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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 38

38. 駆け引きのゆくえ


「ふれてはならない?」
「そうよ。何か問題ある?」
「指一本も?」
「あたりまえでしょ」
「問題なら大アリです」ジャングイデの顔はみるみる赤くなった。「そんな夫婦がありますか!」
「他にあるかどうかなんて、関係ないとおもうな」
「アタシが求める結婚とはそんなものじゃありませんよ!」
「あたしさっき確認したよね?これでいいかって?」
「しかし……」とジャングイデは目を泳がせた。「しかしそれは……」
「言うことないって言ったよね?」
「こんなことでは坊ちゃんに報告ができん!」
「ぶじ結婚と相成りましたでいいじゃない。お望みどおりでしょ。何が気に入らないわけ?」
「ただしふれることまかりならぬと言い添えてですか」
「それはしょうがないよね」とアンジェリカは肩をすくめて言った。「そんな約束、初めからしてないんだから」
「そんな屁理屈がとおるとお思いか?」
「だから好きにすればいいじゃないの?晴れて夫婦になったんだから?ただそれはあたしを怒らせることにしかならないし、その結果どうなるかは責任もちませんて言ってるだけ」
「バカバカしい」とジャングイデは絞り出すように言って呻いた。「そんな都合のいい条件をつけて話を骨抜きにできるとお考えなら、それは大きな間違いです」
「あのね」とアンジェリカは冷気をつよめて言った。「あたしはその紙切れに書いてないことを認めないって言ってるだけなの。法的に夫婦となるのはかまわないし、公言されることも厭わない。あたしはガンラオヤンの嫁になることを承諾したし、それを撤回しようともおもわない。そっちの要求はぜんぶ丸ごと受け入れたのに、後になってあれこれ条件を盛りこもうとしてるのはそっちじゃないの!」
「それにしたって不文律というものがあるじゃありませんか」
「天下のシュガーヒル・ギャングが不文律をあてにするなんて、ちょっと間が抜けてるとおもうけど」
「仕切り直しだ」ジャングイデはポタリと落ちる脂汗を前掛けで拭いた。「これについてはあらためてきちんとお話をすべきです」
「ところがあたしにはもうその必要がないの」
「なぜです」
アンジェリカは手にした封筒を目の前でひらひらと振りながら言った。「スワロフスキについての念書はもうもらったもの」

筋金入りの傍観者たるわたしたちは、ここにきてようやくすべてを理解した。アンジェリカは初めからこの念書をとるためだけに行動していたのだ。過分に自発的すぎるようにおもわれた婚姻届にしても、こうなれば必要にして不可欠な一手だったことがよくわかる。法的な効力をもつこの1枚の紙がなければ、老獪なジャングイデから念書を引き出すことはできなかっただろう。シルヴィア女史でさえ「おもしろくない」とこぼしていたくらいだ。あの状況でこれを策略と見て取るのはむずかしいし、どうしたって不可能にちかい。何から何まで計算ずくであり、またその計算にほころびは一切なかった。

しかし何と言ってもわたしが唸らずにはいられないのは、アンジェリカが一抹の曇りもなく本気で結婚を受け入れるつもりでそこに来た、という点にある。婚姻届にはきちんと捺印がされていたし、彼女自身も撤回する気はないときっぱり言い切った。であればこそ微塵のためらいもなく詰め寄ることができたのだ。実際その気持ちにわずかでも別の意図が見え隠れしていたら話はこうもまっすぐすすまなかったにちがいない。アンジェリカは不退転の覚悟で肉を切らせ、そして骨をきれいに断った。彼女の強さとやさしさを、同時に見せられた思いだ。それはまったく、みごとな駆け引きだった。

「こんなのは無効です」とジャングイデは脂汗をさらに垂らしてギリギリと歯ぎしりをした。「当然その念書もみとめるわけにはいきません」
「無効ですって、シルヴィアさん」とアンジェリカはシルヴィア女史に向かって言った。「自分の意志で書いて、血判まで押したのに」
「ははは!」とシュガーヒル・ギャングの頭目はこらえきれない様子で笑い出した。「自分の意志で書いて、血判まで押してね?そのとおりだ。もちろん見てたとも。とぼけたことを言うじゃないか、ジャングイデ。このあたしの目の前で?」
「しかしこれでは」ジャングイデは青ざめた。「坊ちゃんに顔向けができません」
「しなきゃいいのさ。肝心なのは勝ち負けよりも往生際だよ。その紙切れをおよこし」
「しかし……」
「よこせと言ったんだよ、ジャングイデ」

ジャングイデはしぶしぶ婚姻届を手渡した。シルヴィア女史はそれを受け取ると、迷いもせずぴりぴりと縦に引き裂いた。
コンキスタドーレス夫人がそれを見て感心したように言った。「きもちのいい音」
「見立て以上のもんが見られて、あたしとしちゃ言うことは特にないね。たいした筋書きだ。こうなるとますます嫁にほしくなる」
「あらシルヴィアさん」とアンジェリカは言った。「あたし結婚する気でいましたけど」
「いいのさアンジェリカ。ひとまずあんたは自由だ。その念書も好きにしていい。そんなものがなくたってこのおチビさんの安全なら」シルヴィア女史はとなりに座ってきょとんとしているスワロフスキの頭に手をのせた。「あたしが保証する。あんたを出し抜く別の手をまた考えないとね」

