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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 33

33. 手品師の気まぐれと意外な成り行き


その意外な申し出に、わたしはいささか拍子抜けした。「行かないって?」
「行けばアンジェリカを困らせるからだろ」とスピーディ・ゴンザレスが代わりに口をはさんだ。「もともとオレらの利害はそれほどズレちゃいないんだ。オレとここで昔話に紫陽花でも咲かせるのがいちばんいいってことさ」
「行かなくていいの?」
「かまいません。ただ賢いハンス号が…」
「ハンス号?」
「ここから Sweet Stuff まではいささか距離がございます」
「あ、そうか」
「免許はお持ちでいらっしゃいますか」
「持ってない」とわたしは首をふった。「そうか。誰かに運転してもらわないといけないんだ。ブッチはどうかな。ブッチ?」

パンツ一丁の肉屋は相変わらず心ここにあらずといった様子で、ふわふわと視線を宙に泳がせていた。

「何だってあのおっさんはあんなに惚けてるんだ?」とスピーディ・ゴンザレスが訝しげに言った。
「あんたが卵を割ったからだよ!」
「卵?卵って何のことだ」
「アイスノンがさっき産んだじゃないか。まさかじぶんがボコボコに殴られた理由もわかってなかったって言うんじゃないだろうな」
「アイスノン……ああ、あの鶏か。そういやアレも久しぶりに見たな。卵を産んだって?いつ?」
「あんたがぶん殴られる直前だよ」
「ふーん。そりゃ気がつかなかったな。しかしだから何だって言うんだ?どのみち無精卵だろ」
「肉業界じゃちょっとした騒ぎになるくらい貴重な鶏なんだそうだ。もちろんその卵も」
「へえ!何だ、そうなのか。そうと知ってりゃ手放さなかったのにな。どれ」と言いながらスピーディ・ゴンザレスはおもむろに立ち上がり、ブッチのほうへ近づいていった。
「手放す?」とわたしもブッチに目をやりながら、誰にともなくつぶやいた。

わたしたちが仰天して目を瞠ったのはこのあとだ。スピーディ・ゴンザレスは2本のタバコを口にくわえたまま、うなだれるブッチの前にかがんだ。アイスノンは格別それを気にするでもなく、ブッチの胡座の中心にすっぽりおさまってとろとろと微睡んでいた。わたしの視界にあった風景と言ったらこれだけだ。アイスノンが背を撫でられていたような気もするが、よく見ていなかった。気がつくと、スピーディ・ゴンザレスの右手のひらにはあの淡い水色の卵がひとつ乗っていた。縛っていたはずのロープがぱらりとほどけたときと同じだった。それに気づいたブッチも埴輪みたいに目と口を丸くしながら、二の句の継げない様子が見て取れた。

「卵だ」とわたしはおもわず声を上げた。「何で?」
「何でってこともないだろ」とスピーディ・ゴンザレスは事も無げに言った。「鶏は卵を産むもんだ」
「まるで飼ったことがあるみたいに手慣れてるじゃないか」
「こんなキテレツな鶏、飼ってたまるか」
「それにしちゃ扱いが……」
「こいつはもともとオレが旅先で拾ってきた鶏なんだ。それをアンジェリカに譲ったんだよ」
わたしが無言でイゴールを見やると、イゴールも同じ戸惑いの表情で首をふった。知らなかったらしい。
「あれ?でもそれとこれとは」とわたしは言った。「別なんじゃないの」
「知るかよ。お前が聞いたから答えただけだ」
「何をしたんだ、いったい?」
「さっきも言ったろ」スピーディ・ゴンザレスは卵をブッチの手に乗せながら、飄々と言ってのけた。「これくらいなら何でもないんだ。ホラおっさん、しゃきっとしろよ、いい加減」
「うーむ」とわたしは呆れた。「だんだん憎めなくなってきた」
「憎まれる筋合いなんかないって言ってるだろ、初めっから」
「ブッチ、車は運転できる?」
「運転?」ブッチも頭の中にたちこめていた霧が徐々に晴れつつあるようだったが、それでもまだ事態についていけないらしくどこかボンヤリとしていた。「いや、わっしは……うむ……?」
「ブッチもダメか。やっぱりイゴールに運転してもらったほうがいいんじゃないかしら」
イゴールはすこし思案すると、思いもよらない相手に向けて口をひらいた。「ゴンザレス」
「何だ?」とシュガーヒルの用心棒は反射的に返事をしてから、ハッとしたように身構えた。「何だ?おい、冗談じゃないぞ。まさか……」
「たのむ」とイゴールは穏やかに懇願した。「お前しかいないんだ」
「オレを数に入れるなよ!」
「なるほど」わたしはイゴールの機転に感心した。「わたしとしては連れてってくれるなら誰だろうと文句はないよ。あんたも見物したいって言ってたじゃないか」
「それとこれとは話が別だ。いい度胸だな、おい」
「貸しをつくっておいて損はないはずだよ」
「貸しだと?誰にだ」
「ムール貝博士の助手たるこのわたしにさ!」
「ご免だね。博士とだったら直談判のほうが話が早い」
「たのむ」とイゴールはもう一度言った。それはじつに真摯で誠実な、紳士の態度だった。
「おい、本気なのか、ひょっとして?」
「本気だとも」
「こんなことに本気を使うなよ」
「たのむ」
「やれやれ、何の冗談だ」スピーディ・ゴンザレスは忌々しそうに舌打ちした。「オレにはお前の貸しのほうがよっぽど腹にひびくよ、次郎吉」
「恩に着る」
「それからついでにお前も」と言ってスピーディ・ゴンザレスはわたしを指さした。「ひとつ貸しだ。博士の武器庫がひとつ空っぽになっても取り繕える、うまい言い訳を考えとくんだな」
「ゴンザレス」
「次郎吉は黙ってろ」
「べらぼうだな」とわたしは笑った。「クコの実が何トン必要になるか想像もつかないよ」
「クコの実?」
「こっちの話さ」

そういうわけでまったく思いもかけなかったことに、賢いハンス号のドライバーはシュガーヒルの用心棒スピーディ・ゴンザレスに交代と相成った。おかしな取り合わせだとはわたしもおもうが、もとより混沌としたガンボ・スープみたいな話の流れだ。今さらあれこれ考えてみてもしかたがない。

イゴールはスピーディ・ゴンザレスの乗ってきたパワフルすぎるピープル(文字通り原動機付きの自転車)を使って屋敷に戻ることになった。また、いまいち判然としないひとつの奇跡によってふたたびこの世にまろび出た宝石のような卵は、アイスノンがくたびれたときのために積んであったクーラーボックスへと、今度こそしっかり納められた。正気を取り戻したブッチがそのクーラーボックスを愛おしげに抱えている。

空回りをつづけてきたわたしたちはいよいよ最後の空回りに向けて、賢いハンス号を走らせた。

タクシーを拾えば良かったのではないか?と気づいたのは、残念ながらもっとずっとあとになってからのことだ。そわそわした状況にあるとそれだけで視界がぎりぎりまでせばまってしまうという、これはじつによい例だとおもう。


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