ピス田助手と鋼鉄の花嫁 34
34. @Sweet Stuff
シュガーヒルには苺坂という可愛らしい名前の急な坂がある。坂のとちゅうには水神を祀る苔むした社が古くからあって、ここに一匹の大きな蛙が住みついている。いつのころからか、この蛙に完熟したイチゴを食わせると恋が叶うという埒もない噂がひろまり、イチゴのパックを持ったうら若き少女が蛙を探してうろうろする姿をときどき見かけるようになったことから、苺坂の名がついた。蛙のことは近所の年寄り連中も知っているが、どういうわけか「あれは酒飲みだからイチゴなんか食わない」と言ってにべもない。彼らは苺坂と呼ばずに、千鳥坂と呼んでいる。蛙はあまり姿を見せないのか、坂にチョークで描いた蛙の絵の口のあたりに、イチゴがひと粒置いてあることもある。けなげなことだとおもう。
もちろん、Sweet Stuff とは何の関係もない。そういえば近くにそんな坂があったと思い出しただけだ。
スピーディ・ゴンザレスの運転による道中は、まったく大騒ぎだった。平気で信号を無視しようとするのにはとりわけ閉口させられた。「人も車もないんだからいいだろ、別に」とまるで気にしないものだから、いちいち悶着になって面倒なことこの上ない。前にも書いたように賢いハンス号は空気を読む自動車だから、どうも様子がおかしいと気づいた時点でそれとなく減速を試みてくれるのだが、どうしても急ブレーキが多くなってしまい、そのたびに車ごとつんのめるような格好になった。賢いハンス号でなかったら、今ごろサイレンを鳴らす白いバイクに首尾よくナンパされていたはずだ。
もっとも、上機嫌のブッチとみふゆは後部座席でキャッキャとおもしろがっていたから、わたしが神経質なだけかもしれない。でなければ彼らが無神経であるかのどちらかだ。
Sweet Stuff は先の苺坂からすこしばかり東へ行ったところの、川沿いにあった。背の高い緑に囲まれて、いつでもそよそよと木々がさざめく、のどかな環境だ。とてもギャングの本拠地とはおもえない。店自体は瀟洒な一軒家なのだが、垣根で仕切られた敷地には道に面してちょっとした庭があり、ここでお茶をたのしめるようにテーブルとそれに合わせて椅子がしつらえてある。
川に架かる橋の上からななめ前方に店をみとめたとき、まず視界に飛びこんできたのはこの庭で和やかに談笑するふたりの婦人の姿だった。ここにくるまで倫理なきスピーディ・ゴンザレスと間断なく丁々発止のやりとりをくり返していたわたしはすでにくらくらしていたが、「あ」とみふゆが声を上げるのを耳にしてさすがにパチリと目がさめた。おもわず目をこらしたのもムリはない。わたしにも見覚えがあるシルエットをそこに認めたからだ。気疲れのためにぐったりとした賢いハンス号がへたりこむようにして店の前に止まると、みふゆはまっさきに車から飛び降りた。「お母さま!」
優雅にくつろぐふたりの婦人のうち、片方はまさしくコンキスタドーレス夫人だった。ハンス号からは見えなかったが、ふたりにはさまれてスワロフスキが幸せそうにケーキをほおばっている。もうひとりの婦人については最後に降りたスピーディ・ゴンザレスが後ろから耳打ちしてくれた。「あれが姐御だ。気の長いかただが、粗相はするなよ」
つまり、ある意味この物語全体の主賓とも言うべきスワロフスキに加えて、どういうわけかアンジェリカのご母堂、おまけにシュガーヒル・ギャングの頭目までが揃ってひとつのテーブルを囲んでいたというわけだ。成り行きから同乗してきたわたしたちだって相当に食い合わせのわるそうな面子だったはずだが、それすら霞む顔ぶれと言っていい。さすがにわたしも呆れ果てた。
「あら、みふゆ」とコンキスタドーレス夫人は微塵も驚きを見せずに言った。「連れてきてもらったの?」
「お姉さまを迎えにきたのです」とみふゆはうれしそうに言った。「スワロフスキ!」
「みふゆちゃんだ!」とスワロフスキがケーキの刺さったフォークを振り回して歓迎した。「みふゆちゃんもケーキ食べる?」
「まさかいらしてるなんて」とわたしはやや咎めるような口調で言った。「なぜここに?」
「ピス田さんが連れてきてくださったのね。ここでお会いできて何よりだわ」
「ご存知だったんですか、何もかも?」
「まさか。知りませんでしたよ。それこそ全然。ここに来るまでは、何もね」
「でももう、ご存知なんでしょう?」
「アンジェリカのこと?ええ、もちろん。シルヴィアに聞きました」
「だったらどうして……」
「どうして、とは?」
「おふたりは」とわたしは遠慮がちに尋ねた。「その、仇みたいなものじゃありませんか」
コンキスタドーレス夫人はそれを聞くとおかしそうに口元を押さえて答えた。「とんでもない!良き茶飲み友だちですよ、わたしたちは。昔からね」
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