ピス田助手と鋼鉄の花嫁 26
26. 淡い水色の予期せぬ決着
ここからの数分間は、あまり大したことが起きていない。相変わらずどういう仕組みでフルスロットルの自動車を追い抜くようなスピードが出るのかちっともわからない例の頑丈なピープルにまたがりながら、追いかけてきたスピーディ・ゴンザレスがバカのひとつ覚えみたいにライフルグレネード、でなければ大体そんなようなものをこちらに向けてぶっ放し、ぶっ放された薬筒をみふゆがまっぷたつにするという、投手と打者にも似たシンプルなやりとりを3回ほどくり返したのち、ライフルグレネードの使用をあきらめ、お互い車体が分解するような猛スピードで駆け抜けているにもかかわらずその状態から接近戦に持ちこんで、スピーディ・ゴンザレスはサバイバルナイフ、みふゆは脇差しでちゃんちゃんばらばらと車上で火花を散らし、アイスノンを抱きながら首をすくめてちぢこまるブッチの隣で激しいつばぜり合いをつづけるなか、わたしはといえば助手席で、M61バルカンが格納してあるマンホールへの道順をイゴールに指示しつつ、ときおりその方角をていねいに指でさしたりしながら、全体としてはおおむね順調に目的地への距離をちぢめていたのだが、先にやってみせたのと同じようにイゴールの急ブレーキによる時間差でふたたびピープルに体当たりを食らわせることをしなかったのは、前とちがって一瞬たりとも気の抜けないやりとりの中にみふゆが身を置いていたからであり、そうなるとわたしたちとしても道をまちがえないようにする以外できそうなことが他になく、したがってすぐ後ろでキンキンとはねかえる金属音を耳にしながらもうっかり談笑に興じるくらい泰然自若というか手持ち無沙汰にしていて、ありがたいことに気づけばゴールはもう目前だった。
そんなわけでいざ辿り着いたらその先どうするという肝心な部分については、あまり考えていなかった。人生には前向きと後ろ向きのほかに、どうせとりかえしがつかなくなるならいっそギリギリまで人生を楽しんでおいたほうがやがてわき上がる後悔も場合によってはちょっぴりで済む気がする、という横向きの選択肢もあるのだ。だいたい、考えたところでなるようにしかならないことをこねくり回してどうなるだろう?
意外なことに、わたしたちの対決を決着へとみちびくきっかけをつくったのは、アイスノンだった。そして語るには気の引けるちょっとした悲劇がここにはある。時間の経過を極力スローにして、ひとつひとつの瞬間を順に見ていこう。
わたしたちの視界にマンホールが入ってきたとき、まずイゴールがブレーキをかける旨を大声で告げた。これはもちろんみふゆに注意を促すための一声だったが、それを聞くとスピーディ・ゴンザレスはすかさず伸ばした足のつま先でトンとみふゆの胸を突いてブッチのほうへと押しやった。おそらく賢いハンス号の車体に足をかけて乗り移り、ブレーキと同時に前方へと飛び出してマンホールを確保するつもりだったのだろう。だがここで予期せぬ事態が起きた。驚いたブッチは「わァ!」と声を上げた。実際、このとき一番大騒ぎをしてもよい権利を誰かが持っていたとしたら、ブッチをおいて他にはいない。何しろアイスノンが卵を産んだのだ。
淡い水色をしてどこか透明感のある、アクアマリンの原石にも似たちいさな卵はじつに美しかった。わたしもあんなに美しい卵はかつて目にしたことがない。だがその感動もほんのわずかな間だけだった。未来ある明るい世界に初めての一歩を踏み出した卵は、抱えていたアイスノンの向きがわるかったことも手伝って、あろうことかスピーディ・ゴンザレスへとくるくると弧を描きながら向かっていった。
ブッチの衝撃は察するに余りある。スピーディ・ゴンザレスにとってはほとんど無意識だったにちがいない。奴はじぶんに向かって飛んできた丸いものを軽く払いのけるようにして、あっさり砕いた。数多の危険をくぐり抜けてきた身体の、自動的にして精確な反応だ。
忘れようとおもっても、この瞬間だけは忘れることができない。それまで事の成り行きにうろたえるばかりだった温厚で気のいい肉屋ブッチは、長年追い求めてきた夢のひとつが文字通り粉々になったことを悟ると、暗く冷たい深海の水圧でぺちゃんこになったかのような絶望の色を目に浮かべた。ひょっとすると気のせいだったかもしれないが、すくなくともわたしにはそう見えた。
というのも同時にブッチは鬼のような形相で「何をしやがる!」と空気をびりびり震わすような野太い咆哮を上げ、熊のように太く力強い二の腕でスピーディ・ゴンザレスの首根っこをがしりとつかむと、後方の地面にパン生地よろしくバシンと思いきり叩きつけたからだ。あっという間だった。
勝負はついた。マンホールは開けられもしなかった。
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