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秋日狂乱

無力、無知と来て、これは無財。ミニマリストみたいな。物でもあり手に触れられないものも含んでいそう。女を求めていた。友達も家族も誰もいない。孤独。しかしそれは思い込みでは。

 

何も持たないものが逆説的に一番強い。無敵の人とは昨今の言葉だが、これ以上失うものがない状態というのは、周りからすれば危険だが本人の気持ち次第では原動力になるかも。

 

そのようなことではない。かといって喜ばしい事でもない。何もない、とだけいうのでは少し印象が弱いので、もし私であれば「この身体しか」みたいな表現にすると思う。

 

物を持っていないということはすなわち金も持っていない。いやもしかしたら物はあるのかもしれない。しかし金がないというだけで身の回りにあるものが一切無意味に感じてしまう。文字通り無一文なはずはないから。

 

散歩でもしているのか。開き直りの境地を感じる。とりあえず外に出て空を観察する。物がないから体が軽い。いい天気が悪く見えるということもない。虚勢か。

 

飛行場から飛んでいったあれ。昨日の何とかを縫っておいたあれ。飛行機はこれで3回目くらい。しかしたくさん飛んでいるというのは異常ではないか。昭和ならあり得るか。逃避願望が見せる幻覚か。

 

金のない人、恵まれていない人、それでいて時間のある人は何故が対岸の火事とか世界情勢について詳しくなる。それを勉強してさも自分の今の苦しい状況が変わるとでも信じているように。しかし日本も無関係ではないか。

 

無知へ帰ってくる。物はないが時間はある。詩を書く時間はある。言葉を持っている。それでもこの主体は無財と無知を押し通すのだろうか。

 

話題の転換。いい天気からなぜか戦争のことを考え始めて、結局それも分からずじまい、何か結論を出すことなしに切り上げてしまう。二度目の挑戦。どこへ着地するのだろうか。

 

この涙は自分のか、それとも空が泣いているのか。しかしそれはよく雨の比喩で使われることだから、しかし雨が降っていないということもない。もしかしたら雨を見ていい天気と言っているひねくれがあるかも。そういうことにする。今雨が降っている。

 

それは雨粒が都度葉っぱに落ちて来るから。その擬音語と同じかそれ以上の雨の音が隠れている。ポプラが何かしらない。秋であれば紅葉しているはず。

 

この主体の知らない子供たち。今もどこかで死んでは生まれてを繰り返していて、しかしそれに普通であればいちいち悲しんだり喜んだりはしない。戦争からのつながり。思いをはせる時間がある。

 

雨が止んだ。別にいいだろう。通り雨だった。雨の一粒それぞれに子供の魂。転機が急転換する。しかし先ほどのようにいい天気だとは言わなくなった。日光浴で気を紛らわそうとしている。

 

妻君はでいでい屋の妻。二人で一組。共働き。この主体とは違って働いている人たち。日向ぼっこをしている暇がない人たち。履物屋。移動を思わせる。

 

先ほどはポプラの擬音だったのが太鼓の音へ移り変わる。連打音。客を呼び寄せるための音、しかしそれは自分たちの生活のため。妻君を養うための太鼓。

 

作者の意図を離れて。動機としては商売、金が欲しいという心から来た太鼓の音は、その手を離れて誰もいない、つまり広告の意味がない場所で、別の役割を果たそうとしている。

 

あきらめた。太鼓の音のように自由に何処へにも行けない。でいでい屋のように金を稼ぐこともできない。養うべき妻もいない。木を紛らわすことはできなかった。結局「何も持たない自分」に眼が落ち着く。

 

ディオゲネスでいいのだろうか。むかし、古いとかいった言葉の並び。小鳥が鳴くくらいでも今の主体には救いになる。

 

静か。鳥なら自分のものにできる。鳥の鳴き声を支配しようとする。死んでいく子供たちや戦争のことなどは自分にはどうしようもないが、小鳥くらいであれば自分の財に出来そう。

 

自分の影だとする。出て来ては消える。形を刻々と変え、一つの状態にとどまっているということがない。やはり主体の手を離れていく。それは太陽の仕業。

 

主体の知人かそうでないか。そうでないとしたい。田舎とは故郷の意味ではなくこの主体の与り知らない田舎。そんな存在であれば自分にあてがわれてもいいだろう。

 

それは彼女が作ったもの。彼女の私財。しかしそれを主体は奪おうとしているのか。田舎の素朴な創作物。幼心が作り出す作品。

 

