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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 08

8: 死体よりも忌々しいこと


「スナーク?」とわたしはひっくり返りそうになりながら喘いだ。
「そうなの、みふゆ?」
「スナークの小指はみふゆが斬り落としたのです」
「そう。知らなかったわ」と夫人は言った。「でもだからといって小指のない男がスナークとは限らないわね」
「それでわかりました」イゴールの顔がすこし上気していた。「あのノートにはスナークの行動パターンと対策が事細かに記されているんです」
「ああ」とわたしは扉を破壊した際のやりとりを思い出しながら、じぶんの失策を悟って唸った。「それを言おうとしてたのか!」
「なぜ死体がお嬢さまのスナーク・ノートを手にしていたのかわからずに混乱していたのですが……」
「むむ。本人なら当然だし、ということはつまり……」
イゴールが肩を落としながら後を継いだ。「死体ではなかったのですね」

驚くのに飽きたと言ったばかりでそれを翻すのは気が引けるけれど、この日わたしがいちばん絶句したのはこのときだった。初めになんとなく思い描いていた構図がここでがらがらと音を立てて崩れ落ちた。あるいはうすうす感づいてはいたけれど、そうでなければいいと無意識に願っていたのかもしれない。こうなると事件性がうすまってホッとするどころか、却って忌々しかった。結果として謀られたようにもおもえてくるじゃないか?

スナークはアンジェリカの天敵であり、ある種のミステリーであり、1個の嘘であり、ほとんど観念みたいなものだった。影であり、蜃気楼であり、どちらかといえば悪いほうの夢だった。その名前はいつも現実をゆさぶる。でなければいつも非現実的な響きを伴って呼ばれる。初めからなかったのと同じ、と言ったコンキスタドーレス夫人のせりふは、そのままスナークの存在にも当てはまるのだ。その名があらわれたとたん、じぶんがフィクションであって登場人物のひとりにすぎないことを強引に自覚させられるのも腹立たしい。どうしてこのまま、わたしたちの世界をそっとしておいてくれないのか?こんなことなら缶詰の相手をしているほうが、いくらかましだった。

「気が利いてるよ」とわたしは舌打ちした。「骨折り損のお詫びが骨付きの生ハムなんだから」
「わたくしもまさか芝居とは考えもいたしませんでした」
「振り回されたこっちがいい面の皮だ。どうせならマスクメロンのひとつも足してくれりゃいいのに」
「しっかりなさい」と夫人は総立ちでブーイングを始めたわたしたちの脳細胞にふたたび鞭をくれた。「わたしがここに来た理由を思い出すべきね。わたしに言わせれば問題は初めからひとつしかありません」
「そうだ」とわたしは思い出して言った。「アンジェリカだ。そのとおりです」
「ハムもあります」とみふゆが付け加えた。
「そう、ハムもあるわね」
「このさき食卓にハムが出るたび思い出しそうで困るな」
「すぎたことはお忘れなさい。それがスナークの本分なのでしょう?アンジェリカに訊けば何もかもはっきりするとおもっていたけれど、その前にけりのつく話があるのなら、それにしくはないはずです」
「しかしノートもなくなってるんですよ」
「それはむしろアンジェリカ自身の問題です。わたしたちが気にする必要はありません。それよりもいま知るべきことは別にあります。イゴール?」
「はい、奥さま」とイゴールは答えた。「部屋には見当たりません」
「あ、鎌か!」
「たしかなの?」
「たしかです」
「なんてこと」と夫人は気落ちした様子でためいきをついた。
わたし自身としてはようやくひとつの安堵を得たところだったので、真逆とも言えそうなこの態度はちょっと意外だった。「どうされたんです?」
「どう、とは?」
「アンジェリカのことですよ」とわたしは言った。「すくなくとも安否だけはこれで確認されたも同然じゃありませんか?」
「アンジェリカの無事は初めからわかりきっています」と夫人はこともなげに応えた。「ただその根拠がはっきりしただけです。持ち帰る鎌がないなら、わたしとしては徒労というほかありません。まったく、あの子ときたら!」


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