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一期一絵 洲崎へ


洲崎灯台 1976

 行き詰まると房総半島をめざす。なぜかはわからない。二度、三度行くうちに癖になった。そのころは総武線で千葉に向かう。木更津でも犬吠岬でもいいのだが。その日は、やって来た電車が内房線で行きついたのは館山である。

 1976(昭和51)年の春のこと。館山駅からバスで洲崎まで行った。降りてみたが何もない。丘の上に白い灯台があり、行ってみた。

 バス停から海側の小道に入り、大きく回り込んだら酒屋の小店があり、脇に石段があった。数軒の家と畑を囲む木々の間をくぐり抜けると、すぐ海だった。

 店先にいたおばさんが「海の家はありませんよ。磯ばかりで。」と教えてくれた。以前、だれかにたずねられたのだろう。聞きもしないのに「この曇りじゃあ向こうの富士山も見えんなあ」と続けた。おばさんがいうように磯の浜に歩きやすいように木組みの通路が仕組まれていた。

 木道伝いに磯を行くと、老人が木組みの補修をしていた。端材を利用し、器用に仕上げていた。あいさつをすると作業の手を止めて「八月になると、伊勢エビが解禁になるんよ。漁師はいまそれを待っとる」という意味のことを云った。「あの辺に富士山が見えるんよ。残念じゃの」と海の向こうにあごをあげた。「わしは支那事変で声帯をやられてな」と聞き取りにくいしゃがれ声で続けた。

 うしろの灯台を振り向くと「わしは、大正生まれであれと同い年よの」と云った。15年ほど前まで灯台守がいたらしい。門の前が灯台長官舎、敷地内に2世帯の官舎があった。

 最初に来た時の坂の途中から描いた門と灯塔の絵が残る。門から敷地内に入ったという記憶がないから門は閉じられ、灯台は灯台守のいる有人管理だったのだろう。

 それにしても灯台のまわりには花が多い。ここもそうだ。ガクアジサイ、真っ赤なカンナ、トラノヲ、ホタルブクロ。

 どこの灯台も今は無人管理で退息所とよばれる官舎、宿泊舎は解体されたが、灯台守とその家族が育てた草花はそのまま生き延び、季節になると咲き続けているものも多い。アジサイ、水仙、スミレ、ヒマワリ・・・。

 洲崎からは野島埼に向かった。20年前はバスに乗ったのだろうが、今回はクルマで行った。野島埼は見学していないから遠くから眺めただけだったのだろう。

洲崎灯台 1997

 それからまた10年後に洲崎と野島埼を巡った。洲崎と野島埼では風の強さと波の荒さが格段に違った。内房と外房の違いだろう。

 野島埼の見学の際、切符売り場のおばさんが「風が強いんでメガネを飛ばされませんように」と云った。螺旋階段を上り、灯頂に出た。一周するうちに、風の向きが変わった。前から吹き付けてメガネを押さえていた。風が途中から背中から叩きつけた。聞いていなければメガネは吹き飛ばされていたところだった。嵐の時など波しぶきが灯台ごと洗い流すそうだ。塔の頂はぐるり太平洋の青い海原である。

 帰りは初めての時は国鉄だが、いまはJRになって久しい。駅でじゃこ天と豆と缶ビールを買い込み、呑んだ。座席に足を投げ出し、眠り込んで帰途についた。房総への旅はいつもこのくり返しだった。

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