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散歩の途中 9 秋刀魚

 「おい、おい。ちゃんときれいに食わんか。それじゃあ、あんまり魚がかわいそじゃ」
 言うまい、言うまいと思ったのだがまた口をついて出てしまった。杉岡さんは、また反省しきりである。
 N社の社員食堂は食品関連会社が一堂に集まった八階建てビルの最上階にある。杉岡さんは会社がまだ木造二階建ての水産加工会社時代から総務畑一筋に来て、この十一月の誕生日には定年退職である。
 港を見下ろすしゃれた展望食堂は、入り口にその日のメニューが表示され、カウンターに並んだ一品をトレイに取り進み、食べ終わったあとにカード精算される。
 杉岡さんがきまって腹を立てるのは魚メニューの水曜日。創業者でもあるN食グループの会長が、消費が低迷する一方の魚食の振興を図る全国魚食普及協会の旗振り役を務めていることもあり、社員食堂は魚メニューが目立つ。ことに水曜は、魚のオンパレードで水曜は展望食堂派と社外ランチ派と真っ二つに割れる。
 特に若い女性には焼き魚や煮魚定食はパスされがちなのである。杉岡さんは毎日、昼はきまってこの食堂だが、ここで出くわす関連会社の若い女性たちの食べっぷりが気に入らないのである。
 今日は脂ののりきった秋刀魚である。大根下ろしが添えられ、ほうれん草のお浸し、きんぴら牛蒡、卯の花のいずれかを一品選べる。秋刀魚の細長い皿と一品をトレイに取り進むとおばちゃんが熱々のごはんと豚汁を椀一杯についでくれる。
 杉岡さんはいつも自動販売機の側の一番奥の席を選ぶ。港を見下ろせる窓際の席は仕事に追いまくられ、わずかな時間を惜しむかのように飯をかき込む若い人たちに譲る。それなのに陽光に表情を絶えず変える港に一瞥もくれずにそそくさと職場に戻る連中が多いことか。
 杉岡さんの席はこのごろ若い女子社員に敬遠されている。同じテーブルの対面に座るとついつい目の前の若者の食べ方が気になって仕方がないのである。一度二度ならず、あまりの乱雑な魚のつつき方に「もうちょっときちんと食べないか」と言ってしまったのだ。
 ほぼ全員がN食グループの社員なのだが、関連の冷凍部門や輸送会社の若手までは判別がつかない。最近は、同じ制服を着ているものの人材派遣社員も多いからだ。そろってタヌキのような目をした女子三人組に「オヤジ、うざっ」と吐き捨てられたこともある。
 その日は、塩鯖だったのだが、一人は尾身をさんざんつつき回して「うわっ骨がある」と身をちょちょいとつついて残してしまった。隣の腹身を選んだ女子はほろりはずれる片身をつまみ皮を気味悪げにはがして口に運んだ。骨のある側の軟らかな脂部分はそっくり残しておろし大根を箸でぐちゃぐちゃとつつきながら男の話に夢中だった。
 タヌキ目の女子社員に「うざっ」と睨まれて以来、混み合って相席になっても若者たちの皿から目をそらすようになった。
 東北の海岸で秋刀魚の豊漁をニュースが伝えていた。秋になって食堂に初めてのお目見えである。杉岡さんは「港を見下ろしながら旬の秋刀魚を食べるのももう最後だな」と箸を付けた。
 杉岡さんは、旬の秋刀魚をいとおしむように箸で身と骨を軽く押さえた。表身を食べると骨と裏身の間にさっと箸を入れ裏身を外した。きんぴらと豚汁、焼き秋刀魚は一番好きなメニューだったな、としみじみ味わった。皿にはきれいに身のなくなった骨が真一文字に横たわっていた。
 お茶を一杯すすっていると、「ここいいですか」と目の前に真新しい制服を着た女子社員が座った。胸には関連の倉庫会社のマークがあった。小さく合掌して、「わっ、うまそっ」といいながら食べ始めた。
 杉岡さんはお茶を飲みながら、なるべく見ないように一息ついた。四十年近く勤め上げ、最後は本社ビルと港一帯にある倉庫、土地の管理が主な仕事だった。あと半月ばかりとあって事務の引継ぎに追われていた。
 さて、と立ち上がろうとして目の前の女子社員の秋刀魚をちらり見た。その娘もじっと杉岡さんの皿を見詰めていた。驚いたのは杉岡さんである。細長い皿に、同じような真一文字の骨が横たわっているのである。それも杉岡さんの皿よりももっと小骨までくっきりさせて。
 杉岡さんは思わず顔を見てニコッと笑った。彼女はいたずらっぽく「猫みたいでしょ」と言って返した。「オジさんも猫ですね」と互いの皿を見詰め合った。
 「じゃあ、また」と杉岡さんは返却口に並んだ。振り向くと、彼女は港のほうを見ながら旨そうにお茶を飲んでいた。「オジさんはないだろ」と思いながらも、少しいい気持ちになっていた。


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