一期一絵 理髪店 1991

 南(ナㇺ)さんが山を下りてくるのをみんな待っている。いつのことになるかは分からない。お天気次第かもしれない。

 いつもは奥山で炭を焼いている。県境の林道からさらに分け入った森の中に小屋掛けし、半年、一年がかりで奥山の木を切り倒し、炭を焼く。おそらくそのころ西中国山地で唯一の炭焼きだったのだろう。

 山主にしても誰も手を入れない放りっぱなしの森に手を入れてくれるのはありがたいことだ。山を下りた時に、良質の炭を二抱え屋敷の軒下に律儀に置いていくのが南さんのいつものあいさつだ。南さんは町に出てくると一週間ばかり、山主さんの作業員部屋に寝泊まりし、町のあちこちに顔を出す。南さんに会うのをみんなが楽しみにしている。

 三県境のどこかの山奥にいる。林道から山を見上げて炭を焼く白い煙が立ち上っている。南さんの居所が分かる。窯を築くとそのそばに横になるだけのスペースの寝小屋を拵える。炭を焼き終えると次の場所へと移動する。
 町の理髪店主北川さんは南さんの古くからの友人だ。ほぼ一週間のまち暮らしで一夜は飲みあかし、散髪をしてもらう。酒は好きである。床屋の北さんは南さんとは名前は対極だが昔からウマが合う。
 

 南さんは戦前に朝鮮半島からトンネル掘りやダム工事の人夫としてやってきた。貧しかったので、いい働き口があるという誘いにのった。そのころ半島から強制的に連れて来られ過酷な労働を課せられた者たちが多かった。南さんが北さんに言うには、自ら望んでやってきたという。仕事は確かにきつかったが、食うや食わずの半島の暮らしを思えばなんということはなかった。

 やって来た当初の仕事は鉄道の枕木のための材を奥山から切り出し、丸太にして運び出した。ダムの水路トンネルを掘る命がけの作業に比べれば格段に楽だった。戦争が終わると、半島に帰った者が多かったが、南さんは山の仕事を続けた。炭焼きの仕事は止むことがなく、四十年ほど続けることになった。

 南さんに出会ったのは、まだ細々と炭を焼き続けていたころのことだ。

 ちょうどそのころ西中国山地に生息するツキノワグマが里に頻繁に出没し、クリ園や民家のカキ、あげくには収穫前の稲を荒らすようになっていた。平成に入ってすぐのことだから1990年代のことである。それまではクマは奥山に棲み、人里にやってくることは稀できちんと棲み分けが出来ていた。

 南さんと炭焼き小屋で話したことがある。クマが人里に出没するようになったのは「炭焼きがいなくなったからよ」と言い切った。「そのころは山の谷ごとに炭を焼く煙が立っていたからクマも奥山に引きこもったものよ。クマも人が一番怖いからよ」。たしかに燃料といえば炭の時代。深い山々に幾筋もの炭を焼く煙がはい上がっていた。人の気配がクマを奥山に閉じ込めていた。

 三八豪雪と呼ばれる昭和三十八年の豪雪を機に山間の集落が消え、プロパンの普及とともに炭の需要も無くなった。炭も用がなくなり炭焼きも山をおりた。

 南さんはそれでも山に居残り、炭焼きで糊口をしのいだ。クマが山を下り人里に出始めたのは、炭焼きの煙が山から消えたからだ、と言い切る南さんの話にも合点がいく。

 三県境の奥山のあちこちで炭焼きを戦後ずっと続ける南さんは山を知り尽くす。

 春になり雪が消えると、ウドやフキノトウ、楤の芽を背負い篭と両脇に抱えて下りてきた。川に入ると、アマゴや鱒、蟹をなんなく掴み取った。

 南さんは町の誰からも慕われた。山から下りてくるのをみなが楽しみにしていた。一週間ばかり、毎夜誘われて酒を呑んで泊まった。一人暮らしのおばあさんも南さんを慕い、招き入れた。

 北さんによると南さんは話好きの人たらし。「誰からも好かれとった。頼まれればなんでも器用にこなし、小さな普請まで難やってのけた。ひっぱりだこじゃった」。

 山の木々の実り、雪崩の予測、生き物の出没、クマの冬ごもりの穴まで知り尽くしていた。山と山での暮らしを語り始めると尽きなかった。

 南さんが亡くなった、と聞いてのは私が山のまちを下りてしばらくたってからだ。雪の舞い始めた寒い朝、食料を詰めた篭を背負ったまま倒れていたらしい。山の小屋に帰ろうとしていた。

 酒が入るといつも巨大ダムが「わしの墓と思うとる」と言った。私も何度か聞いた。ちょうど国事業の多目的ダムが建設に着手していた。

 北さんや工務店の社長、呑み仲間がささやかな宴で南さんを見送った。いまはその多くが亡くなり、いまではまちで南さんの話も出なくなった。

 県境をなんどか車で越えるが、必ず立ち止まって四方の山を見あげる。白い一条の煙がのぼっていたら、と思うのだが煙は見えない。

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