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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 37

37. 番頭ジャングイデとみごとな王手


婚姻届?

そこにいた誰もが耳を疑い、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。仮にそれがタタタタタと連射式であっても、気づいてわれに返るまでにはしばらくの時間を必要としたにちがいない。選択肢としては初めからずっとそこにあったのだから意外とまでは言わないにしても、受け止めるにはいささか唐突すぎたのだ。

だが、まだ先がある。粛々と話をすすめよう。

この重大な瞬間に居合わせなかったスピーディ・ゴンザレスはジャングイデを連れて戻ると、訝しげに言ったものだ。「妙な空気だな。何かあったのか?」

スピーディ・ゴンザレスのうしろには、背丈がその半分くらいしかない小太りの男が控えていた。白いワークキャップをかぶり、真っ白なひげをたくわえ、使い古された白い前掛けを腰に巻いて、なぜかそこに派手な装飾を施した短剣、ジャンビーヤを差している。ついでに言うと手も顔も小麦粉にまみれて真っ白だった。そのうえちいさな黒ぶちの眼鏡を鼻にのせて黒いTシャツだから、菓子職人というか、ほとんどパンダみたいなものだ。コロコロと転がりそうな樽みたいな腹をしきりにさすり、人の良さそうな顔をして、どことなく愛嬌がある。これが話に聞いた番頭ジャングイデだとすれば、すくなくともアンジェリカを出し抜く奸智に長けた男にはとても見えなかった。

「よいお返事はいただけそうですか、アンジェリカさん」とジャングイデはくしゃみをこらえながら言った。「エッキシ!」
「とおもうけど」とアンジェリカは顔をしかめて言った。「ガンラオヤンはいいの?」
「お気遣いなく。坊ちゃんにはアタシが責任をもって伝えます。エッキシ!」
「フーン」
「案内にふたりばかし遣わしたんですが、お会いになりませんでしたか」
「煩わしいから置いてきちゃった」とアンジェリカは言った。「そこらの川に浮いてるとおもうけど」
「エッキシ!」
「マズかった?」
「いえいえ!」とジャングイデは前掛けで鼻を拭きながら首をふった。「かまいませんです。どこにいるのかさえわかってればね。雷も落とせないようじゃ困ると案じただけですよ」
「職務怠慢てわけ?」
「そうですな。そんなようなもので」
「それはお気の毒」
「と言いますと?」
「彼らが仕事に忠実じゃなかったとしたら、そろって仲良くここに来たはずだもの」
「これはこれは」ジャングイデは饅頭みたいに丸い体を揺さぶって笑った。「エッキシ!われらがあたらしい花嫁御寮は、げにもおやさしい。つまり恩赦というわけで。身に余ることです。結構!迎えにやったふたりには目をつぶるとしましょう。では坊ちゃんのお気持ちはまっすぐにお受け止めいただいたと考えてよろしいか?」
「よろしいわ」
「よもや反古にされることはありますまいな?」
「そうできないように仕向けておいて、それはないんじゃないの」

ハイこれ、と言ってアンジェリカは先の封筒を差し出した。ジャングイデはそれを受け取って中をあらためると、ピョンと飛び上がるようにしてよろこびを露にした。「重畳!重畳!名にし負う大人物はさすがに話がはやい。坊ちゃんもさぞおよろこびになるでしょう」

いまいち事態が飲み込めずにいるスピーディ・ゴンザレスは、封筒の中身を尋ねるような顔つきでシルヴィア女史に視線を投げた。女史はつまらなそうに首をすくめて言ったものだ。「婚姻届だとさ」

じぶんの息子の縁談が思惑どおりに運ばれたのだから、つまらない顔をするというのはいささか矛盾しているようにもおもわれるかもしれない。だがそのきもちはわたしにもわからないではなかった。オブザーバーたるシルヴィア女史は、つるんとして素っ気ない単なる了承を期待していたのではなく、むしろ無理難題を吹っかけられたアンジェリカの度量を見てみたかったのだろう。アンジェリカともあろう者が、いっさいの抵抗なく無条件に要求を丸呑みしたのだから、わたしだって落胆をおぼえないわけにはいかなかった。

