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5幸福
幸福は形のないもの。抽象的なものが、馬小屋にいるというのは、一見遠い存在に見えるものが家畜小屋という低いところにあるという逆接だろうか。ある、のではなくいる。

餌として食べられるであろう。藁は柔らかいものだから幸福がその上にしっとりと乗っかている図は面白い。幸福、という文字が鎮座しているのも。手短なところにある。

高望みして、馬小屋のようなきれいではないところを避けるような心には見つからない。和む、平穏な、別に嫌なことがあっても気にしない心。

対して、何かにつけてこだわりが強かったり、一度決めたことを曲げようとしない強情な心にはわからないのかもしれない。いらだつばかりで、名古屋かの反対。

不幸で、馬小屋に行こうともしないので、少なくともそういう心は移り変わりの激しいものとかを追いかける。流行の物。そうしたいのではなく仕方なくそうなっているだけ。

苛立ちを抑えるために仕方のない事ではある。和やかというのは気分の上下がなく、悩むことがないこと。こだわらないこと。器が大きいこと。関心が移る。

心が紛れるだけで、幸福に近づくということはない。馬小屋からは微動だにしない幸福。藁や馬小屋のような動かない物に眼を向けるのでなければ。

そんな目まぐるしい状況を追いかけている間も、幸福は藁の上で休んでいるという。幸福自体が和やかなものなのだろう。自分から動かないとわからない。

不幸な心がやるべきことというのはおそらく、頑固でいるのをやめて、素直になること。自分の意見を持たず、ただ一つのものをじっと見る。

幸福が求めるのはそういうことだと思う。しかしそれでいいのだろうか。頑固さも時には役に立つのではないか。自分の意見を持ち揺るがないものがあるというのはいいことではないか。

理解に富んでいるのならば、不幸も理解するべきではないか。いや、幸福の眼中にそもそもないのだろう。不幸はまったく別種の物か。和やか。

たしかに自分の意見に固執して、他者を理解しようとしないのは、自分の意見を持っていることとは少し違う気がする。理解しようとする姿勢が大事だと、月並みなことを言ってみる。

不幸が幸せになるためにすること、というよりかは、不幸な中でもたしかにやるべきことはあるだろう。それも知らず、しかし頑なが悪いとは思えない。

頑なであることと利益に走ることとは並ばないのでは。めまぐるしいものを追いかけるのもそれなりの意気が必要だろう。それでも満たされることがないとわかる。

人にあれこれと求めてしまい、その期待に応えられないとわかると怒って、それで人に嫌われるというのは当然かもしれないが、自分でそれが分かっているのは少し悲しいことだ。