するとそこへ、店から庭にひとりの少年が駆け寄ってきた。「アンジェリカ!」
「おやおや」とシルヴィア女史の顔がほころんだ。「もうひとりの主役がご登場だ」
「ガンラオヤン」とアンジェリカも笑った。「こんにちは」
ガンラオヤンと呼ばれた少年はまっすぐにアンジェリカのそばに向かい、彼女の袖をつかんだ。「来てたなんて知らなかった!呼んでくれないなんてどうかしてるよ、ママ!みんなで楽しそうにして!」
「そろそろ呼ぼうとおもってたとこさ」
「ガンラオヤン?」とわたしはびっくりして言った。「この子が?」
「そうとも」スピーディ・ゴンザレスが愉快そうに言った。「何をそんなに驚くんだ」
「まだ子どもじゃないか!」
「義務教育の真っ最中だからな。もっとおっさんだとでも思ったか?」
ガンラオヤン少年は言った。「どうしたの、こんなに大勢で?」
「相談してたんだよ」とシルヴィア女史はやさしく諭すように話しかけた。「どうしたらアンジェリカがおまえのお嫁にきてくれるかとおもってね」
「じつはすっかりその気で来てたんだけど」とアンジェリカは言った。
「言わなくていいんだよ、アンジェリカ。その話はチャラだと言ったろ」
「そうなの、ジャングイデ?」とガンラオヤンは責めるような目で問いつめた。「それで来てるの、アンジェリカが?」
「はい。いや、その」当然、ジャングイデの歯切れはわるかった。「そのはずだったんですが」
それを聞くとガンラオヤンはカンカンになって抗議しはじめた。「ダメだよ!どうして僕抜きで勝手に相談なんかしてるんだ」
まさか腹を立てるとは思いもよらなかったので、わたしたちはみな例外なくびっくりして彼をみつめた。
「いえ坊ちゃん、それがその、結果的には」とジャングイデはしどろもどろになって答えた。
「誰がそんなことを言い出したの」
「アタシです、坊ちゃん」
「アンジェリカには僕がプロポーズする!」ガンラオヤンは今やすっかり立つ瀬を失ったジャングイデを睨みつけて言った。「もう決めてるんだ。これ以上勝手な真似をしたらジャングイデ、おまえのケツに火を点けるぞ!」
その毅然とした態度をみたシルヴィア女史はコンキスタドーレス夫人に顔をよせて、誇らしげにささやいた。「これがあたしの息子だよ」

はりつめた青い空は夕暮れに発火して、端から赤くめらめらと燃え始めていた。夜のとばりがそれを消そうとシュガーヒル全体にゆっくりと音もなく降りてくる。急にメランコリックな気分になったのは、それまで棚上げしていた一種の孤立感みたいなものが不意にむくむくと頭をもたげてきたからだ。気がつくと、ひとりでスタスタと店に戻るスピーディ・ゴンザレスの後ろ姿が見えた。エンドロールを待たずに席を立つタイプだったらしい。わたしは彼の超然として不羈なふるまいを、すこしうらやましくおもった。

話はついた。かに見えた。実際そう見えたし、すくなくともわたしは先に言ったような心持ちから席を立つタイミングをそわそわと見計らっていた。だがそうならなかったのはこのすぐあと、それまで庭の外でひたすらちぢこまっていたブッチがアイスノンを小脇に抱えて、破廉恥な格好もかまわずに庭へ飛び込んできたからだ。

「旦那!旦那!」
「うわァブッチ」とわたしはパンツ一丁たる肉屋の痴態にあらためて目を瞠った。「こうして時間をおいて見ると紛う方なき変質者にみえるよ」
「教育上よろしくないのがきたね」とシルヴィア女史は呆れ顔で言った。コンキスタドーレス夫人もパリッと広げた扇子を口元に当てて、歓迎せざる意を控えめに示した。
「か、かかか」とブッチは言った。「川に船が」
「川に船」とわたしは確かめるようにくり返した。「ふつうだね」
「そんなのじゃありません」とブッチはぶんぶんと首をふった。アイスノンまでがつられて首をふっていた。「デカいんです」
「べつにデカくたって良さそうなもんだけど」
「だってそれが旦那、今にもはみ出しそうなんですよ」
「はみ出すって何から?」
「川からですよ!」
何を言っているのかさっぱり要領を得なかったので、わたしは物見がてら往来へ出てみることにした。場合によってはこの流れでそのまま帰ってしまえというけちな魂胆もあったのだが、ブッチの言う船を実際にこの目でみて、それどころではないということが腹の底からよくわかった。

船はじっさい川幅いっぱいに広がっていた。それどころか幅に劣らず見上げるような高さがあって、船というよりもはやりっぱな建造物にちかい。岸をずりずりとこすりながら匍匐前進のようにむりやり進み、浮くというよりは明らかに流れを塞き止めている。無遠慮な佇まいとその重すぎる威圧感はじっさい、怪物と呼んでちっとも遜色がなかった。おまけに無数の白い光を四方に煌煌と放ち、目を細めないことには眩しすぎて直視もできない。かんざしみたいなシルエットがあちこちから突き出していたせいか、うっかりすると派手な花魁道中のようにもおもえた。

誰かが夢だと言ってくれれば、ありがたくその意見に飛びついていただろう。暮れなずむシュガーヒルの中心地に最後の最後でその堂々たる姿をあらわしたのは、こともあろうに戦艦だった。


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