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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 11

11: おいしい生ハムの話 その2


「いったいどうすりゃわかってもらえるんだ?」とわたしは苛立った。「何ならまたあらためて注文したっていい。ただ今回は事情が事情だし、いったん引き取ってもらいたいだけなんだ」
「そこが謎ですよ!」と肉屋は言った。口のなかからみかんがひとつぶ、弾丸のように飛んできた。「引き取るってのはつまり、いらんってことでしょうが?そこが解せません。こういっちゃ何ですがね、注文は毎日ひっきりなしにくるんです。北は北極から、南は南極まで、それこそ地球中のありとあらゆるお客さまから熱烈なラブコールを頂戴してるってのに、うちの店ときたら数えるほどの人手しかありゃしないんですからね!追っつく道理がありませんや。予約は2年先までぴっちり埋まって、カミソリをはさむ隙間もない有様です。そこをどうしてもと仰るからあちこちに義理を欠いてまでご用意したのに、ねえ、そりゃ無慈悲ってもんじゃないですか?」
「何だかもう買い取ったほうが早いって気もしてきたな。…あれ、待てよ」
「こんなこともあろうかとね、ナイフを持ち歩いてるんです。何はさておき、この味を知るべきですよ。神さまが天国を舌の上にもおつくりになったってことを知るべきです。いやまったく、ふりつもる雪みたいにきらきらした岩塩の結晶が、眠れる肉にいったいどんな夢をみせるか、ご存知ではないでしょうね?」
「うん、いや、さっきの…えーと、あれ、何だっけな」
「何です?」
「詩的な言い回しに気を取られて訊きたかったことを忘れた」
「うちのバカ息子みたいなことを仰る!」と肉屋は笑った。弾丸みたいなみかんがまたひとつぶ飛んできた。「煮たり焼いたりできるとすりゃ、そう、詩もわるくはないでしょうな」
「息子?」
「うちには肉屋のくせに野菜しか食わない昆虫みたいな息子がいましてね」
「詩人なのかい」
「詩だか何だか知りませんが、こちょこちょしたものばかり書いてろくに働きもしないごくつぶしです。商売もあるし親でもあるしでこっちとしちゃ世間に面目が立ちません。いっそこいつも塩漬けにしてやりたいと常々おもってるくらいのもんで…おもいだした、ハムの話ですよ」
「わたしには親父のほうがよっぽど詩人らしく見えるよ。それより…」
「あっしが?」と肉屋は目を丸くした。「ご冗談を!自慢じゃないですがあっしは本を枕以外に使ったことなんてないくらいの男ですよ。読むのも書くのも肩がこってしかたありません。本を選ぶときは高さと固さで…そうそう、枕にするならこれ以上ぴったりのものはないってのが1冊あるんです、たしか象がなんたらって題名の」
「その本なら知ってるっぽいな…。でもいいんだ、その話は今度にしよう」
「そうです、ハムです。問題はね」
「いや、ハムじゃなくてさっきの…」
「ハム以外の話なんかしましたかね」
「してないけど、途中でちょっと気になることを言ってたような…」
「ハムでしょ?」
「ハムじゃない」
「こりゃハムですよ!誰がどう見たってそうです」
「ハムの話じゃないんだ」
「ハムの話しかしとらんでしょうが」
「そうだけど、ちがうんだよ」
「いいえ、ハムですよ」
「わかってる。これはハムだ」
「そうでしょう。だろうとおもってましたよ、あっしもね!」
「そうじゃなくてさっきの…」
「やれやれ」と肉屋は苦笑いをしながら肩をすくめた。「強情な御方だ!そういえばまだお名前を頂戴してませんでしたな。してましたか?」
「ピス田です」
「ピス田さん、これはハムですよ」
「わかってる!」
「まあまあ!そういきりなすってはいけません。尻尾をくわえたヘビみたいなこの堂々めぐりから抜け出したいとすればですよ、まずこのハムを味わうのがいちばん手っ取り早いと、こうあっしはおもいますね」
「わかった」とわたしは根負けして応えた。「わかったよ。いただこう」
「それが一番です。いや、何より!何より!あっしも初めからこうしてればねえ。どうも昔から気が利かんたちで」
「いや、わたしがわるかったんだ」とわたしは心から言った。張り合うだけムダだともっと早くに気づくべきだった。
「お互いさまとね!何ごとによらず、人生と人生の交点とはそういうもんです。昔うちの爺さんも…」
「その話はまたあとで聞くよ」
「そうでしたな!しかし空腹は最上のスパイスと言うじゃありませんか。腹が減るほど褒美が増えるってわけです、つまりね」
「ご機嫌のところ済まないけど、早いところたのむよブッチ」
「おや、あっしの名前をご存知で」
「胸に名札があるじゃないか」
「そうでした!いや、おかしいとお思いでしょうね。店主がわざわざ名札だなんて?」
「おもわないよ。だから…」
「こうみえてケンカっぱやいもんで、お恥ずかしい話ですが場合によっちゃこう、店先で客と取っ組み合いになることもままあるんです。名乗れと言われることがあんまりしょっちゅうなもんだから、そんなら初めから名乗っとこうとまあこういうわけです。そしたら女房が『まずケンカを減らせ』と」
「ハムをたのむよ」
「よござんす。いいですか、切り取るといっても無骨なやりかたじゃ全部が全部、台無しです。貼り付けていたものをはがすような按配、とでも言ったほうがいいかもしれませんな。言うなれば天女からシースルーの薄い羽衣をやさしく脱がすようにですよ、こんなふうにそうっと…」


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