伝え繋いでいくということ
世の中はとても便利だし物事はとても速く効率的に処理されている。面倒なことは人間がやらなくても他の何かが代替してくれていて、煩わしいことや人の手では非効率なことは何もしなくてもいい。事によってはどうやってそうなるのか知らされることのないまま、毎日が過ぎていく。
考えて試して何度もしくじりながら悪戦苦闘してひねり出すという作業を毎回しなくても、方法が成り立っていて人がその過程をいちいち慮ることなく結果を得られるものについては、考えようとしない限りその過程を意識することなく手順を省いて効率よく結果だけを享受できるシステムが生活の至る所に在り、毎回奮闘しながら生み出すのは時間を浪費する馬鹿のやることだと言わんばかりに省略され、その結果だけを効率よく得て暮らしている。
今この世界では、その速度についていくようにして暮らさないと生活が成り立たなくさえなってしまう。それではよくないと思ってもやめられるものでも降りられるものでもなく、この列車に乗っていないと社会の構成員の一人として暮らすができない。
そんな世界の中の一粒であっても、たまにこうして自問自答するときが在る。考えたところで何も変わらないしこの暮らしをやめられるわけがないがそれでも悪足掻きするように、坐り考えるときが在る。
過程を知らなくていいのか。
知っているだけで解った気になっていないか。
何かを考え行動に移し、それを他者に見せようとするとき。
自分の言動がどれほど他者に響くかということを考えようとするとき。
言葉ではない何かがそこに確実にあって、それによって人の心が動くということが確かに在る。
言動に説得力が在るかどうかは、その過程を実体験したかどうかによるのではないかと思っている。
知識として脳に記憶しているだけでなく、身体性を伴う経験を持っているかどうかが、未経験者のそれとは比較にならないほど格段に、結果を提示したときの重みや深みとなり、それが説得力となって現れるのではないか。頭が知っていることと、身体が覚えていることとは、まったく別なものなのだと思う。
そういう意味で、面倒で多くの時間と労力を費やしたとしても、或る者に時間の無駄だと切り捨てられたとしても、自分の身体が文字通り身を以て体感するということは、ときに必要なのではないか。
時間は有限だ。ある程度効率よく使っていかないとそれこそ時間(の塊である命そのもの)を浪費することになる。しかし、今この時に体感できることは体験しておくべきではないだろうか。非効率でも面倒でも、その結果の意味を理解できるのだとしたら、と思って、日々を丁寧に生きるという意味でやってみるべきではないかと思っている。
結果だけが残された世の中では、物事の本質はどこかへ捨て去られ”何故そうなる(する)のか”という意味が理解されることなく結果だけが残されることになり、やがてそれは、意味の解らないこと=意味が無いこと=無くていいこととして結果さえも捨て去られ、伝承がそこで途絶えてしまう。そして無くなって初めてその”有用性と意味”が再考されるがしかしそれは後の祭り、自体が無くなったことの後悔だけが残ってそこから”味わい”が無くなる。色も匂いもない無味乾燥で殺伐とした、深みも厚みもない”結果だけを残す”システムが世界に残る。必要なものだけがただ効率よく生産され続ける世界。
そんな風になったりはしないかと、たまに思う。
知識だけで知った風にひけらかし賢しらに振舞う者に成ることなく、先達と同じ苦労を経て初めて解るものを自ら体感し、それを後の者たちへ体験を以て伝えられる人間で在れ自分よ、と言い続けて生きたい。
自分も、先達と同じく、長い長い流れの中のたった一滴でしかないのだから、いただいたものは残らず次の一滴たちへ伝え繋いでいく、それが生まれてきた唯一の意味なんだろう、と、思っている。
これまでの物事や歴史は、今自分が生きるために作られてきたものだなんて厚顔無恥で傲慢な考えをしないように暮らしたい。
今ここにあるもの伝わってきた物事はみな、自分のためじゃあなく、次の人、そのまた次の人へ伝え、願わくば絶えることなく続いていく長い長い環を作るための一部だという想いを以て、自分は生きていたい。
そうすると、多少つらいことがあっても、上を向いて生きていける気がするんだ。