押し花になって花は死んだが、そのことには全く関係なく依然として太陽は照り付ける、はずだが花が死んだことによって太陽も照らなくなる。自分たちに照る。

 

どこかの誰かが不幸になっていてくれればいいのに。何も持たない不幸なのは自分だけではないと信じたい。子供たちも戦争も、もしかしたら望んでいるのか。破壊思想があるのか。

 

無知から発展して無自覚と来た。自分の言葉に責任を持てない。だから何も持たないという。何も持たない自分から逃げていたことすらも忘れた。悲しい忘却。

 

しかしい一度ここで俯瞰を入れたということでもある。一人称ではもうどうしようもないから、目を逸らそうとしても逸らせないからその二項対立から少し距離を置いて。

 

雨の日を良い天気と言ってしまう狂気。ポプラの木や花、日向と来て蝶々がいないのが不思議だ。飛行機で飛んでいるものの流れ。全く関係のないことを考えようとしている。

 

朝と夕方が一見同じく見えるように春と秋も同じように見える。蝶々はだから飛んでいないはず。いまだ田舎のお嬢さんの幻想、商店の幻想から逃れられていない。

 

もう一度開き直り。快楽を尽くそう。ありったけの金をかき集めて、甘い、それはし好品であり栄養を取るものではない。

 

大槻班長の思想。欲望を発散するにはいくところまで行こう。しかしここに無一文になった原因が隠されているような気がする。主体はこのような連想と開き直りを繰り返してきた。これが初めてではない。それこそ張るくらいから初めて夏を通り越し、気付けば秋になっていた。

 

周りの目、ひいては自分を俯瞰する自分の眼も気にしない。己の快楽を突き進む覚悟。しかしシロップというのがこれまた貧しい感じがする。雨とかではない。

 

飛行機や蝶々の行方も戦争のことも、他人の不幸も何も望まない。ただ自分が幸せになろうという姿勢はいいが、しかしそれは結局開き直りが下地になっているからあまり褒められない。

 

朝鮮女

ただ一部分。人間は考える葦だと、誰かが言っていたが、ちっぽけな存在、付随しているものと主体。入れ子。

 

朝鮮の民族衣装、チマチョゴリみたいなのを着ているのか。しかしそれに紐がぶら下がっているというのは知らない。揺れることで不安が生まれる。

 

風が吹くとともにこの女も前進しているのでより紐は揺れる。どこへ向かうのか。街道というと広い一本道を想像する。

 

子どもをどこかへ連れて行く。ずかずかと歩いている様子。しかし子供はそのペースについていけない。紐、付属物。子供も同じく。

 

苛々している。子育ては大変だ。子供が言うことを聞かない。額にしわが寄って醜くなっている。紐のような模様が刻まれる。

 

肌、全身か。手足の肌が赤くなるほど怒っているのか苛ついているのか、はたまた焦っているのか。他人事。服はどんな色か。

 

その通り。異国人だからより他人感がある。しかしそれは一つの差別かもしれない。同じ人間である。子供のようすはどうか。

 

その女のようすが伝染して。自分の心もうつむき始める。本当に憂鬱とかが多くて嫌になる。何かにつけて悲しいとか憂鬱に結びつけようとする。

 

女と自分の心。誰の心でもない。見ているものとみられているものが同化する。しかしそれはまた子供の心かもしれない。母親はなぜこんなにも異常な様子なのか。主体にも子供にもわからない。

 

女自身にもわからないのかもしれない。母親の警戒心。周りの何ごとも子供に危害を与えないか監視している。目線が合う。

 

それは異国の言葉で。しかし少なくとも「うながす」という行いであるとわかった。勝手に一方的に見る態度を咎めているのか。しかし子供も同時に主体を見ていたのではないか。

 

女の動きの激しさが感じられる。街道も当然アスファルトなわけがないから舗装されていない土むき出しの道路。埃は女の後を追わない。

 

女の異常な様子は主体に何事かを思わせないではいられない。しかしこの詩の大半は観察に費やされており、そこから解釈へは移っていかなさそう。

 

母親も子供も、そして自分も、その眼線の意味、女と自分の、何事の意味も分からないまま残ったのはただの汚れ、埃、女の行方を眩ますものだけであった。

 

夏の夜に覚めてみた夢

本当に寝るときは寝ようとして寝るのではなく気づいたら寝ているような感じ。眼を閉じたら暗闇だがそこから始まる映像もある。

 

