スレドニ・ヴァシュター 感想

 コンラディン少年に両親はいない。本文には書かれていないが、従姉が世話をしているということから、もし両親が存命で有れば、わざわざそのようなことはしないだろうし、一時的に預かっているわけでもなさそう。決定的なのはguardianの一語か。ただの保護者ではなく後見人であるということは、やはり死んだ親に代わって夫人が面倒を見ているというのが適当だろう。
 親に対する言及は本文にはほとんどない。辛うじてscarcely another outletという語で、本来の愛の行き場が匂わされてもいそうだが、別にただ単に友達が少ないということでもある。コンラディン少年は両親を寂しがったり夫人と母親を比べたりしない。夫人の方でもコンラディンの親にたいする何か、マイナスな気持ちでさえも言及されていない。コンラディンの両親はただ現世にいないというだけでなく、「故人」として登場することはない。彼らはこの物語から徹底的に排除されている。
 とにかく私が言いたいのは理想的な親子の三角関係と医者、夫人、コンラディンの三者の単交通的な一直線の関係、またスレドニとコンラディンと雌鳥の三者の関係のことである。コンラディンは理想的な親子関係をすでに失っており、現に成立しているのは医者-夫人-コンラディンの一方的な関係。この二つの間で彼はどこを目指したのだろうか。
 道具倉庫の中の関係をまとめてみる。まずはコンラディンその人が倉庫の中に彼の空想世界を、もっと言えば意味付けをしていた。phantomsを「住まわせていた」のである。また普通「空想世界」といえば、当然のことながら空想する主体がおり、その主体が自分の思うままの世界を作る、その世界に自分が入るのか入らないのかは場合によるが、彼の場合は自分もその中に入っているのだろう。では、それを踏まえて次のことは言えるだろうか。一般的な「空想世界」では、その空想する主体が世界の全権を握っており、彼/女を中心として世界が広がっていく、と。
 何が言いたいのかというと、コンラディンは道具倉庫の中ではそのようなヒエラルキーの頂点ではないということ、それが普通の「空想世界」とは決定的に違うところだ、ということ。その頂点は言うまでもなくスレドニである。コンラディンは彼のために盗みを働き、儀式を行い、雌鳥を失った後は讃美歌を歌い、詩まで詠う。小銭と引き換えに肉屋の友達から手に入れたことを考えれば、やはりスレドニはただの彼のペットのように思えるかもしれない。しかし厳密にはその時はまだただの「ケナガイタチ」であって、「スレドニ」ではない。ただのイタチが神となり宗教となったのはあの「スレドニ・ヴァシュター」と言う名前をout of Heavenで授かったときからである。
 確かに道具倉庫の中での「空想」の作者はコンラディンで間違いない。しかしそれは創造主として全権を握っているような意味での「作者」ではない。おままごとの意味がすべて還元されるような「作者」ではない。繰り返しになるが「スレドニ」という名前の意味をコンラディンに聞いたところで、きっと明確な答えは期待できなかっただろう。似たようなことが雌鳥に対しても言える。コンラディンは雌鳥に名前をつけはしなかったが、彼女を「アナバプテスト」だとした。しかしスレドニと同じように彼はそのアナバプテストの意味を知らない、he did not pretend to~知った被ることさえしなかった。つまりこの場合も彼は自分のごっこ遊びに責任を持たないのである。

(コンラディンの「空想」は積極的な創造行為ではない。そもそも世界の2/5である彼と彼自身が、夫人へのperpetual antagonismであることを忘れてはいけない。抑圧に対して「反抗」するということは、言い換えれば抑圧が前提となっている、それに依存している行為である。同じくコンラディンの場合も、)

 「名前を付ける」という行為をこの物語の中に探すと、「スレドニ」以外にもコンラディンは別の人物の名付け親でもある。それは言うまでもなくthe Womanである。secretelyにあだ名を付けることで彼は夫人の抑圧に抗おうとする。もっといえば、彼のごっこ遊びの登場人物としての名前、とも読み取れるだろうか。locked outという記述と矛盾するが、その後の流れを見てみれば、結局その「締め出し」もかなり弱々しいものだと考えざるを得ない。空想世界から締め出されている者、というよりは、それを崩壊させる存在として、コンラディンのごっこ遊びの一人物として捉えてもいいだろう。これもスレドニの場合と同じである。コンラディンが肉屋の少年から手に入れた「イタチ」と、神でありかつ宗教である「スレドニ」とは厳密には別の存在であるように、世界の3/5である「夫人」と、
 知-無知の関係はそのまま権力関係に対応する。パノプティコンの例がわかりやすい。看守が真ん中にいて囚人たちはそれを背に半身円状に置かれる。すると囚人たちは看守の目線を常に意識しなければならなくなり、彼らはそのようにして「支配」される。それはもっといえば看守は囚人のすべてを一度に見ることは確かにできないが、それでも目を少し動かせばどの方向も容易く見ることができる。つまり看守は囚人を「知っている」のだ。対して囚人たちは看守がどこを見ているかわからない。彼らは看守のことを「知らない」のだ。
 話を小説に戻す。今'the Woman'のことだけに話題を絞れば、コンラディンは当然そのように夫人のことを呼んでいることを「知っている」。しかし対して夫人はコンラディンからそう呼ばれていることを「知らない」。それによって夫人の行動を現に制限できるわけではないが、少なくともコンラディンの内心はそれで優越感に、支配した気に、悦に浸ることができるのだった。まとめるとthe Womanという名称は、夫人のmastering pressure、「力」による支配に対するコンラディンの「知」による反抗の表れであった。加えてそれによって夫人を、コンラディンの空想世界の登場人物として扱うことができるのだった。
 デ・ロップ夫人は誰か。それはコンラディンの従姉であり、彼に嫌がらせをすることを苦と思っていないと考えていて、歯痛を感じる、どちらかと言えば主体である。一方「あの女」とは誰か。それはコンラディンの従姉でも何でもなく、ただ彼に嫌がらせをしてくる、雌鳥を奪い、スレドニをも奪おうとした、道具倉庫の破壊者、コンラディンが観察する、どちらかと言えば客体である。

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