ただ従順であること。春の日の夕暮れに従順であること。風に任せること。しかしそれはこれまでの主張と全く違うもの。幸福と批判しているのではないか。

従う姿勢を見せれば自ずと他者も受け入れてくれる。しかし誰に迎えられるというのか。頑なであることを捨てて、他者に迎合する。

教わるだけ、受動的な姿勢をここではほめている。馬小屋にあるような幸福を本当に欲しいだろうか。それよりかは他人に嫌われようと自分の意見を。

ビックリマークも、命令文も、少しわざとらしい。品格だとか言い始めるのは、この詩は幸福を揶揄しているのではないかと思う。働きとは労働のことか。

更くる夜
夜が更けるということは人々が活動を止める。休み始める。たいていの人は。次の日の準備をするのだ。だいたい日付が変わって何時間後か。

温泉は深夜でもやっているのだろうか。それとも主体の幻聴だろうか。臨終でも水の音には敏感だった。水を救い上げる音だからかなり小さい。馬車とかではない。

やはり店じまいの情景を語っている。水が蒸発して水蒸気になる。それは雲も同じようなもの。どこかへ流れていく。

昔からいたわけではないだろう。異邦人からの目線。武蔵野、東京に対する美化があるのか。湯気や水と真っ黒な夜が対比。

外も中も水蒸気に満たされて、おそらく視界もぼやけている。暖かい日中と寒い夜の差が激しいほど霧は出てくる。温泉も同じようなもの。

真暗ではないじゃん。月に霧も、湯気も登っていき、吸い込まれていくのだろうか。上に上昇する動きに合わせて月が出てくるのはいいかもしれない。

犬の鳴き声、狼男が月夜に上空に向かって吠える場面があるが、遠吠えは水平方向な気がする。夜も静かで、はっきりと聞こえる。もしかしたら霧に吸収されるかも。

僕が出てくる。孤独な犬と孤独な僕は繋がっているのだろうか。囲炉裏は暖かい。灰に満たされている。月の反対側。

よわよわしい、キリや湯気のように吹いたら消えてしまうような夢を見ている。それは夜だからだし。

また懐古主義。現実の景色に集中しすぎたのか。それとも現実の情報を拾い上げるのに満足した。夜が更けることの合図だったのか。損なわれた、ない。そうではない状況。

冷えていく空気、水、月もたしかに冷たい色をしている。孤独な犬が吠える中で、優しい心を夢見る。

いや、優しいこころはむしろ夜更けに呼応して発生するのか。孤独な犬はしかし同じように孤独な存在がいるという証しにもなる。呟くのは犬に伝えるため。

誰に感謝しているのだろう。囲炉裏か。湯屋か。よくわからない。やはり犬の遠吠えか。コミュニケーション。

現実の真暗な夜に取り残された犬と、いまだ暖かい室内で夢を見ている僕の交信だったのかもしれない。

つみびとの歌
生はこれまでの生活、つまり人生か。または命か。職業によって人を区別する。生を樹木で例える。

要らないものであれば選定するのが仕事だから仕方がない。それともいらないところを切って、その後きれいな形にするまでが仕事なのか。被害者意識。自分のせいではない。

そもそもその生がどこから来たのか。その由来のすばらしいことに対して下手に剪定されたことに怒る。

もともとそれほどに激しい血、激しい生であれば、別に下手な剪定をされても起こらなくていいのでは。もともと激しかったのがより均衡を失った。

生を刈り取られたのが先か、もともと激しい性質だったのかそれが分からず、いらだつ。あせるのは何かっ未来を見ている。

そのような生や血という内界を見つめ過ぎて、そこから逃げるために外界へ目を向ける。あせりとは外界での何かを発見しようと先を急いでいる。

正攻法では難しいか。急いでいるときほど失敗が続くもので、それを愚かだと言えばそうかもしれない。あとから見れば、傍から見れば滑稽な姿であるがその最中は自分では気づきづらい。

