ピス田助手と鋼鉄の花嫁 12
12: ミケランジェロの手をもつ肉屋
おわかりいただけるとはおもうが、わたしはこのとき、この瞬間まで、まったくと言っていいほど肉屋に良い印象をもっていなかった。殺意すら抱いていたと言ってもいい。こんなことでもなければむしろ一聴の価値あるみごとな口上を斟酌してもなお、厄介なことこの上ない。よくしゃべる上に人の話を聞かないのだから、噴火する火山を相手にするようなものだ。バケツいっぱいに水を汲んだところでどうなるだろう?それでなくともわたしはじぶんの狂言回し的な役割にいささかうんざりしていた。屋敷の住人でもないのにうっかり応対を買って出たのがまずかったし、はっきり言ってしまえばもう帰りたかった。
しかしそうした苦々しいきもちは、肉屋が大きすぎる手でナイフをつまみ、その刃を生ハムの肌に当てた瞬間に吹き飛んだ。なぜもっと早く相手の言うとおりにしておかなかったのかとじぶんでも首をかしげるくらい、本当にあとかたもなく消え去ったのだ。それまでの視点はくるりと180度回転し、気づけばわたしの胸は賞賛と感動のスタンディングオベーションで満たされていた。
それはまったく、魔法のような時間だった。大人げないとわかってはいるけれど、いまこうして思い出してみても他に的確な表現が見当たらない。「天女の羽衣を脱がすように」と言った肉屋の言葉はまちがっていないどころか、大袈裟でもなんでもなかった。詩的というより事実そのとおりだったし、詩というなら肉塊から1枚のハムを切り出すその過程こそそう呼びたい。すくなくともわたしはそこに天女の羽衣をみた。そして美しくもかろやかなその所作といったら、アラビアンナイトに出てくる魔神でさえこうもうまくはやれないだろうとおもわれた。一塊のモモ肉と一本のナイフの間でいったいどんな密約が交わされたのか、職人技と紋切り型で言い表すにはあまりにも神秘的だった。
「大理石の中に天使をみたわたしは、彼を救い出すために彫りつづけた。(I saw the angel in the marble and carved until I set him free.)」というミケランジェロの言葉を、わたしはおもいだした。漱石の「夢十夜」にも、たしか仁王を彫る稀代の仏師運慶について同じようなことが語られていた気がする。ミケランジェロは大理石から天使を救い出した。運慶は木のなかに埋まった仁王を探り当てた。おなじようにして肉屋が天女の肩にかかった繊細な羽衣をその太い指でするするとやさしく脱がしたのだとすれば、これが魔法でなくて何だろう?
「も……」とわたしは口ごもった。「もう1回見せてくれないか」
「たいらげる前からおかわりですか!」とブッチはびっくりしたように言った。「そりゃちょっと気が早いってもんですよ」
「もう1回、いやちょっと待ってくれ。皿を借りてくる」
「いいですとも。お気に召したとすれば、あっしとしてもこれ以上の幸せはありません。しかしまあ、まずは味わってみることですな。話はそれからです。ハムが逃げるのを心配してなさるなら、ほれこのとおり、あっしが両の手でしっかり押さえておきますよ!」
わたしはじぶんのこじ開けた空き缶が大量に転がるキッチンから皿を1枚借りて戻ってきた。そうして奇跡をふたたび目撃しようとブッチを促したまさにそのとき、最悪のタイミングでわたしの携帯電話がゴリゴリと鳴った。「だれだ!」とわたしは思わず叫んだが、この耳障りな着信音はひとりしかいない。相手はムール貝博士だった。
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