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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 36

36. アンジェリカの来店


書類らしき封筒を一枚手にしていることをのぞけば、アンジェリカはいたって普段どおりの様子にしか見えなかった。細身のジーンズにゆるやかな白いシャツをまとって、てらいがなければ気取りもない。おまけにビーチサンダルだ。まるで散歩に出たついでにちょっと立ち寄ってみたとでもいうような格好だった。差し迫った状況を鑑みればあんまり落ち着きすぎている。彼女にとって年貢とは、コンビニのレジで支払う公共料金とそう違わないものらしい。それにしたってもうちょっと緊張感があってもいいとわたしはおもった。

「あれ、ピス田さん」とアンジェリカは庭に足を踏み入れながら言った。「何してんの、こんなとこで?」
「お姉さま!」
「みふゆ?げッ、お母さまも」
「ご挨拶ね、アンジェリカ」とコンキスタドーレス夫人は和やかな調子でぴしりと鞭をくれた。「あなたのその鎌を回収しにきたんですよ。借りっぱなしだと田村がいうから」
「そのためにわざわざ?」
「シルヴィアとお茶がてらね」
「アンジェリカ!」とスワロフスキが再びケーキの刺さったフォークを振り回して歓迎した。
「スワロフスキ!」
イゴールのことを持ち出してよいものか判断がつかなかったこともあって、わたしは言葉をさがしながらうやむやに答えた。「心配してたんだよ」
「何を?」
「えー、いろいろ」
「イゴールは?」
「え、いや」こちらのためらいをパリンと叩き割る単刀直入の切り返しにわたしは言葉を詰まらせた。「いないよ、もちろん」
「アイスノンと賢いハンス号がいるのに?」
言われてみればそのとおりだ。うっかりしていた。むしろこの状況で知らんぷりをするほうがよほど不自然に違いなかった。「ハンス号はわたしが借りてきたんだ。あの変質者みたいのは肉屋の主人で……」
「肉屋?ちょっとまさか……」
「いやいや、ちがうよ。アイスノンじゃない。ないってこともないけど、そうじゃない」
「何なの、いったい?」
「あとで話そう。ひとことで説明するのはむつかしい」
「ま、いいけど。このギャラリーはそれで、いったい何ごとなわけ?」アンジェリカは眉をひそめた。「ドッキリ……ではないか、さすがに」
「よく来たね、アンジェリカ」とシュガーヒル・ギャングの頭目は穏やかに声をかけた。「ジャングイデが奥で待ってるよ」
「こんにちは、シルヴィアさん」
「奥に行くかね?」
「いいえ。べつに、ここでも」
「ここだとみんなが見物することになるけどね。あたしもふくめて」
「見物するようなことって、ありましたっけ?」
「あんたがよければそれでかまわないよ、もちろん」
「お茶会みたいで、素敵じゃありませんか」アンジェリカは心にもないようなことを言って、スピーディ・ゴンザレスのそばに腰を下ろした。「あんたまでいっしょになって、何してるわけ?」
「アイツが言ったろ」とスピーディ・ゴンザレスはわたしのほうを顎で指して言った。「ひとことで説明するのはむつかしい」
「じゃ、クリーム・ソーダひとつ」
「じゃって何だ。オレに言うなよ」
「ついでにジャングイデも呼んできてよ」
「じぶんで行け」
「あたしお客さんなんだけど」
「オレは店員じゃない」
「いいじゃないか、ゴンザレス」とシルヴィア女史は笑った。「呼んできておやり」
「アンジェリカ」とコンキスタドーレス夫人は言った。「鎌をお渡しなさい」
「今?」とアンジェリカは驚いたように言った。
「今でもあとでも、同じことでしょう。わたし、忘れっぽいの。だから、忘れないうちにね」

アンジェリカが持つ唯一の得物は、こうしてあっさりと取り上げられた。わたしからするとそれはアイデンティティのひとつにも匹敵するようなものだとばかりおもっていたが、ため息まじりとはいえ彼女はためらいもせずかんたんに引き渡してしまった。スピーディ・ゴンザレスは肩をすくめながらジャングイデを呼びにいき、ブッチはあいかわらず身を潜めるようにしておどおどとこちらを遠巻きに眺めている。わたしはアンジェリカがテーブルに置いた封筒にふと目をとめて、その何であるかを尋ねた。「これは?」

「あ、これ?」とアンジェリカは何でもないことのように答えた。「婚姻届」

当然というべきなのかどうか、その場にいた全員の呼吸が止まるのを、わたしは感じた。耳が取り外し可能な部品だったら、わたしだってふたつともポロリと地面に落としていただろう。ついでに目玉も落としていたかもしれない。まさかアンジェリカがそんなものを持参してくるとは、よもやおもってもみなかった。

大事なことだ。もういちど書き留めておこう。アンジェリカは、結婚を選んだ。言いたくはないがこのときのわたしにとって、それはとても残念なことだった。


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