原動力は被害者意識と、生来の血の激しさだから、そんな難しいことを言ってもおそらくは理解されない。また自分でも自分の内界を分析できない。

自分のこと。ただ可哀そうな木。地面に根を生やして、内界に閉じこもることしかできない。外界に足を運ぶことはできない。求めるだけでお互いているわけではないかった。

ただ空があるのみ。ぼんやりとした、遠近がわからなくなる。境目もない。風に吹かれるだけでそれに抵抗できない。頑固な樹皮はその強情さの表れ。

誰にも理解はされないだろう。もしかしたら別様でありえた。もっとうまく剪定されていれば自分はこんなに哀れになることはなかった。やはり被害者意識が続いているのか。

そのしぐさはすべて風が生むものである。その風はあの空からやって来たもの。自分はただ突っ立っているだけであり、後悔する心は誰にもわからない。

自分にいつも向けているような視線は他人には向けず、それは自分に向けすぎたため、怠惰の申し訳なさがあって、へつらう態度として現れる。

外界、他者を求める心があまりにも強すぎるために、自分ではもう自分を制御できなくなっている。そしてまた後悔しては、へつらいがちになっていく。




燃えると言えば夕日や朝日を思い浮かべるが題名が秋なのでこれは夏のことを言っているのだろうか。野は緑色。それが太陽に照るがまま。

曇り空。これから雨が降るのかもしれない。雨季が近づく。やはり空に支配されている。終わりのないように見える野も空と比べたら小さい。

人の、先人の言葉の通りに物事が進むのかもしれない。しかし呆然としているわけは何か。ぼんやりと空を見つめている。秋の到来を感知している。

蝉と言えばやはり夏の虫であるが、秋蝉などという虫がいるのであれば、それは夏のセミではなく、元気がない、閉めっぽい鳴き声かもしれない。雨に降られて元気なし。

草の中に隠れている。これから来る秋、そして自分たちの死に準備している。徐々に秋になっていく、ガラッと秋になるのではない。その基準は雨である。空から降ってくる。

空が野を支配し、雨を降らせ季節を動かしていくその中で、タバコの煙は上に上昇していく。秋が来たから雨が降るのか、雨が降るから秋が深まるのか。後者が人の云うところである。

秋蝉の鳴き声とか、雨の湿気とかでキレイではなくなった空気、夏のさわやかな空気ではない。それをより加速させる副流煙である。

もしかしたら野の空に対する反抗、空よりも広い野が広がっているかもしれないその地平線は、宿んだ空気によって見ることはできず、それは自分の、自業自得。

夏の蝉たちか、地平線に世の滅びを見出していたし、空と野の境目にはいまだ夏の亡霊、秋が除けた夏の記憶が蟠っている。

タバコをふかして見ても、状況、希望はどこにも見えず、ただそれで怒るとか、声を上げるでもなくただ座り込むというのがらしい。砂利の音を聞いて座る。

金色はすべて鈍いだろうと思う。曇り空の向こうの太陽、野を燃やしていた太陽、夏の主役が雲で隠れている。

とても高いから、頑張って首を曲げなければならず、しかしそうする気力もないので、ただうつむくだけ。しかし残念がっているとは限らない。安心しているかも。野が燃え、タバコが燃え。

諦めの境地にいればたしかに楽かもしれない。見上げて疲れたからその反動でうつむくのではなく、そもそも見上げようともしない。そこには太陽があるというのに。

味覚もぼやけている。淀んだ空気、淀んだ舌、美味しいという感想さえも出ない。悲しい。

秋も結局は冬の前段階である。ずっと曇り空の、蝉もいない、草木もかれる冬が来る。地平線にいる亡霊たちの仲間入りか。


誰かの言葉。前に何か言葉があった。そんなことを言うのであれば、譲歩。諦めか。提案のようでもない。開き直り。別れの言葉。出会わな変えればよかった適菜。

あいつのことを誰かにしゃべっている。真鍮の光に悪いイメージはないが、笑いを光で例えるのはよくある。

ドアは境界である。あちら側と向こう側。あいつは向こう側へ行ってしまったが、しかしそれは悲しい別れでもなかったのか。皮肉な笑い。もしかしたらこちらの内面を知ってか。

向こう側の世界がどうなっているかはわからない。しかし死んでいるものが笑っているというのも見たことがない。きっぱりと別れている。

元々汚いものがたまにきれいになったときのような。だからあいつというのはそもそも生者ではなくて、ドアを通してまた死者に戻った。それをこちらにわからせた。

自分が死者であることを忘れようにも忘れられない。別れ際になってそのぼろが出てしまう。前兆だったのだろう。しかし思い返したときの記憶。

長くしゃべる体力がなかったのかもしれない。不安がそうさせた。やはりほかのことを考えていることの表れ。他のことが口に出そうになって。

つまらないと思うようなことも、あいつにとっては貴重なことだった。ドアを出ていく寸前まで目を光らせていたのか。

すべてが前兆。誰かと話している二人。共通の人物について。回想しているのか。ここで「死」とはっきり。それをいわせたかった。

僕が星になるのではなく星が僕になる。元々ある星のどれかが自分になる。意味不明。そんなものただの案内人でしかない。

この間という意味。しかしあいつの消息はわからないまま。ドアを出ていく前の状況か。死の言葉が出てからの。困ったものね、というニュアンス。

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