グラウンドは普通茶色。それが黒い。しかしそうだったら塁とか白線とかは白だから結構はっきりしていていいかもしれない。ボールも白い。

 

終末川沿いに行けば少年野球がやっていて散歩がてら眺める、そのような習慣がすでにこの時代にあったのか。

 

選手たちは昼とは変わらずグラウンドだけが真っ黒。目蓋が地面になっている。横から見ているのではなく下から上になっている。

 

選手たちのことをナインと呼ぶのは、野球好きが出ている。この時代にはもうすでに甲子園とかはあったのだろうか。野球がすでに国民的スポーツになっていた。守備、後攻か。

 

ピッチャーはずるいくらいがちょうどいいかもしれない。戦略の要であるから。守備を支配する。試合の中心。

 

セカンドがどこか正確に知らないが、ピッチャーの後ろにいる人。脇役。

 

どこから変わらないかというと昼のようすから今夢の中であっても、大きな変更はなく、見た時と同じような様子であるってこと。あまり球が来ないからだろうか。それともピッチャーをからかっているのか。

 

攻撃側を応援している。ずるそうな人とお調子者の二人がいるチームを応援してはいない。しかし攻撃側の選手たちを描写することもない。顕著なのは守備側の姿。

 

野球の試合は動きが全体でみれば動きは少ないが、動くときはかなり激しく動く。試合の流れは昼と同じなのか。グラウンドの色だけが違う。

 

勝手に期待して勝手に落ち込んでいる。選手たちが知り合いでもない。ただの赤の他人がずるそうとかお調子者だとかレッテルを張りつけている蜂があったのか。

 

真っ黒なグラウンド。静かなグラウンド。そもそもそこに選手などいなかったかのように。

 

現実にかなり近くなった。しかし人々は帰って来たのか。試合はどうなったのか。夢だからそのような急展開が許される。転調。

 

情景が理解できない。ポプラはどのくらいの高さなのか。どれくらいの感覚で並んでいるのか。そもそも野球をするのに邪魔ではないのか。並木は真っすぐに並んでいるイメージだがそれと野球場の丸い形と合わない。

 

人が戻って来たとは言わない。選手たちはポプラ並木になったのか。つまらない情景。それは一瞬でも主体が残念だと思ったから。試合の続きが気になる、気になることであればあるほど夢は続かない。

 

野球、セミ、夏、昼、絵にかいたような情景。真っ黒なグラウンドのときはまだ楽しかった。ずるそうなピッチャーの投球も、お調子者のセカンドの守備も見られない。

 

そこからもう少し頑張れば見れたかもしれない。しかし一瞬の幻想だった。今もどこかで彼らは黒いグラウンドで野球をしているかもしれない。最期には無関心。寝る方が大切。物語が始まったところで、始まりそうなところで潰える。体験版みたいな。

 

春と赤ン坊

春の花と聞かれればサクラの次に思いつくであろう花。花畑はあの世を思わせる。菜の花の柔らかいところに包まれて眠っている。

 

もちろん何にと言われれば風だろうが、他の候補としては人の息とか、うちわとかか。何にしても結局それは風に変わりない。花に囲まれて風は通るのだろうか。

 

緑と黄いろの集合の中に肌色の物体。しかしよく見えないので疑問形ではある。誰の赤ん坊か。捨てられているのか。親がいない、一人で。

 

場所が違うのだから、その否定は効かないのでは。最初の文字でいったん切れて、場所が変わった。

 

風が強い。人と人をつなぐもの。伝達するもの。しかしその中途では絶対に立ち止まらない。ただの通り過ぎるところ。綱渡り。

 

爆笑。支離滅裂が過ぎる。じゃあ最初の「いいえ」は本当に何だったのだろうか。かなり即興性が高い、上書きしていく、と思えばまた戻ってくる。

 

眠って、鳴いて、今度は走って、しかし赤ん坊は不動のまま。自転車が単独で走っているのはどこかでも似たような情景があった。

 

その自転車に赤ん坊が乗せられないだろうか。電線と同じようにただ過ぎ去っていくだけ。風も自転車も、菜の花畑にも道が通じている。赤ん坊はそこから来たのか。

 

赤ちゃんの肌を思い出す。風に赤ちゃんの色が乗り移った。自転車に乗ることはなく、その色だけが風に乗っかっていった。

 

