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ピス田助手と鋼鉄の花嫁 07

7: 小指の欠けた男について


しかし事はなかなか、思いどおりには運ばないものだ。コンキスタドーレス夫人の登場によって、ひょっとしたら事態に進展が見られるかもしれないという期待をわたしは抱いた。無理からぬことじゃないか?……それまで立ちこめては濃くなるばかりだった霧を、刹那とは言えひと振りに薙ぎ払ってくれたのだから。ところが霧は今やふたたびその濃さを増した。もはや何が問題なのかもよくわからなかった。このときの驚きを、と綴りたいところだけれど、率直に言ってわたしはもう驚くのに飽きた。どのみち受け止める以外にとれる態度などないのだ。わたしたちは部屋の入り口にたち、その床にあるべきものがないのを見た。背中に短剣の刺さった男は血だまりといっしょに、部屋から消え失せていた。

こう書くと語弊があるかもしれない。正確を期そう。わたしが言いたかったのは、わたしとイゴールが見た男ではなくなっていた、という意味だ。死体ということなら依然としてそこにあると言い張ることもできる。ただあるのは人体ではなく、皿に1本のりっぱな豚モモ肉だった。

「生ハムじゃないか」とわたしは言った。「骨付きだぞ」
「そのようです」とイゴールも唖然として言った。
「床に置くなんて」とコンキスタドーレス夫人が眉をひそめた。
みふゆは特大のクリームソーダを両手に抱えて興味深そうにそれを眺めていた。
「謎がのこるのはわかる」とわたしはすこし苛立ち気味に言った。「解いてないんだから。でも解く前に増えるなら増えるでそう言っておいてくれないと困るよ」
「けっこうなことじゃありませんか」とコンキスタドーレス夫人は言った。「死体より生ハムのほうがずっといいわ」
「それはそうです。しかし……」
「ないものを詮議しても仕方がないでしょう」
「でもあったんです、たしかに」
「わたしが言うのは、今ここに一切の痕跡がないのならそれは初めからなかったのと同じ、ということです」
「わたしとイゴールが見ていますよ」
「それは根拠になりません」
「むむ」とわたしは二の句が継げなくなった。
「初めからなかったにしろ、誰かが片付けたにしろ、それがわたしたちに縁のない者ならこれ以上深入りする必要はありません」
「変わり身の術はどうですか」とみふゆがストローから口をはなして言った。
「そう、その可能性もあるわね、もちろん」
「だとしたら…」
「だとしたら、のこる問題はアンジェリカの行方のみです。そうね、イゴール?」
「いえ、奥さま」とイゴールは答えた。「痕跡はございません。しかし男と同時に消えたものがひとつございます」
「消えたもの?」
「お嬢さまのノートです」
「それだ」とわたしは言った。「男は左手にノートを持ってたんです」
「おやおや!」と夫人は呆れたように言った。「では100パーセント縁のない者、とも言い切れないわけね」
「面目ありません。先にお伝えすべきところを」
「ええ、まったくね」
「だとすると些細なことかもしれませんが、もうひとつ」とわたしは遠慮がちに付け加えた。「男には小指がありませんでした」
「小指が?」
「そうです。左手の」
「こゆび」とみふゆが特大のクリームソーダを両手に抱えたままつぶやいた。「スナークですね、お母さま」


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