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散歩の途中 10 エレベーターガール

 ツナ子さんのことは青葉のおかみさんから聞いた。へえーって思ったが、それが本当なのかどうかは知らない。

でも、ありそうな話ではある。

 デパートのエレベーターに乗っていたツナ子さんがいきなり各階のボタンを押しながら姿勢を正して「いらっしゃいませ。ご利用の階をお知らせください」としなやかにやるらしい。

 その話なら知っている、という常連客が何人かいた。トキワデパートのエレベーターに乗ると、おばあさんが勝手にエレベーター嬢をしているというのだ。

 もちろん大まじめ。だから結構、おかしくて、ひそかに人気らしい。デパート側も気づいていて担当がエレベーターに乗り込むと、そ知らぬ顔して屋上で降りてしまう、という。

 トキワの総務部の村岡さんにおかみさんが質したところ、ちょっと困惑した表情で「うん、デパートとしては別に実害があるわけでもないし...」と濁した。

 村岡さんによると、決まってツナ子さんが現れるのは午前十一時。一階の化粧品と小物を見回って、地下の食品売り場へ。惣菜とご飯のパックとお茶を買い、地下からエレベーターに乗り込む。

 立つ位置は各階の押しボタンのある扉わき。1からRの場所を確かめるようにさーっとなでて姿勢を正す。

 「うえへまいりまーす」。ちょっぴり鼻にかかった声でそれははじまる。いつの間にか真っ白い手袋をつけ背筋はぴんと伸びている。開いた扉の腹にさりげなく手を添えて、客を招き入れると「いらっしゃいませ。各階に止まります。ご利用の階をお申し付けください」と続ける。

 客は一瞬、おやっといぶかしげな表情を見せるが、ツナ子さんの堂に入った口調に、懐かしさを感じてしまう。

 もちろんデパートのエレベーターから案内の女性がいなくなって久しいのだが、ツナ子さんは「五階、紳士服」「八階は書籍文具売り場でございまーす」と滑らかだ。

 青葉のおかみさんによると、オールドファンが何人かいるらしい。その時間を見計らって、初老の紳士が通っている、という。「本当かしら」と村岡さんに質したところ笑って、否定はしなかった。

 ツナ子さん。年齢不詳。見ためは若いが八十は少し過ぎている。田舎のばあちゃんがそれくらいだから見当がつく。品川荘アパートの最古参の住人でボクの部屋の斜め前。ドアに古い名刺の裏に「高橋ツナ子」とか細い文字で貼ってあるんでツナ子さんと呼んでいる。

 時々、会話を交わす。青葉で出会えば軽く挨拶する程度だ。青葉のおかみさんとは仲よしのようだ。

 ツナ子さんは、店明けの時間に週二回ほど青葉にやってくる。一番奥の決まった席に座ると、軽くつまむ程度の注文をし、ぬる燗で一杯やる。好きなのは貝の入ったぬた、ほうれん草の和え物。もう五、六年はこのペースである。いつも一人で次の客がのれんをくぐるころに引き上げる。

 おしゃべりでないツナ子さんが珍しくおかみさんとの世間話にのってきたことがある。若いころの話。ツナ子さんは昭和の終わり頃、県庁所在地の老舗デパートに勤めていたらしい。

 県北部の町の商業高校を出てデパートに就職し、庶務課で伝票整理をしていた。一年後、エレベーター担当のサービス業務課に回された。

 事務仕事にようやく慣れたころ、いきなり店の最前線に駆り出された。引っ込み思案で人前に出るのはなにより苦手だった。どうなることかと不安だった。ツナ子さんの清楚な雰囲気と姿勢の良さが店幹部の目にとまったらしい。

 わずか二週間の研修で、いきなりハコを任された。階ごとの売り場案内、週ごとに変わる大催し、客のあらゆる問い合わせにすぐさま応じられる機敏さ、即応能力が問われた。慣れぬツナ子さんは頭が真っ白になって立ち尽くした。
 知らないことが多すぎた。閉店後、八階ある店内と屋上遊園をくまなく歩き回った。一階正面の総合受付の先輩からも日々細かい情報を貰った。

 半年後には、ツナ子さんは一番人気のエレベーターガールになった。乗り過ごしてツナ子さんのハコに乗ろうとする客が相次いだという。二十代は懸命に続けた。

 キャリア十年でチーフとなり若い社員を指導した。毎日、立ち続けて、四方に目配りし、デパートの顔としての気遣いは年齢を重ねるとともにきつくなった。まわりの若い社員のはつらつぶりが眩しくなった。
 他人に見られていることに圧を感じるようになり、立ち続ける両脚がときおり痺れるようになった。声もくぐもりがちとなり「もうそろそろ潮時」と一線を退いた。

 しばらく百貨店にいたが十五年を節目に退職し、この町に移り住んだ。結婚もしたらしいが詳しいことは知らない。品川荘アパートは古びているが平成半ばに建てられた。ツナ子さんは新築時からの入居なのでこの頃からここで一人暮らしだ。

 駅に近いトキワデパートはツナ子さんの散歩コースの中途である。地下の総菜売り場で選ぶと、天気が良ければ遊具のある屋上のベンチでひと休みする。
 地下から一基だけの無人のハコに乗り込む。Rのボタンを押す。ふと閉まるドアに手が伸び、乗ってくる人がいないかを確認していた。1から8、そしてRのボタンをそっと撫でる。ドアが開くごとに口の中で呟いてみた。一階は「特選品」二階は「婦人服雑貨」とすらり出てきた。

 一日誰ともしゃべることのない日も、デパートのハコに乗れば胸がはずんだ。翌週から月曜日の新聞折込のトキワだよりを丹念に読み込むようになった。
 「7階催し場では本日から北海道物産展が開かれています。年に一度、北の味覚を存分にお楽しみください」
 むかし使った薄手の白手袋もそっと用意した。きょうも地下食品売り場にハコが降りてくる。ドアが音を立てて開く。いつも緊張する。これがたまらない。ツナ子さんの背筋がいつのまにかピンと伸びている。


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