ピス田助手と鋼鉄の花嫁 10
10: おいしい生ハムの話
コンキスタドーレス夫人は去った。入れ替わるようにして、肉屋がやってきた。イゴールは「冷凍室へ行ってまいります」と言って出て行った。みふゆもいっしょだ。屋敷ではアイスノンという名の鶏を飼っているらしく(わたしは知らなかった)、みふゆが遊びたがっていた。その寒そうな名前からするとたしかに冷凍室と関係がありそうな気もするけれど、よくわからない。そのあたりのことはあまり深く訊かなかった。それよりも、肉屋の押した呼び鈴がジューと焦げるような音だったことのほうにずっと気を取られていたのだ。いったいこの屋敷の呼び鈴はどういう仕組みになっているのか?
わたしは応接室で肉屋と向かい合っていた。目の前のテーブルにはアンジェリカの部屋から回収した生ハムがあった。差し当たって処理すべき懸案があるとすれば、これだからだ。その隣にはもちろん、片っ端からこじ開けた缶詰の中身が手つかずのまま残されている。せっかくだから肉屋にそれをすすめようとおもったが、おもったときには肉屋も「わかってます」とばかりに早くもひとりでパクパクやっていた。おかげで余計な気を遣わずに済んだし、話がはやくて困ることはない。わたしはこれまでの事情をかいつまんで説明した。
「つまりこの」と肉屋は口のなかをみかんとシロップでいっぱいにしてもぐもぐやりながら言った。「ハムが気に入らないってわけですね」
「だからちがうというのに!いったい何を聞いてたんだ」
肉屋は大きな男だった。堂々たる体躯の持ち主というか、大柄というにはちょっと規格外で、ほとんど熊に近かった。どう考えても屋敷の扉をくぐってこれたとはおもえない。ドアノブを回すにしても豆をつまむような格好になるだろう。一抱えもある骨付きの生ハムがフライドチキンくらいの大きさにみえた。バミューダパンツからにょきりと突き出した右のふくらはぎにはりっぱな入れ墨があって、わたしの目を釘付けにした。
「しかしこりゃ本当に上等のハムなんですよ!お気に召さないってのは正直合点がいきませんね。世間じゃじぶんの太ももを質に入れてでも食いたいってもっぱらの評判なんですから。考え直すほうが賢明ってもんです、そりゃもう絶対に」
「わかってる。わかってるよ。ハムはりっぱだ。上等なのもみればわかる。でもそういう話じゃないんだよ」
「何しろ27ヶ月って長期熟成ですからね。これ以下じゃダメ、これ以上でもダメって期間の見極めが肝心なんです。その美味さときたら、神様からの贈りものと言っても叱られたりはしますまいよ」
「うん、そうだろうとも」
「わかりますかね」
「わかるよ、もちろん。でもそうじゃなくて…‥」
「うわッ」肉屋は相変わらずみかんや黄桃や洋梨をもぐもぐやりながら、ふと眉間にしわを寄せた。「何ですかねこりゃ。甘くないし、ずいぶん歯ごたえがある」
「ああ、それは」
「味も変だ」
「たけのこの水煮だから心配ないよ」
「やあ、たけのこですか。どうも流行りすたりには弱いもんで。なるほど、言われてみればたしかにちょっとした味わいと言えないこともないですな」
「流行ってないよ。まちがえたんだ」
「誰しもまちがいってもんはあります」と肉屋は後を継いで言った(が、つながってはいなかった)。「味をみなけりゃわかりません。何だってそうです。そうじゃありませんか?ほんのちょっぴりでも味わいさえすれば、恋したみたいに虜になること請け合いなんです。いえ、ハムの話ですよ!女に見立てても一向に問題ないという気はしますがね。どうかそんな悲しいことを仰らないでください。いえ、仰っちゃいけません、断固としてね!」
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