惰から抜け出したとしたらそんな希望も無くなってしまう。相対的な価値。依存している。
結局答えは出ないまま。私の、というのは私が原因の、私から由来した、という意味か。
夢を見るだけで行動に移そうとしない。私だけではない。堕落しているのは私だけの特別なものではない。私の、の意味。なぜ突然空が青くなったのだろうか。
4
大きく出る。善とか悪について何か言おうとしている。「だの」に少しあきれた様子がうかがえる。この世とは世間のこと。あの世と対置する者ではない。
ずっとわからない、という姿勢。無知で無力。しかしその主体を「人間」としているのが、自分の足りないところを世間に投影している感じ。
無数のものであればすべて人間には理解できない。しかし善と悪に理由を見出そうとしているところにすでに倒錯がありそう。不条理。
「支配」という言葉がここで初めて出てきた、気がする。風、空、これらが支配の象徴だと思うが、無数とか限りないということとあまり遠くない。第一原因の風。
山口県。昔の記憶を引っ張り出している。故郷の美化。忍耐ぶかいことを良いこととしている。水は何のしるしだろう。
いや批判している。ただ黙っているのであれば楽しいがそうはいられない。善と悪に理由を付けたい。
いきなり汽車に乗っている。どこへも向かわない。無限に移動し続ける。それとも上京するときの情景だろうか。山と草、大きいものと小さいもの。
川は海へ流れていく。清水が集まってできたもの。それらはただ黙っている。やさしいとか厳しいとかはない。人間に無関心。
全体の調和とは理想的な響きだ。決して実現しなさそうな感じがする。何か二つのことが調和することでさえ難しいのに全体、という広いものは。
結局最後には「空」に吸い込まれていく。虹は太陽光を空気中の水分が反射してできるもの。無数の理由とは空や川のことか。
5
損得について考える。利益優先。何事にも意味を見出す。甲斐を求めてしまうものだ。詩を書くということが最も利から遠い気がする。
少なくとも笑われなければいい。みじめでいたくない。滑稽でいたくない。時には周りが笑ってくれることで楽になることもあるだろうに、それを否定する。ただ利益を求める。
思惑は疑惑、疑いに近かった。
意味が解らない。この相手というのは「人」の相手か。原因は循環する。世間で完結している。人が人に人の思惑を考えるように、相手の顔色を窺うように仕向けている。
譲歩、あくまで自分は理解を示しているつもり。という言明ほど何か負け惜しみの感が出てくるのは不思議だ。やはりプライドが高そう。
郷、社会性の網目。自分のことは考えずに他人から見て自分がどうであるか、自分が納得する自分ではなく、他人が納得する自分に自分も納得する。
それでいいと思う。ただ自分に帰っても結局わびしいだとか、かなしいだとかいうだけであるのが惜しまれる。昔だとか。
郷に従ったことが何かのためになれば、というこの反応ももしかしたら利益主義なのかもしれない。ゴムがすでにあったことに驚き。
利を求めることを否定するとはすなわち何事にも成果とか、結果とかを求めないということで、怠惰と思われても、思われることを気にすることも、できない。
手を何となしに広げてみる。暇人がすること、その手は本来誰かのために働き、何か道具を持っていたはずの手。
むしろ青空に吸い込まれていくのではないか。しかし怠惰であるからこそ空に改宗されない、暇だからこそ自然の一部ではない人間。
蛙に怠け者のイメージがあることに気づいた。確かに目がぼんやりしていてそう見えなくもない。
なかなかに楽しそうな生活である。何も仕事をせず平日の昼間、かどうかは知らないが窓から何も持たない手を伸ばしてみる。
空に吸い込まれることをまさか望んでいるのだろうか。この詩だけではそう。ゴムと蛙の舌が似ている。
6
世間に反発して、何事もせずただ窓に向かって手を伸ばして、夜までそうして星を眺める状態のこと。
何かきっかけがあるわけではない。もしきっかけらしく云うとすれば「その状態が変わらずに長く続いたから」心変わりにすべてきっかけがあるわけではない。ずっと同じ状態でいれば自ずと何か変化を起こしたくなるものだ。
じれったくなるものだ。じっとしてはいられない。ただ文字通り生きているというだけ、生存しているというだけで、もっと豊かなものである。「生きている」という文字の意味はおそらく。
物を買っている。物質的な豊かさは手にしているのかもしれない。しかしそれを届けてくれる人との交流はない。
理屈がはっきりしているからこそ善と悪を受け入れられず、人のためになることを世間が押し付けているものとして見ている。
もしかしたら自分の考えは違うのではないか。懐疑とは自分への疑いである。人のするようなことをしないといけないのではないか。
自分が捏ね上げた哲学とそれに反発する自分の常識。人と同じことをしたいという気持ち。その二つが、どうなるのだろう。楽しみだ。
ぶつかり合ったりぶつかってよくわからなくなるのではなく、ただその二つが「ある」じっとしているだけ。
音楽はどちらだろうか。怠惰か利か。そのどちらでもないものが実はあるのではないか。その筆頭としての音楽。軍楽が聞こえてきた朝を思い出す。
ちょっとは、も逆説を呼び起こす言葉である。束の間その二つを忘れる。
忘れる、知られなくなる即ち死というのは少し大げさではないか。音楽に惹かれることで死んでしまうほど繊細なものか。
空と海。すべての根源。しかし海よりもやはり空の方がそのきらいがある。空の歌が聞こえて来るのか歌いたいのか、望んでいるのか。
その二つをすり合わせることなく音楽に気を取られて、出来たものを殺してしまった。いきなり美の話をするのか。
美は怠惰のことか。音楽は怠惰のしるしかも。