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母おやとむすこ〜エーリヒ・ケストナーの詩〜

昨日に続き、ケストナーの作品です。

予告通り、『五月三十五日』から、わたしの好きな一編の詩をご紹介します。


『母おやとむすこ』

わたしのむすこはもうさっぱり手紙をくれない。
もっとも、復活祭にはくれたけれど。
わたしのことをなつかしく思いだし、
いつもかわらずおかあさんを心から愛します、とむすこは書いていた。

最後にわたしたちが会ったのは、
ちょうど二年九ヵ月まえだ。
わたしはよく鉄道のそばに立って、
ベルリン行きの列車を見る。むすこはベルリンにいる。 

ある時、わたしは切符を買った。
ベルリンにむかって行くところだった!
だが、わたしは切符売り場にもどった。
切符は引きとってくれた。

一年まえから、むすこには婚約者がいる。
その人の写真を送ると、むすこはもうまえからいっている。
結婚する時は、わたしを呼んでくれるかしら?
ふたりにキスしてあげたいんだけれど。

およめさんは、そんなことをよろこぶかしら?
およめさんはうちの子を愛するかしら? 愛される資格のある子だけれど。
わたしはたびたびこの世でひとりぼっちになったような気がする。
うちの子より母思いの子がいるだろうか。

わたしたちがいっしょにいたころは、ほんとに楽しかった!
同じ家に……同じ町で……
夜ねどこにはいっても眠らずに、わたしは列車の走る音をきいている。
あの子はまだせきをしているだろうか。

わたしのところには、あの子の子どもぐつがまだ一足のこっている。
今では、あの子は大きくなって、わたしをひとりぼっちにしている。
わたしはじっとこしかけているが、
おちつけない。
子どもが小さいままでいたら、いちばんいいだろうに。

岩波書店 ケストナー少年少女文学全集『五月三十五日』p.148〜150より

(ルビは省略。改行は原文ママ)


子どもの成長を願いながらも、子どもが大人になるのは少し寂しい。
矛盾する親心。

子どもは三歳までに一生分の親孝行をするという言葉もあります。