ピス田助手と鋼鉄の花嫁 13
13: ムール貝博士からの電話
わたしは借りてきた皿に切り出したハムをのせるよう身ぶりでブッチに伝えながら、しぶしぶ電話にでた。「もしもし」
「ピス田か?」
「わたしじゃないなら誰にかけたんです?」
「なんだ、ご機嫌ななめだな。アンジェリカはどうした」
「アンジェリカに直接かければいいでしょう!」とわたしはじぶんで言ってハッとした。そういえば事件のいちいちクレイジーな展開に気を取られすぎて、そのことをうっかり忘れていた。そうだ、ケータイがあったじゃないか?
「つながらんからおまえに電話しとるんだ」
つながらないなら、あろうとなかろうと結局同じことだ。わたしはがっかりした。
「今それどころじゃないんですよ」
「アンジェリカはいるのか?」
「いません。むしろこっちが訊きたいくらいです。切りますよ」
「待て。おまえスワロフスキは知ってるな?」
「甘鯛のポワレ教授の一粒種でしょう。かけ直しますから」
「そのポワレが大騒ぎしとるんだ。スワロ…」
どうも重要なことを言いかけていたような気がしないでもなかったが、わたしは気にせず通話を終えた。電源も切った。いまこの瞬間に優先順位をつけるとしたら1がハム、2がアンジェリカ、そして最後が博士だ。舞台への思わぬ闖入者は排除されて然るべきだし、どうしたってこうなるのはやむをえない。ひとまず忘れて、いそいそと話をハムに戻そう。
差し出された1枚のジューシーな羽衣は、花びらにも似て淡い桜色をしていた。吐息でやぶれてしまいそうなくらいに薄く、みずから羽ばたきそうなくらいに軽く、また今にも消え失せてしまいそうなくらい儚く、可憐な気品さえただよわせていた。そうなるまでの過程を間近に見ておきながら、いざふりかえろうとすると記憶に靄がかかってちっとも思い出せない。わたしがこれまでに食べてきたハムは加工された肉でしかなかったが、いま目にしているものはまるで初めからそのかたちで存在していたかのように、そこにあった。おまけに神の手を持つ当の本人が、肝心の手そのものにはあまり頓着していないのだから何をか言わんやだ。「息子が詩人なのだとしたら」とこのときわたしは言うべきだった。「そりゃあんたが親父だからだろう!」
「あんまりおだやかじゃありませんが」とブッチが様子を伺いながら口をひらいた。「よろしいんで?」
「問題ないよ」
「しかしなんだか、気になるじゃありませんか。あっしならお気遣いは無用ですよ」
「このくらいなら毎度のことさ」
「いやはや!恐れ入るとはこのことですな。しかしかさねて申し上げますが、まずはこの1枚を召し上がることが肝心です。眼福だけで腹がふくれるなんて、武士の高楊枝を気取ってみてもしかたありません。旦那が良くても舌が黙っちゃいますまい。味わい良しとなったら、あとはそれこそお好きなだけって段取りでいかがです?」
こうなれば固辞する理由もない。その道のプロが言うのだから案内におとなしく身をゆだねるのが本当だとおもった。さっきの魔法のような時間にくらべれば、と多寡を括っていたせいもある。わたしはブッチのごつごつとして熊みたいな太い指からしなやかな1枚の生ハムを恭しくつまんで、ひと息にポイと口にほうりこんだ。
すると突然、全身が波打つように総毛立ち、さわやかな一陣の風が体中の細胞ひとつひとつを縫うようにしてすり抜けた。と同時にかつて見たこともないバラ色の風景が峻烈な光をまとい、目の前から地平線へとまたたく間に広がっていった。まるで世界の壁紙が一瞬で貼り替えられたみたいだった。心やさしき本能が「戻れ!」と叫んだような気もするが、もうおそい。席に着いたとたんに音速の壁を突破したようなものだ。何が起きたのかもさっぱりわからない。わたしはとびきりのハムを味わった。そして気を失った。
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