菜の花畑の緑や黄色も一斉に風に乗り始めた。風は乗り物。赤ちゃんは置き去りだろうか。いや、風が奪った赤ちゃんの色を取り返しに行っているのではないか。雲も勢ぞろいで。

 

また戻ってきてほしいものだ。雲や菜の花畑の親切が逆に赤ちゃんを一人ぼっちにしてしまう。

 

初夏の夜

今までずっとそうだったから、これからも変わらず夏が来るだろう。季節は法則に則っている。しかしまだ来たばっかり、6,7月くらいだろうか、それくらいが一番過ごしやすい。

 

8月になれば夜も熱帯夜だが、書かはまだ涼しいので昼の温まった空気を夜の冷たい空気で一気に冷えるので、その温度差で霧が現れる。しかし白熊、寒いところにいる動物が出てくるのが面白い。

 

温い空気が沈殿している。上から徐々に冷えていく。地面にはまだ昼の暖かい空気が残っている。それとも蜃気楼か。

 

ダッシュが臭すぎる。セリフのようだ。白くまの声か、白クマを見ている誰かの声か、定かではない。旅をして来た。いろいろなことを乗り越えてきた。

 

いろいろなやってくる出来事に対して、その都度対応をして来た。出来事と行動。冬の残党か。冬の代弁者。春が終わって夏になろうというのに。

 

悲しい事ばかりではない。楽しいことももちろんあるが、逆にその気分の上下が苦しい。白熊に対して告白しているとも見れる。

 

いやなことほど記憶に残っている。なぜだろう。反省を生かすためにか。楽しいことに浸って頭ぱあになってはいけないから。野性の働きか。白熊は消える運命。

 

固い、しかし少しはしなる程度の鉄、薄い鉄、トタンのような板がぶつかり合って、衝突、けんか、争いがあった。

 

また争いがやってくる。それは昼と夜との戦争。太陽が地平線に沈むときの、ぶつかるときの軋音。しかし昼が負けるのだろう。

 

すべての年代にとって。逃げ道がない。過去だけではない。未来への不安。

 

青年ということから男を想定しているが、それと可憐という言葉が合わない。みじめな最期。間抜けな叫び声。

 

蛾は悪魔。夜がやってくることを知らせる。蛾に成長はない。

 

なぜいきなり人生の壮大な話になったのか。今は夜なのに夕暮れが迫ると言っているのがおかしい、つまりすでに起きた出来ごと。過去のことを回想している。

 

夕暮れの直前のようすを未来から語っている。今の時間は絶対に夜、それは変わらない。

 

夜はその夕暮れの激しさとは裏腹に静か。軋む音に変わって聞こえて来るのはどんな音かはわからないがとにかく心地いいという。

 

過去の出来事なんてすべてなかったかのように、冬も春も、朝も昼もなかったかのように静かな夜、「何となく悲しい」思いとしか認識できない。

 

鉄の継続。橋渡し。昼から夜への橋渡しを終えて橋は消滅した。その残響がいまだに聞こえる。それを心地いいと感じているのか。

 

もう見えやしない。言ったもの勝ち。きっと大きな川だった。そこにかかる立派な橋だった。空に支配されることなく自らの役割を果たしたのだ。

 

北の海

魚がそういえば全く出て来なくなった。軟体動物だとか鰯だとか貝だとか、にぎやかだったものだが。海は広い。臭い、

 

この言葉の前に「あれは人魚ではないか」という問いかけがあった。半人半魚の化け物がいたら怖い。アニメだからキレイ。

 

生きものでもない。海の生き物は死んだら海水に融けていく。波はその死骸を凝縮したエキスのようなもの。波の白い感じはたしかに魚に見えなくもない。

 

日本海側は曇りのイメージがある。それは太陽が東に沈むからか。夕陽をよく見ることができる。

 

刺々しい。波と波がぶつかって大きな波になって、またその波が別の波とぶつかって、永遠のプロセスである。

 

空の支配に対する反抗。海の青さはすべて空の反射であるため、曇り空のときは灰色だし、晴れているときは青色。空に一任されている。しかし浪は海が自分で生み出すもの。

 

無限である。波が消えることはない。地球が自転している限りは。無限に呪い続けるが、同時に無限に空の反射をし続けるしかない。海が空に影響を及ぼすことがない。

 

人魚などという御伽噺的な存在がいるのではない。それは永遠にも及ぶ海の空に対する反抗の牙である。高さでは足りないが、それでもできるだけ高い波を生み出そうとしている。数も多い。

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