「いちおう確認しておきたいんだけど」とアンジェリカは言った。「それでいいのよね?」
「ええ、ええ。もちろんです。こちらからお願いするまでもなく、届けまでお持ちいただいたんですから何も……エッキシ!えー、言うことはございません。おふたりは晴れて法的にも結ばれるというわけで。いや、めでたい」
「肝心の花婿不在でね。ま、いいけど」
「お姉さま」となりのテーブルから、みふゆが不安げに発言した。「誰かと結婚するのですか」
「そうなの」とアンジェリカは微笑んだ。「おめでとうと言ってちょうだい」
みふゆは突然の成り行きに戸惑っているようだった。
「ハッピーなことなんだから」とアンジェリカはまた笑った。「心配しないで、みふゆ」
「そうですとも!」ジャングイデはみふゆに向かってバチンとウィンクしてみせた。「これ以上ハッピーなことは他にちょっと見当たらないくらいです。お姉さんにとっても、もちろんアタシらにとってもね」
「ま、ムリもないか。急な話だものね。ところでひとつ大事なお願いがあるんだけど、ジャングイデ?」
「ハイハイ。エッキシ!何なりと」
「一筆、書いてもらってもいい?今ここで」
「一筆、と言いますと?」
「スワロフスキのこと」
「はァ……」
その生返事を耳にしたとたん、雪女のようにアンジェリカの周囲が氷点下の冷気にみちた。「ちょっと……。あたし精一杯の誠意を見せたつもりなんだけど」
「もちろんです」とジャングイデは吹きつける冷気を涼しげに受け流した。わたしはこの男の凍てつくような腹黒さを垣間見たような気がした。「ええ、それはもう、エッキシ!この上ないくらいに。仰るのはつまり、身の安全ということでしょう?彼女について今後一切の手出しをしないというような?」
「そうね。ご不満?」
「いやいや逆です。逆です。ないからオヤとおもうんですよ。考えてもごらんなさい、縁談がまとまってなお盾に取る理由がどこにあるんです?こうなればむしろ……エッキシ!アタシらの媒酌人であり、キューピッドであり、何と言っても恩人じゃありませんか。涙ながらに感謝こそすれ、それを手にかけるなんて法がありますか。それでいったい、誰が得をするんです?」
「それで何?書きたくないってこと?」
「いえいえ、どうしてもと仰るのであればそれはお断りする理由もないですよ、もちろん」
「あたしだって別に婚姻届なんか持ってこなくたってよかったの。こっちがイエスと言えばそれでも済むはずなんだから。でも世間にちゃんと顔向けできたほうがいいだろうなとおもって、こっちを選んだわけ。これが誠意。その誠意に応える心意気はある?って聞いてるの。わかる?」
「ごもっともです」ジャングイデは前掛けで鼻をこすりながら頷いた。「そういうことなら、ご用意いたしましょう」
「形式ばったのはいらないわ。ここで書いてくれれば」
「ここで?」
「ここで。その封筒でいいじゃない」
「こんなのでよろしいので?」
「言ったでしょ。だいじなのは誠意で、紙切れじゃないの」

Sweet Stuff の番頭ジャングイデは顔をしわくちゃにしながらも、婚姻届を抜いた封筒にアンジェリカがどこからか取り出したボールペンでさらさらと念書をしたためた。印鑑よりも血判がいいというアンジェリカのいささか不可解な要求にも、腰に差したジャンビーヤを使っておとなしく従った。拒否する理由はどこにもない。婚姻届がある以上、どのみちこんなものはあってもなくても問題ではないのだ。彼は上機嫌だった。わたしはその様子を複雑なきもちで見つめていた。

「さて」とジャングイデは揉み手をして言った。「これでよろしいか?」
「よろしいわ、もちろん」アンジェリカはジャングイデの血判が押された念書としての封筒を受け取って、満足そうにうなずいた。「いいかんじ」
「ではこれで万事が万事、まるくおさまったというわけです。思いがけず証人となられる方々も大勢いらして、こんなにありがたいことはありません。ご覧になりましたか、シルヴィアさま?」
「そりゃみてたよ、ずっと」
「記念すべき一日です。そうはお思いになりませんか」
「どうだかね」とシュガーヒルの頭目は気のない返事をよこした。「ガンラオヤンがよろこぶなら、それでいいけど。おもしろくないといえばおもしろくない筋書きだね、どうも」
「何を言うんです、焦がれに焦がれた女性と結ばれるのに、およろこびにならないわけがないでしょう」
「そうかね」
「跡継ぎにも期待ができましょうし、そうなればこのシュガーヒルもますます盤石にしてすこぶる安泰というわけです」
それを聞くと、アンジェリカは言った。「ちょっと待って」
「エッキシ!」とジャングイデは盛大にくしゃみをした。「これは失礼。何でしょう」
「跡継ぎってなに?」
「なにってそりゃ、つまりいずれおふたりの間にお生まれになる……」
「それはまた別の問題でしょ」
「はァ、なるほど。いやたしかに、子宝というのは神様の思し召し次第ですからね。つい気が急いたようで」
「そうじゃなくて」とアンジェリカは首をふった。「体にふれていいなんて、あたし言った?」
あたりにそろそろと立ち籠め始めた冷気を察して、ジャングイデは真顔になった。「と言いますと?」
「その婚姻届のいったいどこに、あたしを好きにしていいなんてことが書いてあるわけ?」

それはみごとに意表をつく、鮮やかで破壊的なひと言だった。

王手というなら、ジャングイデはたしかに王に手をかけた。だがその実、厳然たる王の一手を差したのは他ならぬアンジェリカのほうだったのだ。


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